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日野富子は足利義尚を将軍にゴリ押していなかった?

16/04/2021


 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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悪女日野富子は応仁記の創作か?

水滸伝って何? 書類や本

 

日野富子が息子の足利義尚を将軍にゴリ押ししたという悪女伝説は、速くても応仁の乱の半世紀ほど後に成立した軍記物「応仁記」という書物に出てきます。

 

細川勝元

 

そこでは、富子が山名宗全(やまなそうぜん)を義尚の後見人として頼んだ事から山名宗全と細川勝元(ほそかわかつもと)の対立が激しくなり応仁の乱に繋がったとし、日野富子悪女伝説の元になりました。

 

細川勝元vs山名宗全(応仁の乱)

 

しかし、応仁記以外には、富子が山名宗全に義尚の後見人を頼んだという記述は見出せず、近年では、それは応仁記の虚構ではないかと考えられているようです。では、富子は終始一貫して東軍の細川勝元についていた筋の通った女性で悪女ではなかったのかというと、そうとも言い切れないそうです。

 

これは、応仁記が軍記物だとしても、そこに書かれた富子に関する悪評も、ある程度は本当と考えられ、富子に悪評がなかったとまでは言えないとする研究者もいるからです。

money(お金・宋銭)

 

普通に考えても南北朝から室町時代は、戦国時代も比較にならない程の離合集散と裏切りの連続であり、その時代に当たり前のように生きていた富子が、私は東軍につく!細川勝元一筋!と考えていたかどうかは疑問でしょう。

 

やはり富子も水面下では山名宗全にパイプがあり、細川勝元ともつかず離れず、どちらが勝っても生き残れるように二股を掛けていたと考えるのが自然ではないでしょうか?

 

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三国同盟を潰したあの男

 

 

日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

息子の足利義尚の死後、妹の産んだ足利義材を10代将軍に推した富子ですが、義材の父である義視と上手くいかなくなり、管領細川政元(ほそかわまさもと)や、政所執事の伊勢貞宗(いせさだむね)と組んで、明応(めいおう)の政変を興して義材を追放し、義政の異母兄、足利政知(あしかがまさとも)の子である足利義澄(あしかがよしずみ)を11代将軍に迎えています。

 

この変わり身の速さと老獪な政治力を見ると、日野富子が悪女と貶められただけの歴史の犠牲者であるとはちょっと思えない、ふてぶてしさも感じますね。

 

参考文献:新説の日本史(SB新書)

 

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カワウソ編集長

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日本史というと中国史や世界史よりチマチマして敵味方が激しく入れ替わるのでとっつきにくいですが、どうしてそうなったか?ポイントをつかむと驚くほどにスイスイと内容が入ってきます、そんなポイントを皆さんにお伝えしますね。日本史を勉強すると、今の政治まで見えてきますよ。
【好きな歴史人物】
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