李舜臣とはどんな人? 朝鮮水軍提督の浮き沈み人生に迫る

02/05/2021


李舜臣

 

李舜臣(りしゅんしん)は、文禄(ぶんろく)慶長(けいちょう)の役で朝鮮水軍を率いて、日本水軍に度々打撃を加えた李氏朝鮮の水軍提督です。韓国では国家第一の英雄として称えられ、多くの銅像が立ち日本でも名将として同時代の李氏朝鮮の人物ではダントツの知名度を誇っています。

 

その悲劇的な最期から悲運の名将とされる李舜臣ですが、戦場以外では短気で好き嫌いがハッキリした性格であり、水軍の人だけに浮き沈みが激しい人生を送っていました。今回は李氏朝鮮の名提督、李舜臣について解説しましょう。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

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おとぼけ(田畑 雄貴)

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李舜臣武官となる

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

李舜臣は、京畿道開豊郡の出身で、父李貞(りてい)の3男として1545年漢陽の乾川洞に誕生しました。幼い頃から勇猛果敢な性格だったと言われ、22歳から武科の試験(科挙)を受け始めますが初の試験で落第し合格したのは1576年、32歳の時でした。

 

こうして武官になった舜臣は、下士官として女真族(じょしんぞく)と国境を接している咸鏡道(かんきょうどう)を転戦しますが、上司の李鎰(りいつ)との不和により罷免され、一兵卒に落とされる白衣従軍を命じられます。

 

その後、舜臣の才能や不運を惜しく見ていた全羅道(ぜんらどう)の観察史、李洸(りこう)の推薦により軍官に抜擢され全羅道の各地で軍官を勤めました。

 

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柳成龍の抜擢で水軍節度使に大抜擢

 

1589年1月、備辺司より軍官を推薦採用する公告が出て、当時の左議政(総理大臣)李山海(りさんかい)の推薦を受け、李慶禄(りけいろく)などと共に全羅道の井邑の県監となります。この李慶禄と舜臣は、その後日本の朝鮮征伐の時も共に活躍する事になりました。

 

李舜臣には、同郷の出身で幼馴染の柳成龍(りゅうせいりゅう)がいましたが、彼は何かと李舜臣を庇い、文禄の役の前年1591年には成龍の推薦で全羅左道水軍節度使に抜擢されます。

 

柳成龍はこの頃、右議政(副総理)に出世していましたが、それほど功績がない舜臣の大抜擢は、すでに女真族との戦いで功績を挙げていた元均などから嫉妬と激しい反発を買う事になり、舜臣のキャリアの足を引っ張る事になります。

 

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文禄の役、初陣で日本軍を撃破

朝鮮水軍を率いて日本水軍を撃退する李舜臣

 

1592年4月12日、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の朝鮮出兵が始まると、慶尚道水軍(けいしょうどうすいぐん)は壊滅します。李舜臣と李億祺(りおくき)は全羅道水軍を温存し、当初は慶尚水使、元均の救援要請を拒否。5月になると釜山西方の日本水軍支配地域に侵入し、巨済島東岸(きょさいとうかいがん)藤堂高虎(とうどうたかとら)堀内氏善(ほりうちうじよし)等の日本船団を襲撃しました。

 

帰途も遭遇した日本船を二度に渡って攻撃して戦果を挙げてすばやく撤収しました。攻撃主力を釜山から漢城のラインを軸に、平壌、咸鏡道などに展開していた日本軍は、釜山西方南岸での李舜臣の攻撃が活発になると脇坂安治(わきざかやすはる)九鬼嘉隆(くきよしたか)加藤嘉明(かとうよしあきら)を各方面から招集し、海上戦闘用の水軍を編制し李舜臣に対抗する事になります。

 

鉄甲船

 

しかし李舜臣は、囮を使って潮流の激しい海峡に単独行動中の脇坂隊を誘き寄せて、閑山島海戦(かんざんとうかいせん)で撃破。次に脇坂の援護のために安骨浦まで進出して停泊していた加藤・九鬼水軍を襲撃し戦果を挙げました。

 

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日本軍の方針転換で苦戦が続く

イギリス海軍軍艦に吹き飛ばされる清軍船

 

玉浦海戦(ぎょくほかいせん)と閑山島海戦の戦果により、当初輸送用だった日本水軍の船にも大鉄砲が装備され、日本軍は勢力範囲の要所に砲台や城塞を築き、大筒や大鉄砲を備えて水陸併進の行動に切り替えます。

 

日本の方針転換は成功、李舜臣は以後も釜山浦攻撃(ふざんほこうげき)、熊川攻撃などを繰り返しますが、陸上の砲台や、日本軍船の大砲に迎撃され、朝鮮水軍は被害を多く出し、出撃回数は激減しました。

 

釜山奪還に失敗

亀甲船(朝鮮水軍)

 

特に釜山浦は、文禄の役の開戦直後の日本軍による占領以後は、肥前名護屋から壱岐・対馬を経て釜山に至るルートで海上交通路の要となり日本軍の補給物資は一旦釜山に荷揚げされた後、陸路内陸に輸送されていきました。

 

李舜臣もこれに気づき、何度も釜山を攻撃するものの撃退され、朝鮮水軍は撤退。以後、李舜臣が釜山に出現する事はなくなります。これにより、日本軍は海上輸送については釜山を重要拠点として支配し続ける事になりました。

 

朝鮮水軍の最高指揮官になる

 

1593年、これまでの功績で舜臣は三道水軍統制使という朝鮮南部の慶尚道、全羅道、忠清道(ちゅうせいどう)の水軍を統べる指揮官に出世します。

 

一方で、元均は部下であった舜臣に従う事になり、激しくいがみあうと同時に朝廷に赴任地の変更を願い出ました。両者は感情的になりお互いに讒言(ざんげん)を繰り返し、朝廷は元均を陸上部隊に転属させる事なります。李舜臣は休戦期の1593年3月に水軍で巨済島を攻撃しますが、日本軍は海では応戦せず砲台を構築して備えるだけでした。

 

また、この頃には李朝の要請で明軍が到着していて、戦争の主導権は明に移り、好戦的な舜臣は和平の邪魔として明王朝より交戦を禁じられます。舜臣は、明の命令に応じずに何度も巨済島に攻撃を仕掛けますが勝ちを急ぐような舜臣の対応に朝廷内部でも批判が強まり、ここに元均などの反李舜臣勢力のデマや中傷もあり、朝廷は体察史の李元翼(りげんよく)を送り舜臣を査問する事になります。

 

李舜臣は嫌疑不十分で留任となりますが精神的に疲労していきました。舜臣の巨済島攻撃は、日本軍の補給路を攪乱する効果があり、島津義弘(しまづよしひろ)が書状でその事を懸念しているようです。

 

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舜臣命令無視で降格

戦国時代の密談

 

1597年、慶長の役の攻勢準備のために加藤清正(かとうきよまさ)が朝鮮に上陸する事を小西行長(こにしゆきなが)の使者が意図的に朝鮮側にリークしました。この頃、日本側でも、あくまでも秀吉の命令に従い朝鮮征伐を進めようと考える加藤清正と、

 

小早川秀秋が裏切りブチ切れる石田三成

 

戦争を中止しようと考える小西行長・石田三成(いしだみつなり)が対立していたのです。朝廷は李舜臣に、加藤清正を待ち伏せして討ち取るように命令しますが、舜臣は日本軍の罠と疑い命令を拒否しました。

 

これにより清正軍は無事に上陸し、朝廷は命令に背いたとして李舜臣を更迭して拷問に掛け死罪を命じます。しかし右議政の鄭琢(ていたく)が国王宣祖に嘆願書を出してとりなし、舜臣は助命され、再び白衣従軍を命じられました。

 

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元均の戦死で水軍の総指揮官に返り咲く

 

李舜臣の更迭後、水軍統制使には、元均が復職します。朝廷は元均に水軍単独での日本軍攻撃を命じ、元均はそれを嫌がりますが、渋々従い漆川梁海戦(しっせんりょうかいせん)で大敗し戦死しました。

 

この海戦で朝鮮水軍は、数名の将軍が戦死し船も焼き払われて、僅か12隻しか残らないという壊滅状態だったようです。元均が戦死した事で朝廷は白衣従軍させていた舜臣を水軍統制使に復命させました。

 

李舜臣は朝鮮水軍の残存艦隊を収容しつつ、朝鮮半島西南端の潮流の激しい鳴梁海峡(めいしょうかいきょう)に日本軍を誘導、突入してきた日本軍の先鋒を攻撃し来島通総(くるしまみちふさ)を戦死させます。

 

しかし、後続の日本水軍は質・量ともに強大で舜臣は海戦の夜には鳴梁海峡を放棄し後退、日本軍は全羅道西岸拠点を次々と制圧、停泊地を失った舜臣は、全羅道の北端まで退却しました。全羅道・忠清道の掃討作戦を成功させた日本軍は、当初からの作戦計画に沿い、慶尚道から全羅道にかけての朝鮮南岸に後退し倭城郡を構築。

 

舜臣の水軍は明・朝鮮陸水軍と共に朝鮮南岸へ再進出し、朝鮮南岸部にある古今島を拠点として朝鮮水軍の再建に努めます。

 

順天城の戦いに敗北

洛陽城

 

1598年7月、日本軍最西端の拠点で小西行長の13700人が守備する順天城を攻撃するため、陳璘(ちんりんが率いる明水軍が古今島に合流。李舜臣は明軍の指揮下に入り、同年9月、明・朝鮮の水陸軍55000人による順天城攻撃が開始されます。

 

戦いは10月初めまで継続しますが、水陸両面で明・朝鮮連合軍は多大な損害を出すなど、苦戦が続き厭戦気分が蔓延し撤退を決断しました。

 

寿命で亡くなる豊臣秀吉

 

しかし、朝鮮征伐を命じた豊臣秀吉が死去すると事態は変化します。小西行長は退却命令を受けて明との講和を結び、海路を撤退しようとしますが、それを知った明・朝鮮連合軍は古今島より松島沖に進出し海上封鎖を実施して小西行長の退路を阻みました。

 

小西軍の窮状を知った島津義弘等、日本軍諸将は急遽水軍を編制して救援に出向き、これに対し、李舜臣及び、明・朝鮮連合軍は順天の封鎖を解いて東進し、立花、高橋、島津水軍等を露梁海峡(ろりょうかいきょう)で迎え撃つ事になりました。

 

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露梁海戦で戦死する李舜臣

 

11月18日未明、露梁津を抜けようとした日本軍は南海島北西の小島、竹島の陰に潜んだ明水軍と南海島北西の湾、観音湾に潜んだ朝鮮水軍に出口で待ち伏せされ、南北から挟撃される形で戦闘が始まりました。

 

立花、高橋の両軍は、一番に明・朝鮮水軍と交戦、

立花家臣の池辺貞政(いけべさだまさ)は明の陳璘の船に乗り込んで一番乗りの功を挙げますが串刺にされて戦死します。

 

日本軍の奮戦で、明・朝鮮水軍は観音輔へと後退、

先鋒が後退したのを見て前進した明水軍主力と島津本隊、及びその他日本軍が入り乱れ混戦になりました。

 

先陣を切っていた島津軍に損害が大きく、島津の樺山久高(かばやまひさたか)率いる一隊は、海峡突破に成功したものの、本体と分断され、当初、朝鮮水軍の潜んでいた観音浦に逆に押し込められ浅瀬に乗り上げて座礁。

 

船を捨て、徒歩で南海島を横断して東岸に脱出します。

 

薩摩藩の島津義弘

 

島津義弘の乗船も潮に流されて脱落し、敵船から熊手を掛けられ、斬り込まれそうになる窮地に陥いり、味方の援軍を受けてようやく脱出しました。一方の李舜臣は、後退する島津軍を追撃する途中に戦死します。53歳でした。

 

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李舜臣の死の謎

水滸伝って何? 書類や本

 

従来、李舜臣は露梁海戦で大敗した日本軍を追撃中に流れ弾に当たって戦死したとされてきましたが、追撃中の流れ弾による戦死には文献の裏付けがなく、同じ朝鮮側の史料には、船尾に伏兵していた日本兵の一斉射撃に倒れたとも、明軍の武将、鄧子龍(とうしりゅう)の救援に赴く途中、日本軍の船に包囲されて討死したともあり、中には、死に至る詳細が記されていない史料もあります。

 

また、日韓併合を経て独立した韓国では、李舜臣は救国の英雄としての評価が高まりすぎ、李舜臣は日本を撃退した後、再び自分が用済みとなって殺される事を悲観し、露梁海戦に死に場所を求めたという、かなり脚色した説まであるようです。

 

ただ、李舜臣が露梁海戦の最中に戦死した事は間違いなく、最後まで勇敢に戦った朝鮮水軍の名将であるという事実は変わらないでしょう。

 

三国同盟を潰したあの男

 

 

日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

李舜臣は名将ではありますが、性格が激しく妥協しない人物であるようで、三道水軍統制使という朝鮮水軍のトップまで上りながら、上司と喧嘩したり、朝廷の命令に背いて一兵卒に落とされる事2回と波乱万丈な生涯を送っています。

 

戦歴も百戦百勝とは行きませんが、不屈の闘志を持ち、何度敗れても諦めず、部分、部分では日本軍に勝利を収めるなど、文禄・慶長の役で日本軍を苦しめた事は間違いなく、文禄・慶長の役での李氏朝鮮軍では、屈指の名将と言えると思います。

 

参考:wikipedhia

 

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はじめての戦国時代

 

 

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