神道と言えば日本古来の宗教であり、自然や先祖崇拝と融合した土着信仰であり、仏教などの外来宗教の影響を受けたものの、そのベースは変わらずに現在まで続いていると説明されます。
しかし、近年の研究により神道は自然発生宗教ではなく、仏教や儒教の影響を受けカウンターの形で誕生した歴史的宗教だと考えられているそうです。
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古代のカミは現在の神とは性質が違う
現在、神道の一般的イメージは、鳥居があり注連縄がされたご神木や社殿に賽銭投げて手を叩き、様々な御利益を願うというものです。
しかし、伊藤聡茨木大学教授によると、古代のカミは御利益を与えるというよりも、理不尽に怒ったり祟ったりする存在で、それをなだめる為に祀らねばならない存在だったようです。
また、現在では個人がする参拝も古代では見られず、カミへの祈りは集団的なモノで個人祈願は基本的になかったと伊藤教授は言います。現在、私達が当たり前のようにしている散歩やジョギングついでに神社に立ち寄り、単独で神様に手を合わせる行為は古代には存在しなかったというわけです。
そして、古代日本には大陸の道教や民間信仰の影響が入り込み、牛馬を生贄に捧げる漢神信仰も広範囲に存在しました。古代には、日本人全員が神道を信仰しているというわけではなく御利益がありそうなら外国のカミでも抵抗なく受け入れていたわけです。
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大和朝廷が律令に各地のマツリを組み込み組織化した
元々は地域でバラバラにおこなわれたマツリを統一したのが大和朝廷でした。大和朝廷は、中国の進んだ中央集権制のシステムである律令を使い、国家の下に各国のマツリを組織化して取り込んだというのです。
こうして、独自性が強かった日本各地のマツリは、律令祭祀の下で融和され統合が進んでいきました。
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神仏習合で古来のカミは仏に同化
中世に入ると、怒りを鎮める対象だったカミが逆に個人救済を担うようになります。その背景には、民衆救済の中心的役割を演じていた仏教がありました。
知識人階層ではない庶民には、仏もカミも自分達を現世の苦しみから救い、来世で福徳を授けてくれる存在で区別する事がなく、次第にカミと仏の融合。神仏習合が進んでいきます。
そして鎌倉時代以降になると、カミを仏や菩薩の化身と考える本地垂迹の考えが広まり、密教や禅などの仏教用語で神道を説明する逆転現象が起こりました。これが、両部神道や伊勢神道、山王神道という展開です。
ただ仏教は巧妙にも、神は仏になる手前の煩悩を持った存在と定義する事でカミに対する仏の優越を説き、結局、天皇の宗教祭祀に到るまで全て仏式に変化する事になり、神道は仏教に内包されてしまう事になりました。
この頃に神道に再び変化が生まれ、外面に求めた清らかさではなく内面にも清らかさを求めるようになり、それが正直という美徳を説く事に繋がります。精神的美しさが真の美しさという神道の概念は、この頃に誕生したのです。
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15世紀、神道は独立を始める
こうして、神仏習合により分けがたく交わった神道ですが、15世紀になると吉田兼俱が「吉田神道」を創始し仏教から神童を引き離す運動が始まります。近世初期になると、仏教に代わり儒教に神道との共通性を強調する儒教神道が登場。人間生活一般の道徳を重視し、「神道即王道」として神道=天皇教という思想を準備しました。
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江戸中期、神道は儒教を排斥
江戸時代の中期に入ると神道は儒教も排斥し「日本固有」を主張し始めます。
国学者たちは、神道にも儒教的徳目は元から備わっていたとして中国的なモノを排斥。そして空洞になった神道の中核に儒教的徳目と天皇が接続され、近代の国家神道が形成されます。
やがて幕末を迎えると国学者たちは、日本文化に土足で入り込んでくる西洋人を夷狄と見なし、天皇を中心に統一国家を築いて西洋を排斥しようとする尊王攘夷に繋がり、とうとう明治維新を成就させました。
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神道が廃仏毀釈を引き起こす
明治維新により、国家神道が主導権を握った結果、幕末までに国学が盛んな地域で起きていた廃仏毀釈が全国に拡大、多くの仏教寺院や仏像が破壊される事態になります。
扇動したのは江戸時代に不遇だった神主や国家神道を唱える国学者ですが、江戸時代の仏教は宗旨人別帳を作成し戸籍代わりにして幕府に情報提供し、民衆の生活を監視していたので幕府の手先として見られており、寺に対する庶民の不満が寺を焼き仏像を破壊する暴力行為に繋がったとも言われます。
廃仏毀釈は、夥しい文化財や国宝を灰にしましたが、それでも全国の仏教寺院がすべて破壊されたのではなく仏教徒が抗議声明を出した事もあり、行き過ぎた過激行動は次第に沈静化していきました。
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神道は決して偏狭な宗教ではない
廃仏毀釈まで引き起こした国家神道ですが、歴史を振り返ってみれば仏教や儒教のような外来宗教の影響を受けながら、宗教の概容を整えて来た柔軟性が高い宗教とも言えます。
戦時中に、天皇や軍国主義に利用された事で偏狭で排他的な教えとされがちな神道ですが、普遍的宗教であるキリスト教でも過去には戦争の大義ともされ、国民の意思統一に利用された事があります。
宗教は多様で雑多な大衆の意志を1つに束ねる強力な力があり、日本では国家神道が天皇と結びついて大衆を動かし、キリスト教圏では聖書がその役割を果たしたという事です。神道は排他的宗教ではなく、運用次第で寛容にも排他的にもなるというのが正確ではないかと思います。
参考文献:ここまで変わった!日本の歴史 24の最新説
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