戦国時代から江戸時代の間に存在した安土桃山時代の後半に存在した、豊臣秀吉を中心とした豊臣政権の特徴について紹介します。織田信長の家臣団として成長した地方時代から信長の後に天下を統一した政権。その後崩壊するまでを徹底解説します。
地方政権時代
主に秀吉が天下を取ったときに存在した豊臣政権開始時期については諸説あります。1583年の大阪城築城時、織田信雄が安土城から退いた時期、あるいは1585年で敗北した信雄が秀吉に臣従した時などが挙げられます。
しかし豊臣政権を考えるときにはその前の地方政権時代も視野に入れましょう。
大名ではない農民出身の秀吉は、当初は家臣そのものが乏しい状態でした。やがて信長の美濃侵攻時から、竹中重治(半兵衛)などの武将が、秀吉傘下に入ります。こうして徐々に家臣団が出来つつありました。
信長が京都に入ったころの秀吉は、代官的な立場です。やがて北近江の浅井氏が滅ぼされると、その場所を信長から所領として与えられました。そして長浜に城を築きます。
長浜時代には石田三成や加藤清正といった、のちの豊臣政権を支える重要な家臣を召し抱えていきました。このころから地方政権としての豊臣政権が発足したと考えられます。
そして長浜は養子だった羽柴秀勝が担当し、秀吉自身は中国地方の総司令官として播磨に侵攻。
黒田孝高(官兵衛)をはじめとする播磨衆を新たな家臣団に加えました。こうして姫路を拠点にさらに西に向かって攻撃を開始しています。また秀吉は播磨と同時に但馬の国へも進撃し、徐々に領土を拡大しました。
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本能寺の変
信長の重臣として中国の毛利と対峙していた秀吉の運命が変わったのが本能寺の変です。ここで信長が明智光秀に討たれ、そのことを毛利側に伝える使者を偶然に捕らえられたことから事件を知った秀吉は、毛利と和睦し、そのまま京都に向かって大返しを行います。
そして山崎の合戦で光秀を討った秀吉は、その功績を元に清州会議に臨みます。信長の後継者として、三男・信孝を推す柴田勝家らに対して、秀吉は孫で嫡男・信忠の子三法師を推しました。
結果・三法師が家督を継ぎ、信孝が後見役としてひとまず決着します。しかし秀吉はここで野望を発揮し、織田家の実効支配をもくろみます。信孝から三法師を奪い取って自らが後見人になり、信孝を討ち取ります。
秀吉の横暴に激怒した勝家とは、賤ケ岳の戦いで討ち取ります。その際に勝家側だった前田利家は秀吉側につきました。このころには他の信長の家臣たちも秀吉に従うようになり、秀吉が事実上の信長の後継者の立場になりました。研究者の間ではこの時期を持って全国的な豊臣政権が織田政権に代わって誕生したという見方を持っています。
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秀吉の中央集権
1583年に勝家を滅ぼし秀吉が織田政権に変わり実権を握り、大坂に自らの拠点である城を築きました。その後、単独では秀吉に勝ち目がないと知った織田信雄は東海に勢力を持っていた徳川家康を頼ります。家康は信雄と組んで秀吉に対抗。
1584年に小牧・長久手の戦いが行われます。家康は長久手で秀吉の甥の秀次らの軍を打ち破り、存在感を見せつけます。しかし基本的には膠着状態が続きました。最終的に信雄が秀吉と単独で和睦したために戦は終了します。
1585年にはには紀伊地方や四国の勢力を攻撃。さらには朝廷から関白の認可を受け、秀吉は名実と共に天下人になりました。かつての織田政権を担当していた信雄はこのころには秀吉の家臣として、北陸の佐々成正の攻撃を命じられています。また武力で家康を倒すことが難しいと判断した秀吉は、妹や実母を家康の元に人質に出すという作戦を用いました。
ついに家康は折れて見事に従わせることに成功します。こうして秀吉の中央集権化は着実に進んでいきました。
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豊臣秀吉の全国統一
1586年に家康を従わせることに成功した秀吉は、関白の名前で全国に惣無事令という命令を出しました。これは許可なく相手の領土を奪い取ることを禁じた命令。遠方の大名でそれに従わないものがいれば、秀吉はそれを口実に大軍を率いて制圧していきます。
すでに越後の上杉景勝や安芸の毛利輝元は秀吉に従っています。しかしまだ抵抗する勢力が残っておりました。九州統一を目前に大友勢を攻撃していた島津に対して秀吉は、1587年に大軍を率いて遠征に出かけます。
圧倒的な軍事力の違いを前に、島津勢は後退。結果的に秀吉に従います。残されたのは関東の北条氏。そして1990年、北条に対して討伐軍を送ります。
この最中に東北の伊達政宗らも秀吉に従いました。最後まで抵抗した北条氏直を屈服させた秀吉はついに全国を統一しました。これにより応仁の乱以降の室町幕府ではできなくなったことが、秀吉の手によってできるようになります。例えば1991年に勃発した南部氏の内乱「九戸政実の乱」に対して秀吉は軍勢を遠征させて鎮圧しています。
豊臣政権の特徴
全国を統一した豊臣政権では次の政策が有名です。
- 太閤検地
- 刀狩り
- 身分統制令
太閤検地は、奈良時代に制定された荘園制度に変わる新しい制度です。それまでは貫高制を利用しており、これは土地の収穫を通貨単位である「貫」を用いて計算しました。
これが太閤検地により米の収穫量で表す「石」を使うようになります。これによりそれまでできなかった全国規模での相互比較が可能となり、明治維新まで続きました。
刀狩りは戦国時代、全員が武器を取って戦うため、武士と農民や僧侶との区別がついていませんでした。普段は田端を耕したり寺で仏の教えを説いていた者が、戦が始まると武器を手に取り、武士同様に戦っています。
天下を統一した秀吉は、武士以外の農民や僧侶から武器を取り上げます。これにより全国的な兵農分離が進み、いわゆる一揆を事前に抑制することにつながりました。また身分統制令は、1591年に行われた制度で、勝手に身分を変えることを禁じました。
例えば武士が農民になったり、農民が商人になったりすることです。その背景には朝鮮出兵があったとされ、遠征する武士とその糧をつくる農民の人数を確保する狙いがありました。
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