今は少しマシになりましたが、昔は石田三成と言えば頭脳は明晰だが、頑固で器量が狭い行政官僚という扱われ方がほとんどでした。
これらの三成に対する悪評は江戸時代から続く根強いもので、豊臣の天下を奪った徳川家康を悪者にしない為に、いかに三成が悪辣で豊臣の命運を誤らせたかを強調したのです。しかし、史料をつぶさに見てみると江戸時代でも三成を弁護する人々はいました。
例えば徳川家康の孫、徳川光圀もそうなのですが、一体光圀はどうして三成を弁護したのでしょうか?
この記事の目次
石田三成を弁護した人々ザックリ
では、最初に石田三成を弁護した人についてザックリ紹介します。
① | 徳川光圀。家康の孫だが三成を「憎む事が出来ない」と発言。 |
② | 朱子学の観点からも主君に忠義を尽くした三成を責める事は、
主君がダメと思えば家臣は見限ってよいと公認する事になるので 光圀は三成を否定できなかった。 |
③ | 近松茂矩。江戸中期の尾張藩軍学者、三成を忠臣としたので周囲から白い眼で見られたと自慢し、
三成を忠臣と言うは自分と光圀公だけだと自負した。 |
④ | 丹羽四郎左衛門。家康が三成を良将と評価しその死を嘆いたと記録。
豊臣恩顧の将でただ1人挙兵して秀吉の恩義に報いたと評価。 |
⑤ | 松浦静山。甲子夜話で三成が金銭に淡泊であり佐和山城には
ろくに蓄えもなかったという東軍諸将の感想を記録 |
⑥ | 清廉潔白で潔い人であった事はアンチ三成派でも認める |
ここからは、石田三成を弁護した人々についてもう少し詳しく解説します。
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三成を憎くないと公言した黄門様
大日本史の編纂事業を開始し、幕末の尊王攘夷運動にも大きな影響を及ぼした徳川光圀は「三成は憎からざるものなり」と西山遺事に書きました。
憎からざるとは憎む事は出来ないという意味で、その理由として誰であれ、その主人のためという趣旨で物事を行うものは憎んではならない。その辺りの事は君臣共によくよく心得るべきだと光圀は釘を刺します。
そんなに弁護するなら、憎からざるなんて言い回しをせずに三成あっぱれ!と言っても良さそうですが、そこは三成を敵とした徳川家康の孫ですから微妙な言い回しに終始したようです。
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朱子学の点からも三成を非難できない
光圀が石田三成を批判しなかったのは、当時の朱子学にも関係していました。そもそも朱子学は君臣関係を絶対とするので、家臣は主君に忠誠を尽くさないといけません。
「うちの殿様より、あっちの殿様が優れているから見限ってあっちに仕えよう」
という事では、朱子学は成り立たないので、理由はどうあれ豊臣家の天下を守る為に家康に立ち向かった三成は忠臣であると言わねばならないのです。
黄門様に賛同した近松茂矩
石田三成を擁護した人は水戸黄門だけではありません。江戸中期の尾張藩軍学者近松茂矩は、関ケ原関係の軍記をまとめるにあたり三成を忠臣と位置付けたので、八方から不審を被ったと自ら書簡に記しています。
簡単に言うと「三成って忠義の人だよね?」と書いたら周辺から「信じられない!何言ってんの?」と全否定されたという事です。
この茂矩は光圀の三成擁護論も水戸藩に仕えた家老から聞いていたようで、「三成を忠臣と申すは恐れながら西山公(水戸光圀)と私1人と自負仕り候」と威張っています。
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家康も三成を認めていた?
茂矩は三成を擁護するものは2名と胸を張りましたが実はもう1人擁護者がいました。それは外ならぬ三成と戦った徳川家康であり、丹羽四郎左衛門という人が書いた国事昌被問答には、三成が捕らえられたあと家康が
「良将なり惜しい哉」と嘆いた逸話を紹介しています。
これが史実かどうかは不明で、いかにも大器量の家康が敵の三成を認め殺す事を惜しんだという後世の徳川びいきの逸話みたいにも思えます。しかし、ここからが大事な部分で、その上で四郎左衛門は
「秀吉恩顧の武将は多くいたが、三成一人だけが憤然と立って大軍を興したのは忠士と言えるだろうか?正しくそうである」と書いています。
秀吉には加藤清正や福島正則や前田利家のように子飼いや縁故の武将が多くいましたが、家康を相手に公然と戦いを挑んだのは石田三成だけと言えます。
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アンチ三成でも否定しえない事実
それでも、石田三成を擁護する声は江戸時代を通して圧倒的に少数でした。しかし三成を口を極めて罵る人々でも否定しえない事実があります。
それは、三成が清廉潔白であり、死に望んで無様な真似をしない潔い人物であったという事です。例えば松浦静山の甲子夜話には佐和山城落城後に入城した東軍の兵士が、建物の造作の粗末な事や城に金銀の蓄えがほとんどない事に驚いたという逸話が載っています。
もっとも松浦静山はアンチ三成なので、「天下取りの野望があった三成にとっては佐和山城など仮の住処であったのだろう」と抜かりなく付け加え三成落としに余念がありません。
実際の三成は生涯を通して自分の支出は切り詰めていて、秀吉の権勢下で不正蓄財ならいくらでも出来た筈なのに、それをしない人だったのです。こうして貯めた自分のお金で三成はここぞという人材を破格の待遇で迎えました。三成の家臣は三成の厚遇に応えるべく命を懸けて戦い、関ケ原の戦いでの三成本隊の損耗率は非常に高かったと言われています。
そして、捕縛された三成は罪を逃れようと弁明もせず、卑屈な態度も取らず、もう死ぬのだからと捨て鉢に振舞う事もなく最後まで豊臣の忠臣として生き処刑されました。この清々しい潔さは、どんなアンチ三成でも悪く書きようがなく、現在までそのまま伝わっている石田三成の美点です。
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日本史ライターkawausoの独り言
石田三成アンチの起源は徳川家康に戦いを挑んで敗北し、豊臣家を危機に陥れたというものですが、そうでなくても、秀吉が死んだ時点で次々と諸大名は家康になびいていたのであり、豊臣が滅亡するか中小大名に転落するのは時間の問題でした。
しかし、そこを石田三成が踏みとどまり挙兵した事で、後世の私達は関ケ原の戦いというエポックメイキングを見る事が出来たのであり、もし三成がいなければ豊臣から徳川への移行はもっとグダグダした形で推移したでしょう。
参考文献:戦国武将人気の裏事情 PHP新書
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