戦国時代

戦国最初の天下人、大内義興はどうして京都を放棄したのか?

oda-nobunaga-Tenkafubu(天下布武を唱える織田信長)

 

足利(あしかが)将軍を奉じて上洛に成功した戦国大名と言えば、最初に思い浮かぶのは織田信長(おだのぶなが)です。しかし、信長を遡る事60年前、同じように足利将軍を擁して上洛を果たした大内義興(おおうちよしおき)という守護大名がいました。

 

織田信長の先輩とも言うべき大内義興ですが、彼は10年間も京都にいながら最後には京都を離れる事になります。では、どうして大内義興は京都を放棄せざるをえなくなったのでしょうか?

 

大内義興上洛までの軌跡

 

大内義興は、守護大名大内政弘(おおうちまさひろ)の子として文明(ぶんめい)9年(1477年)に誕生しました。明応(めいおう)元年(1492年)15歳で初陣を飾り六角高頼(ろっかくたかより)討伐に従軍します。

 

しかし翌年、明応(めいおう)政変(せいへん)が勃発。10代将軍足利義材(あしかがよしき)が管領細川政元(ほそかわまさもと)のクーデターにより追放される事件が起きます。

 

義興は年少で、明応の政変に積極的な動きはしませんでしたが、大内氏の勢力を警戒した管領細川政元は、義興に執拗に計略を仕掛けて追い込むようになります。父、政弘の病により明応3年(1494年)義興は家督を継ぎ、周防・長門・豊前・筑後・石見などの守護職を相続。翌年政弘の死去で名実ともに大内氏の実権を握りました。

 

軍旗

 

その後義興は、明応5年から6年にかけ、九州の少弐政資(しょうにまさすけ)が筑前に乱入したのを撃退。明応8年(1499年)には家臣の杉武明(すぎたけあきら)が義興を廃して、義興の弟の尊光(そんこう)に家督を継がせようとする陰謀が発覚し、義興は武明を自殺させ尊光は豊後に逃れました。

 

明応9年(1500年)細川政元と敵対する足利義稙が周防に下向すると義興はこれを庇護。それに対し細川政元は本格的に大内氏を滅ぼそうと決意し、文亀(ぶんき)1年(1501年)後柏原天皇(ごかしわばらてんのう)綸旨(りんじ)を出させ、少弐・大友氏等、西日本の大名・有力国人28名に義興追討を命じます。

 

義興は少弐・大友氏を撃破し、間もなく足利義尹(あしかがよしただ)の仲介で大友親治(おおともちかはる)と和睦、永正(えいしょう)4年(1507年)には少弐資元とも和睦し北九州での勢力を保っています。

 

やられっ放しで怒り心頭の義興は、永正元年(1504年)あたりから上洛の具体的な構想を描いて領国内で段銭(たんせん)徴収をしていましたが、永正4年6月、足利義澄(あしかがよしずみ)を11代将軍に擁立して幕政を牛耳った憎っくき細川政元が後継者問題で暗殺される永正の錯乱が起きます。

 

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大内義興、足利義尹を奉じて上洛

馬にのり凱旋する将軍モブ(兵士)

 

長年、執拗に策謀を仕掛けてきた細川政元の暗殺に義興は狂喜乱舞します。さらに暗殺事件で細川氏は、後継者を巡り細川澄元(ほそかわすみもと)派と細川高国(ほそかわたかくに)派で勢力が分裂。細川氏の内紛を見た義興は足利義尹(あしかがよしただ)の上洛を口実として九州・中国の諸大名に動員令を発します。

 

こうして、家臣の右田弘詮(みぎたひろあき)らに本国の留守を任せてた義興は11月25日、山口から進発し防府に出て12月に備後にまで進出しました。義尹上洛の動きに対し政元の養子であった細川高国が義興と通じて、同じく政元の養子細川澄元と対立・抗争を開始し、永正5年(1508年)3月に細川澄元は高国と義興らに圧迫され足利義澄と共に近江に逃走します。

 

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

4月27日に義尹を奉じて和泉国堺に入った義興は畿内の澄元方を平定にあたっていた細川高国との連携を強め5月5日には高国を細川京兆家(細川氏宗家)当主と認める義尹の御内書が出ます。こうして永正5年6月8日、足利義尹と義興は7カ月がかりで上洛を果たしました。

 

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泥沼の戦いで京都から離れられない義興

三国志のモブ 反乱

 

上洛を果たした義興は足利義尹を将軍職に復帰させ、自らも左京大夫管領代として細川高国と共に幕政を執行する立場になります。足利義尹は義興に、相国寺崇寿院の領地だった堺の南半分を領地として与えようとしますが、

 

義興は「何事も元のように寺社本所領を返付されよ」と述べて恩賞を辞退。

 

所領を相国寺に返すと言う粋な事をしたので、京都や奈良の公家や寺社も義興に対して好感を持ち、京都の治安は安定しました。しかし、ここで義興が行った見栄っ張りな行動が、後々義興の首を絞める事になります。

 

足利義尹を京都に返した義興は、領国が不安定である事を理由に中国に帰ろうとしますが、一度近江に追放した細川澄元や三好之長等が京都奪還を目指して度々京都に侵攻してくるので帰国もままならなくなり、いたずらに京都滞在が伸びていきました。

 

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上洛時のカッコつけが仇になる

五重塔(仏塔)仏教

 

そんな最中の永正5年12月、奈良の東大寺が延徳2年(1490年)以来、大内氏に押領されたままの周防国の国衙領の返還を求めて閉門を行います。大内義興は上洛の時に、相国寺に堺の南半分を返した事がありますが、周防は自国であり京都とは事情が違うと考えて、東大寺の要求に中々応じませんでした。

 

しかし、朝廷や公家は東大寺に閉門を解かせる為に、義興に国衙領を返すように何度も命じ、義興は悩んだ末に周防の国衙領を東大寺に返還しました。最初に見栄を張った事が、巡り巡って仇になったのです。

 

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反対勢力を駆逐

京都御所

 

大内義興は永正6年6月に如意ヶ岳の戦いに勝利し細川澄元等を四国に落ち延びさせます。そして、永正7年1月には細川高国と共に近江に侵攻しますが、逆に敗北してしまいました。

 

これにより、足利義澄方は一大決戦を決意。永正8年7月には芦屋河原の決戦を挑み、義興と高国は敗北。さらに摂津でも足利義澄軍に敗北して京都を奪われ丹波に逃走しました。

 

しかし、同年8月14日に足利義澄が急死。息を吹き返した義興軍は8月23日には船岡山(ふなおかやま)の決戦で細川澄元軍を撃破し京都を奪還します。義興は、この戦いに敗北したら周防へ退却するつもりで安芸国人の多賀谷武重(たがやたけしげ)に堺を堅守させていましたが、これが功を奏し阿波からの細川澄元の援軍を防止したと言われています。

 

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尼子氏侵攻や国人の無断帰国で京都を離れる

遣唐船(奈良時代)

 

大内義興は、一連の功績で永正9年3月に従三位に上階されて公卿に列席しました。将軍足利義尹はこれに反対だったようですが、最終的な判断を後柏原天皇に任せる旨を述べたので同意せざるを得ませんでした。

 

義興は娘を足利義維(あしかがよしつな)(義澄の次男)に嫁がせて将軍家の親族になり、さらに永正13年には大内氏に日明(にちみん)貿易の特権を恒久的に与えるとする御内書と奉行人奉書が与えられます。

 

京都滞在に莫大な費用がかかる大内氏にとっては重要な権益の獲得でしたが、元々、遣明船の権益を持っていた細川高国は猛反対します。しかし、これも大内氏の威光により押し切られ、高国との関係も微妙になりました。

 

反対勢力が駆逐され大内義興の勢力が伸びると、今度は義興を頼りにしていた細川氏や将軍との関係が険悪になってきたのです。権力の一元化が出来ていない戦国の初期、この分裂状態は繕いようがありませんでした。

 

また、10年に渡る京都在陣に、義興に付き従っていた国人たちも負担に耐え切れず、許しも得ないで勝手に帰国する者が相次いで大内氏の領国での威信が揺らいでいきます。

 

この隙に乗じて、出雲で勢力を伸ばした尼子経久(あまごつねひさ)が大内氏の領地に侵攻。ついに義興は京都滞在を諦め永正15年(1518年)管領代を辞職。山口に引き返して行ったのでした。

 

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大内義興はどうして失敗した?

 

10年もの間、京都を支配しながらどうして大内義興は失敗したのでしょうか?

60年後の織田信長と比較すると、以下の問題点が浮かび上がります。

 

  • 足利将軍及び管領細川家との共同政権だった
  • 部下の国人が小領主であり上下関係が弱かった
  • 根拠地から京都まで遠く街道も整備していない
  • 寺院や公家に対して支配的な地位を構築できなかった

 

これらの問題が積もり積もり、ライバルを排除しながら大内義興は天下人の地位を守る事が出来なかったと考えられます。

 

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戦国時代ライターkawausoの一言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

戦国最初の天下人大内義興、彼が上洛に失敗した事で、その後足利将軍を奉じて上洛する勢力は、半世紀後の織田信長まで出現しませんでした。一度は失敗し周囲に忌避された将軍を擁しての上洛を敢えてやった織田信長は、かなりのチャレンジャーだったのかもしれません。

 

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