戦国時代の日本の中心畿内から離れた地域を紹介するシリーズ。今回は薩摩・鹿児島を紹介します。鎌倉時代から幕末まで一貫してこの地域を支配したのは島津氏。その安定した中で都市としての戦国時代の鹿児島の状況を解説します。
この記事の目次
戦国時代における鹿児島の人口
戦国時代当時の鹿児島の人口ですが、ちょうど1400年から1600年にかけての人口の記録が残っています。応仁の乱の始まる前1400年の人口が21,000人、戦国時代のさなかの1500年が25,000人で、関ケ原の合戦当時の鹿児島は45,000人まで増えていました。
年を追うごとに人口が増えているのがわかります。考えられる理由としてこれは鹿児島周辺は島津氏だけが支配し続けていたことが挙げられるでしょう。島津家は宗家の他にもいくつかあり、ときと場合によってはそれぞれが対立して戦になりました。それでも人口減につながるような事象は無かったことが伺え、戦国時代の中でも比較的安定していた可能性があります。
戦国時代の鹿児島を主に支配していた者・豪族
戦国時代に鹿児島を支配していたのは、主に次の勢力です。
・島津氏
戦国時代というより鎌倉時代から幕末まで鹿児島とその周辺を支配していたのは島津氏です。この島津の発祥は鎌倉時代に日本最大の荘園「島津荘」が存在したことがきっかけ。五摂家のひとつ近衛家が支配するこの荘園は、薩摩、大隅、日向の3か国にまたがっていました。
惟宗忠久が源頼朝よりこの島津荘の地頭職後に守護職が命じられ、島津氏を名乗りました。当初鎌倉に在籍していた島津氏ですが、元寇をきっかけに薩摩に移り住みます。それが3代目の久経の時代。
やがて島津宗家から分家が出来て行き北郷氏、新納氏らが誕生。そのほか島津を名乗る分家一族が現れます。7代元久の時代には3か国を任されることもありましたが、年を追うことに分家筋の力が増していき、島津宗家の力は衰えていきます。
戦国時代に突入してからの島津家は、宗家のほか、伊作家、薩州家、相州家が存在。宗家14代勝久のころには名目上の守護職となっていて、国は大いに乱れていました。そんな中、島津氏に中興の祖と言われた忠良が登場してから徐々に国がまとまっていきます。
伊作家出身の忠良とその子、貴久の時代になり、内戦が続く中、ようやく薩摩を統一します。その後大隅や日向への侵攻を開始し、貴久の子・義久や義弘ら4兄弟の活躍により3か国の守護を回復。さらに勢力を伸ばして北九州にも侵攻します。
こうして九州統一目前に迫りました。しかし豊臣秀吉の大軍により敗れ去り、義久は薩摩一国、義弘は大隅一国を安堵されました。
秀吉亡き後の関ヶ原では、義久は動かず、義弘は西軍に加担しましたが、家康本陣をついて撤退。激怒した家康が薩摩攻撃を計画しましたが、結局話し合いで和解。その後琉球に侵攻して属国にしました。そのまま薩摩藩として幕末まで引き続き島津氏が支配しています。
応仁の乱から家康の天下統一までに鹿児島で何が起きていたか?
応仁の乱の前から徳川家康が天下を支配するまでの間に鹿児島で起きた主な出来事です。
- 南北朝の時代に島津氏が分裂する。
- 奥州家の島津元久の調停により表面上、島津家は統一される。
- 9代忠国のころに守護大名として確立。
- 戦国時代になり島津一族や国人衆による闘争の加速化。
- 宗家に変わって、薩州家の島津実久が台頭。
- 実久に対抗するように登場した伊作家の忠良との対立。
- 忠良の子貴久が島津宗家を継承。
- 乱れていた薩摩が再統一。
- 貴久が鹿児島に内城を築城。
- 大友氏への勝利により九州統一に向けて進軍。
- 義久が当主に、義弘以下4兄弟による躍進。
- 豊臣秀吉の九州討伐により島津は破れ、薩摩と大隅の所領を安堵。
- 義久と義弘の関係が微妙に。
- 義弘が朝鮮出兵に出陣。
- 関ヶ原の合戦には義弘のみ出陣。
- 家康からの薩摩討伐計画を未然に防ぐ。
- 琉球に侵攻し属国とする 。
なぜ鹿児島は首都になれなかったのか
島津氏の本拠地薩摩が首都にならなかった理由は、京からあまりにも遠いことが挙げられます。戦国時代で京が乱れても天皇は動かず、仮に動いても遠い薩摩・鹿児島まで来る確率は限りなく低いでしょう。
また島津による九州統一の可能性はありましたが、そこから先中国・四国地方やその先をも支配して、島津幕府創設の可能性は限りなく低いと考えられます。そのため九州を統一できたと考えた場合、西の大拠点として機能することはあったとしても、首都になるのは考えられません。
仮に秀吉が九州討伐に着手する前に島津が九州統一し、琉球王国のように日本の朝廷から独立して、明国と冊封体制を築いた場合、もし島津独立国家が樹立されれば、鹿児島がその国の首都になりえた可能性はあります。
鹿児島の経済面について
島津氏が一貫して支配してる鹿児島の経済面を見ると意外な事実がわかります。それは経済面では非常に厳しい状況でした。鹿児島のあたりはシラス台地。これは軽石や火山灰で構成されているため、作物が取れにくい環境にありました。
ちなみに鹿児島の主要作物である、唐芋(サツマイモ)が鹿児島に入ってくるのは、江戸時代になってからです。秀吉が行った太閤検地においても、石高が面積のわりに少なく、薩摩・大隅・日向の3か国で57万8000石程度しかありません。これは尾張1国と同じ程度です。
しかし鹿児島にはある存在が大きかったです。それは南蛮貿易。1543年に種子島に鉄砲が伝来しました。ポルトガル人が持ち込んだ鉄砲は、倭寇の王直の船が偶然に漂着したことから始まります。
その6年後にはフランシスコザビエルが薩摩の坊津に到着しキリスト教の布教を開始。この辺りから南蛮船による貿易が始まります。島津氏は日本の商人を後押しする形で、南蛮貿易から富を手に入れていきました。
また3か国を領有したころから琉球王国への圧力を強めて行きます。琉球を通じた貿易の独占にも力を入れました。このこともあって関ケ原の合戦の後、江戸幕府公認の下、薩摩藩が琉球王国に侵攻し、実効支配へと繋がります。
地震や津波などの自然災害について
現在も火山活動が活発な桜島の噴火が、1468年から10年近く立て続けに火山活動が起こっています。1468年の噴火ときの記録は残っていません。しかし3年後の71年での噴火では死者多数の記録が残っています。そこから73、75と立て続けに噴火が起こっており、溶岩が流出しました。
さらに76年の噴火では死者多数を出した噴火が起こったと記録されています。また薩摩の北側にある霧島連峰では戦国時代の記録は残っていません。しかし新燃岳の記録が江戸時代から始まり、以降頻繁に活動を行っていることから、影響があった可能性があます。
火山活動以外では1443年に薩摩地震が指宿市周辺で発生。また1605年には、外房地域からの広範囲で発生した慶長地震(南海トラフ)における津波が2回鹿児島に押し寄せてきたと記録されています。被害や死者に関するデーターは残っていません。(地震全体の死者は5000人以上との記録あり)
戦国時代ライターSoyokazeの独り言
戦国時代に限らず、中世から近世にかけて鹿児島とその周辺は島津氏が支配していました。それでも戦国時代のころは島津氏内部での抗争があったのは事実。九州統一を目前に野望が破れても元の薩摩や大隅はそのまま島津が支配します。
作物が取れない地域でしたが、戦国時代後半に南蛮から鉄砲などが到達し経済面ではそれなりに頑張っていました。最終的に幕府公認で琉球を抑えたのも後に雄藩として幕末を迎えたきっかけなのかもしれません。
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