戦国時代

宇喜多直家はどんな人?下克上浦上氏を下克上した権謀術数の一族

 

中国地方は、ただでさえ激しい戦国大名の離合集散(りごうしゅうさん)がさらに激しい地域でした。

 

黒田官兵衛

 

そのせいか、謀略の達人が多く出ていて、尼子経久(あまごつねひさ)毛利元就(もうりもとなり)黒田官兵衛(くろだかんべえ)とビッグネームが揃っています。しかし、中国地方には、この3名を凌ぐ謀略の達人がいました。後世に謀聖と讃えられる戦国大名、宇喜多直家(うきたなおいえ)です。

 

今回は下克上で有名な主君浦上氏(うらがみし)をさらに下克上し備前(びぜん)播磨(はりま)美作(みまさか)の支配者になった宇喜多直家の波瀾の生涯を解説しましょう。

 

主君の赤松氏を討った浦上氏に仕える

 

宇喜多氏には裏切りと権謀術数(けんぼうじゅつすう)のイメージが付きまといますが、それは、宇喜多氏が仕えた浦上氏に関係があります。浦上氏は室町幕府の四職(ししき)の1つである赤松氏の被官(ひかん)でした。

 

嘉吉元年(1441年)赤松満祐(あかまつみつすけ)は万人恐怖と呼ばれた将軍足利義教を屋敷に招き謀殺します。これが世に謂う嘉吉(かきつ)の乱ですが、現職将軍を殺した満祐がただで済むわけもなく、守護大名の連合討伐軍に討たれて没落します。

 

この時、主家である赤松氏の再興を掲げて立ち上がったのが浦上氏で、その後の応仁の乱では赤松氏を守り立てて戦いますが、乱が終結すると浦上村宗は主君の赤松義村を討ち、播磨、備前、美作の3ヵ国を支配する戦国大名として成長しました。典型的下克上ですが、この浦上氏に仕えていたのが宇喜多能家(うきたよしいえ)であり、その孫に当たる宇喜多直家が浦上氏を倒す事になります。

 

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忠臣、宇喜多能家

仙台城

 

宇喜多氏の出自は不明ですが、宇喜多能家寿像画賛(じゅぞうがさん)によると、三宅氏の後裔説(こうえいせつ)が有力で、備前児島(びぜんこじま)に渡った古代朝鮮王族の子孫が三宅を名乗り、後に宇喜多(浮田)に改めたというものです。

 

宇喜多氏が浦上氏に仕えはじめたのは、宇喜多能家が最初で、それ以前は備前豊原荘や西大寺に権益を持つ商人的性格の強い一土豪に過ぎませんでした。しかし能家は有能な人物で、彼の活躍により宇喜多氏は中央にまで名が知られる一族に成長したと考えられています。

 

能家は浦上則宗(うらがみのりむね)に仕え、明応8年(1499年)赤松政則(あかまつまさのり)の死を発端とする浦上家の内部分裂の時に、一貫して浦上則宗を支え、ライバルである浦上村国に則宗の白旗城が包囲され、一族の者までが則宗を見捨てて逃げようとした時、能家は踏み止まって義を説き、やがて村国は包囲を解いて退却し則宗の危機を救いました。

 

その後も能家は、則宗の後を継いだ村宗を支え、村宗を滅ぼそうとする主家、赤松義村(あかまつよしむら)の攻勢に対して反撃して次第に義村を追い詰めていき、大永元年(1521年)には義村を隠居に追い込んだ上に殺害し、浦上氏の下克上を達成しました。

 

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大物崩れで宇喜多能家殺害される

戦国時代の合戦シーン(兵士モブ用)

 

大永三年(1523年)赤松義村の子である赤松政村(晴政)を擁立した浦上村国は、播磨の小寺則職(こでらのりもと)と連携します。浦上村宗は、浦上村国を討つべく播磨に出兵しますが、この戦いに従軍した能家を悲劇が襲います。先陣を務めた能家の次男である四郎が村国の策略にあって討死したのです。

 

四郎の死を知った能家は深く哀しみ自ら死地を求めて敵陣に突撃して奮戦し、結果的に浦上軍を勝利に導きました。

 

宇喜多能家の奮戦を伝え聞いた幕府管領・細川高国は、天晴な奮戦であるとして、名馬一頭と名のある釜を贈ったと言われています。しかし、世の無常を悟った能家は、大永4年(1524年)に家督を子の興家に譲って出家し常玖(じょうきゅう)と名乗りました。

 

ところが、享禄4年(1531年)細川高国と浦上村宗が細川晴元と三好元長の連合軍に敗れて両者とも死去する大物崩れと呼ばれる大事件が発生します。この政治的混乱の中で天文3年(1534年)頃、村宗を排除した赤松晴政の勢力によって、能家は砥石城にて殺害されました。

 

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謀聖、宇喜多直家登場

 

当時、宇喜多直家は生まれたばかりであり、父の興家(おきいえ)は宇喜多氏をまとめる事が出来ず、幼い直家を連れて備後国(びんごのくに)鞆津(ともつ)まで落ち延びました。結果、宇喜多家の家督は、宇喜多能家の異母弟、浮田国定(うきたくにさだ)が引き継ぐ事になります。

 

この経緯から浮田国定が、島村盛実を使い異母兄の宇喜多能家を殺害して家督を奪ったと軍記物などで言及されますが、実際には能家が討たれた時点で、宇喜多家の最大の実力者が国定だったというだけで、国定が能家を殺害したという話は根拠が薄いようです。

 

落ち延びた宇喜多興家ですが、島村氏との抗争の中で横死しました。大物崩れで当主の浦上村宗が死んだ浦上氏では息子の政宗が家督を継承し弟の宗景と協調していましたが、山陰の尼子氏への対応を巡り分裂します。

 

宇喜多直家は分裂した浦上宗景に国衆として従属し頭角を現す事になりました。

 

 

ここから宇喜多直家の暗躍が開始されます。祖父を殺した因縁の島村氏、義父にあたる中山氏、龍ノ口城主(たつのくちじょうしゅ)穝所元常(さいしょもとつね)を殺害。さらに永禄9年(1566年)2月、直家は美作国に進出した備中国の三村家親(みむらいえちか)を、顔見知りの阿波細川氏の浪人、遠藤俊通(えんどうとしみち)遠藤秀清(えんどうひできよ)を起用して鉄砲で暗殺しました。

 

火縄銃を撃つ侍(鉄砲)

 

永禄10年(1567年)7月、直家は明善寺合戦(みょうぜんじがっせん)で、それまで備前西部に進出していた備中勢の駆逐にほぼ成功、その後も婚姻関係にあった金川城主の松田元輝(まつだもとてる)元賢(もとかた)親子、岡山城主、金光宗高(かなみつむねたか)などを没落させて所領を併合するなど勢力を拡大、浦上氏で随一の実力者となります。

 

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最初の下克上失敗

 

永禄12年(1569年)大物崩れの原因になった赤松晴政は度重なる裏切りによって没落し、西播磨の赤松政秀を頼りすでに病死していました。宇喜多直家は、今度は主家である浦上宗景(うらがみむねかげ)に下克上しようと機会を窺います。

 

永禄12年(1568年)浦上宗景は旧播磨守守護家の赤松義佑(あかまつよしすけ)赤松則房(あかまつのりふさ)、播磨国の有力国人、小寺政職(こでらまさもと)と結び、これらの救援を名目として播磨における兄政宗の遺領を吸収。西播磨において、あなどり難い勢力に成長していた赤松政秀を討つために備作衆を率いて播磨西部へ侵攻しました。

 

部下を競争させる織田信長

 

赤松政秀は、備作衆の攻勢に苦しみ、上洛を果たしていた織田信長に救援を要請。信長は池田勝正(いけだかつまさ)別所安治(べっしょやすはる)を派遣して戦闘が開始されます。

 

宇喜多直家も、これを下克上チャンスと見て赤松政秀に味方して浦上宗景に反旗を翻しますが、頼みの赤松政秀が青山・土器山の戦いで黒田職隆(くろだもとたか)黒田孝高(くろだよしたか)父子に敗北。

何度も織田信長と対立する朝倉義景

 

さらに信長から派遣された池田勝正、別所安治が織田軍の越前侵攻の為に呼び戻されてしまうと、浦上宗景は反撃に転じ赤松政の居城龍野城を攻めて政秀を降伏させます。これにより孤立無援になった宇喜多直家は抗戦を諦めて宗景に降伏。この時は特別に助命されました。

 

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二度目の謀反で宗景を追い落とす

織田信長

 

天正元年(1573年)12月、浦上景家は織田信長の計らいで敵対していた別所長治と和解します。

 

この席上で宗景は信長から朱印状を与えられ、備前・播磨・美作3ヵ国の支配権を与えられました。こうして浦上氏の下克上は達成され、旧守護赤松氏に取ってかわりますが、没落はその直後からやってきます。

 

信長の朱印状では浦上氏の基盤がない東播磨の小寺氏や別所氏まで浦上宗景の臣下扱いにするものだったのです。宇喜多直家は、宗景に不満を持った小寺氏に接近して交渉。浦上宗景の兄の子であり小寺氏の預かりになっていた久松丸(ひさまつまる)を宇喜多領に引き入れる事に成功しました。

 

こうして直家は入念な根回しをしてから、天正2年(1574年)3月に久松丸を担いで再度謀反します。浦上宗景も活発な外交戦を展開して国衆を味方に引き込みますが、久松丸と直家の事前の謀略で多くの国人衆が宇喜多直家に味方しました。

 

この状況を見て毛利輝元は宇喜多直家に加勢、信長の尖兵として毛利に反抗してきた浦上氏に攻撃を仕掛け、天正3年(1575年)三村元親を攻め滅ぼしより直家への支援を本格化させ、浦上宗景は追い詰められました。

 

炎上する城a(モブ)

 

さらに宗景は重臣の明石行雄(あかしゆきかつ)の離反にあい、天神山城(てんじんやまじょう)から宇喜多軍の包囲をかいくぐり脱出。一旦は播磨の小寺政職の下へ退却し、その後織田軍の荒木村重の支援を得て、宇喜多端城を奪還して、以後はここを在所とします。

 

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領内の浦上氏残党を掃討し下克上達成

馬にのり凱旋する将軍モブ(兵士)

 

しかし、以前として備前国内には旧浦上家臣の勢力が残り、また宗景自身や一門の浦上秀宗(うらがみひでむね)も播磨国から密かに連絡を取り合い備前国内では小規模な蜂起が相次ぎ、直家は鎮圧に悩まされる事になります。

 

天正6年(1578年)12月、浦上宗景や秀宗が扇動し浦上残党が一斉蜂起し幸島を支配する事件が起きました。

 

この武装蜂起、一時は天神山城を奪うなど勢いを見せ鎮圧には数カ月を要しましたが、鎮圧を契機に備前の浦上勢力の残党は一掃され、さらに宗景を援助していた美作鷲山城主の星賀光重を討った事で宗景の領主復帰の野望を完全に断つ事に成功します。

 

かくして宇喜多直家は赤松氏を下克上した浦上宗景をさらに下克上し、備前・播磨・美作に跨る領域を支配する事になったのです。

 

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信長に臣従するも病に破れる

天下布武を唱える織田信長

 

やがて、織田信長の命を受けた羽柴秀吉が中国路方面に進出してきます。これに対し直家は、天正7年5月、信長に内応したとして東美作の後藤勝基などを滅ぼし織田家と対決する構えを見せます。

 

しかし、僅か6月前後、直家自身も織田家の強大さに反抗を諦め、毛利氏と手を切り、織田信長に臣従、美作、備前各地を転戦して毛利氏と合戦を繰り返していきます。

 

幕末 臨終のシーン 亡くなる(死)モブ

 

天正9年(1581年)2月14日、宇喜多直家は毛利氏との戦いのさなか岡山城で病死。直家の死因は「尻はす」という出血を伴う悪性の腫瘍であったそうです。さしもの謀略の達人も病には勝てず戦乱の只中に倒れました。享年52歳。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

宇喜多直家の凄さは、主君の浦上宗景、敵対していた毛利元就、播磨の小寺氏のような謀略の達人に囲まれながら、上手くその中でバランスを取り、浦上氏を倒して下克上を果たした点でしょう。

 

そして、一時は備前、播磨、美作に勢力を伸ばしながら、織田信長の強大さを知ると、野望をあっさりと捨てて臣従する柔軟な思考力。これは頭が良いだけでなく自分の心をコントロールする力もかなりのモノがあったと思います。

 

ここで織田家に臣従した事で息子の宇喜多秀家は豊臣恩顧の武将として破格の出世を遂げていくのですから、直家の洞察力は恐るべきものですね。

 

参考文献:戦国大名家臣団 興隆と滅亡 スタンダーズ株式会社

 

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