悪女日野富子は応仁記の創作か?
日野富子が息子の足利義尚を将軍にゴリ押ししたという悪女伝説は、速くても応仁の乱の半世紀ほど後に成立した軍記物「応仁記」という書物に出てきます。
そこでは、富子が山名宗全を義尚の後見人として頼んだ事から山名宗全と細川勝元の対立が激しくなり応仁の乱に繋がったとし、日野富子悪女伝説の元になりました。
しかし、応仁記以外には、富子が山名宗全に義尚の後見人を頼んだという記述は見出せず、近年では、それは応仁記の虚構ではないかと考えられているようです。では、富子は終始一貫して東軍の細川勝元についていた筋の通った女性で悪女ではなかったのかというと、そうとも言い切れないそうです。
これは、応仁記が軍記物だとしても、そこに書かれた富子に関する悪評も、ある程度は本当と考えられ、富子に悪評がなかったとまでは言えないとする研究者もいるからです。
普通に考えても南北朝から室町時代は、戦国時代も比較にならない程の離合集散と裏切りの連続であり、その時代に当たり前のように生きていた富子が、私は東軍につく!細川勝元一筋!と考えていたかどうかは疑問でしょう。
やはり富子も水面下では山名宗全にパイプがあり、細川勝元ともつかず離れず、どちらが勝っても生き残れるように二股を掛けていたと考えるのが自然ではないでしょうか?
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日本史ライターkawausoの独り言
息子の足利義尚の死後、妹の産んだ足利義材を10代将軍に推した富子ですが、義材の父である義視と上手くいかなくなり、管領細川政元や、政所執事の伊勢貞宗と組んで、明応の政変を興して義材を追放し、義政の異母兄、足利政知の子である足利義澄を11代将軍に迎えています。
この変わり身の速さと老獪な政治力を見ると、日野富子が悪女と貶められただけの歴史の犠牲者であるとはちょっと思えない、ふてぶてしさも感じますね。
参考文献:新説の日本史(SB新書)
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