戦国時代

石田三成は冷たい人だった?手紙から分かる戦国武将の性格

石田三成

 

相手のひととなりを知るのには、その人が出した手紙を読んでみるのが良いそうです。字の上手いや汚い、細かい字を書くか太い字を書くか、手紙の構成から理詰めで来る人か、情に訴えてくる人か?様々な性格が浮かび上がってきます。

 

それは戦国武将でも同じで、残忍無比と恐れられた人が意外に神経の細やかな手紙を書いたり、温厚な逸話が多い人物が過激な手紙を書いていたりします。

 

今回は、そんな戦国武将、石田三成(いしだみつなり)の手紙について見てみましょう。

 

関ケ原直前、真田昌幸父子に送った手紙

西遊記巻物 書物_書類

 

今回紹介する石田三成の手紙は、彼の運命を決定した関ケ原(せきがはら)の戦いの直前に、信州の真田昌幸(さなだまさゆき)信之(のぶゆき)信繁(のぶしげ)に西軍に加勢するように説得した手紙です。かなり長い手紙なので、要点を要約してある程度短くまとめてみましょう。

 

この飛脚を沼田越えで会津まで通して頂きたい沼田・会津の間に他領があって問題があれば、護衛をつけるなど便宜を図って欲しい。前回の手紙でも申したが貴殿には、小諸、以下上田近辺の地を与えるつもりであるから軍事行動を起こすなら今である。

 

また、会津の上杉(うえすぎ)や関東の佐竹(さたけ)にも軍事行動を起こすように通報しているが、さらに貴殿からも念を押して頂きたい。

 

最近、越後の諸将からも秀頼(ひでより)様へご奉公したいとの旨を申してきた。妻子を大阪に置いてあるゆえ嘘偽りはないだろう。

 

一方で、前田利長(まえだとしなが)は母を江戸に人質に取られたためか無分別な行動を取り、丹羽長重(にわながしげ)を圧迫しようとしている。現在、家康の会津征伐に従軍した上方勢がようやく尾張・三河のうちに上って来たので西軍に味方するよう交渉中である。

 

徳川(とくがわ)の伏見城には家康(いえやす)の留守居、鳥居元忠(とりいもとただ)松平家忠(まつだいらいえさだ)内藤家長(ないとういえなが)父子、1800名が籠っていたが、8月1日には攻略した。

 

細川氏(ほそかわし)の領国丹後は平定し幽斎(ゆうさい)は高野山へ追放する事とした。また細川忠興(ほそかわただおき)の正室のガラシャは身柄を拘束しようとしていたが留守居の者が誤解して殺してしまった。

 

西軍の備えの人数書きをご覧にいれよう。当方は堅固であるので安心されたい。貴殿の豊臣家への御奉公、領国を増やす機会はこの時!くれぐれもご油断なきように。

 

拙者は先に岐阜の織田秀信(おだひでのぶ)と相談し尾張方面へと兵を動かした。福島正則(ふくしままさのり)とは交渉中で、その態度の如何で決着をつける。では、貴殿からの色よい返事をお待ち申し上げる。

 

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漂う上から目線

小早川秀秋が裏切りブチ切れる石田三成

 

自分に味方する大名を集めようとして書いた手紙なので、明らかな嘘や希望的観測に満ちているのは仕方ないとして、気になるのは上から目線です。領地の約束は当然なので良いとしても、秀頼への御奉公という一文が鼻につきます。

 

三成が秀吉の子飼いとして権勢を奮った昔を知る大名は、この一文で(西軍が勝利したら、また三成めが秀頼君を差し置き威張り散らすのか…)と顔をしかめたでしょうし、元から三成が嫌いな大名には逆効果だと思います。

 

あんたは秀頼公じゃない。五奉行の1人だろうが!それを上から目線すぎるんだよ!

こう思った大名は多くいたのではないでしょうか?

 

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情愛に欠ける文面

自分に人望がないことに腹を立てる石田三成

 

もうひとつ、三成の文面には人質という文言が出てきます。越後勢が秀頼に味方すると言ってきているし、こちらでは人質を取っているから、よもや嘘偽りは言わないだろうという事です。

 

また、前田利長については、家康に母親を人質に出したから分別を失い丹羽長重を圧迫しているとし、人質の効能を過大に見積もっています。しかし、人質を取っているから、多くの大名は従うだろうという物言いは、従わねば人質を殺すという言葉の裏返しです。こんな人質を前面に出した文面をもらった側は、いい気分はしないでしょう。

 

細川ガラシャ(女性)とキリスト教

 

また、東軍についた細川忠興の正室のガラシャを人質にしようとして失敗し、死なせてしまった事は、家康に従って動いた大名達を激高させましたが、三成はそれを留守居役の早合点のせいにして、自身の落ち度を深刻に受け止めていない文面です。

 

ここからは、他人への思いやりに欠け、人情の繊細さが分からない。良く言えば情に流されない、悪く言うと杓子定規(しゃくしじょうぎ)な人物像が浮かんできます。

 

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人質を数人殺して見せしめとせよ!

徳川家康vs石田三成(関ヶ原の戦い)

 

三成の人情味の薄さは味方に対しての手紙ではより顕著になります。

 

慶長(けいちょう)5年(1600年)9月12日に大阪城内の増田長盛(ましたながもり)に送った書状では、

「世間では大坂城内の諸大名の人質に対する扱いが寛大だとの噂があり宜しくない。みせしめのために、敵方の妻子を五人か三人ほど殺せば、人々の気持ちも改まるだろう」と、かなり非人道的な事を書いています。

 

関ケ原を目の前にして、なかなか味方が増えない事に焦り、憂さ晴らしのつもりで書いただけかも知れませんが、東軍に与する大名が見れば激怒する内容と言えるでしょう。

 

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石田三成は気の小さい人だった

6時間で決着がついた関ヶ原の戦い 石田三成

 

増田長盛への手紙では、家康サイドの大名の妻子を4~5名も殺せ!と豪語した三成ですが、実際は細川ガラシャが自害したのに、かなり衝撃を受けていました。

 

本来は、諸大名の家族を大阪城に軟禁する予定でしたが、強引に身柄を拘束したガラシャのようなケースが出ては困ると大名屋敷に兵を張り付け、外に出られないように監視するに留めたようです。

 

名古屋城

 

こんな人が敵大名の家族を見せしめに殺すなど実際には指示できそうもなく、全くの憂さ晴らしに過ぎない行動だったのかも知れません。実際、三成は東軍大名の人質を大坂城ではなく、安芸宮島に移す事を提案していました。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

三成が人情に疎いのはその通りですが、いわゆる「冷たい人」ではない気がします。ただ、他人に自分という人間を理解してもらう能力が低いかその意欲がなく、後ろ楯の秀吉が死ぬとフォローする人も消えてしまい、味方よりも敵が多くなってしまったのではないでしょうか?

 

参考文献:戦国武将の手紙 角川ソフィア文庫

 

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