一般にサムライのイメージといえば、礼儀正しく謙虚で誠実という肯定的なもので、「あなたはサムライのようだ」と言われて怒りだす人はまずいないでしょう。
しかし、今述べたようなサムライは江戸時代以降に確立したイメージで戦国のサムライは、なにより「他人になめられたら負け!」侮辱に対しては命を捨てて報復する異様に誇り高い人々でした。では、どうしてサムライは異様に誇り高くなったのでしょうか?
この記事の目次
暴力の時代に誕生したサムライ
サムライはどうして、なめられたら負けと異常に片意地を張るようになったのか?
それは、サムライが自分の力以外に頼りにできるものがない時代に誕生した事に関係しています。
日本では大化の改新以後に、天皇を中心とした統一国家が誕生しましたが、土地と人民を天皇が一元管理するシステムは、重税と兵役の負担が重く平安時代に入る前には破綻します。
やがて、自分で開墾した土地は自分で売買していいよという墾田永年私財法が発布され、私有財産である荘園が誕生すると、大地主になった貴族や寺社が土地の免税や役人の立ち入りを禁止する法律の制定を天皇に求めるようになり不輸・不入の権が成立。
荘園から税金を取れなくなると朝廷は経費節減しなければならなくなり、地方から警察力が消え荘園の領有を巡り地主同士で小競り合いが起きるようになります。でも、お金がない朝廷は軍事力がないので全くの無力で小競り合いを制止できません。
そこで、荘園主は自力で荘園を防衛する必要に迫られ、自らも武装し使用人にも武器を持たせて外からの侵略に備えるようになり、こうした人々が初期のサムライになりました。日本のサムライは役人ではなく民間自警団が源流の1つなのです。
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地頭になり強引に年貢を取るサムライ
荘園拡大による大幅な歳入減で大和朝廷が地方への関心を失うと、地方では強いサムライ同士が連合したり合戦したりで淘汰を繰り返し、ある程度の規模を持つ武士団が成立していきました。
平安時代の末になると、平家一門による日本の一極支配に不満を持つ非平家の武士勢力が各地で反平家の旗を掲げます。その中で河内源氏出身の源頼朝が東国の武士をまとめて、平家を打倒、軍事力において日本の頂点に立ち鎌倉に幕府を開きます。
源頼朝の強さと人気の秘密は徹底した現場主義にありました。
従来、合戦において手柄を立てたサムライに対する恩賞は朝廷で論功行賞した上で、与えられていましたが、頼朝は正式な手続きを無視、味方の武士団に対し没収した敵の領地をその場で分け与えたのです。
当時の合戦は自腹参加して恩賞で埋め合わせというペイフォワード形式でしたから、即断即決で土地がもらえる頼朝にサムライの人気が集まるのは当然でした。逆に平家は朝廷の従来のやり方を踏襲していたので全国の武士の心を繋ぎとめるのが難しかったのです。
こうして、自分に叛いた武士の領地を取り上げて味方した武士に与える画期的なやり方でサムライの人気を集めた頼朝ですが、壇ノ浦で平家を滅ぼしてしまうと、与える領地がない事に気がついてしまいます。
平安末期の日本の土地はある程度開墾されつくし、新しくサムライに与える土地がありませんでした。
ここで頼朝はサムライらしい選択をしました。
1185年、後白河法皇に源義経追討を口実として全国に守護と地頭を置く事を認めさせ、まだ恩賞を受けていない配下の御家人に対して、他人の荘園や公領(国司の公有地)に入り込んで自分の取り分を確保しろと命じたのです。
腕に覚えがあるサムライ達は、嬉々として見ず知らずの荘園や公領に入っていき、「俺は地頭だ年貢を寄こせ!出さないなら暴れちゃうぞ」と凄んで領主を圧迫。
武力を持たない荘園領主は地頭に対し抵抗できず、仕方なく年貢の徴収を地頭に任せ、年貢の何割かを地頭の収入にするという掟を飲むしかありませんでした。これを地頭請けと言い、強引なサムライのやり方は「泣く子と地頭には勝てない」という慣用句になり現在まで残ったのです。
地頭請けの成立にしても、当時のサムライが「なめられたら負け」と傲岸不遜に振る舞ったからこそ出来た事で、現代の私たちがイメージするサムライとは随分価値観が違います。
兄弟と土地を巡って戦うサムライ
宝治合戦以降、鎌倉幕府では北条得宗家の独裁が完成。大きな合戦が起きなくなり、土地の再分配が発生しなくなったので、土地を持つ武士は従来の子ども全員に土地を分配する方式を止め、嫡子だけに土地を相続させるようになります。
当然、このやり方では、土地を相続できずに生活に困る庶子が続出。生活を守るため、荘園の明け渡しを拒否し相続者と紛争を起こすケースが増加しました。
一応、鎌倉幕府は自分に従うサムライを御家人とし土地を安堵するという形で所有権を認めていました。しかし、それは、一族で土地を巡って紛争があった時に幕府が調停に入って裁判で解決に導くという事であり、幕府の使者が来る前に相手に土地を追われたり殺されたりすれば、結局、死に損という事になりました。
例えば、鎌倉時代に描かれた「男衾三郎絵詞」では、京都警護の途中山賊に襲われて落命した兄、吉見次郎の領地を弟である男衾三郎が横領する様が描かれています。
幕府が成立しても地頭たちは相続から漏れた庶子や没落して悪党となったサムライと抗争したり、幕府への奉公として京都の治安維持の為に単身赴任する大番役の義務を負い、「なめられたら負け、やられたら倍返し」の精神を強化しました。
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中世は日本全体サムライマインド
平安時代から室町幕府の滅亡あたりまでの時代区分を中世と言います。
中世の特徴は複数の権力者が存在して、それぞれの法律を元に土地を治めていた事です。
それは荘園を見れば分かる事で、天皇に帰属する公領や大貴族、寺院が保有する荘園に、サムライの地頭が強引に入り込み、地頭請けをしたり下地中分と言い荘園を二分してお互いに干渉しないようにするなど、1つの荘園ですら複数の権力者が存在していました。
絶対権力が存在しないので、紛争が起きてもそれを調停する機関がなく当時の人々は複数の権力と繋がりつつ、武装し自分の権利を侵害されたら報復して取り返すのが日常だったのです。
これを当時の言葉で自検断と言いますが、相手になめられない為には自分が強くなって自衛するしかありませんでした。
応仁の乱後は、権力の大きな柱だった室町幕府が衰えてしまい日本全国挙げて「なめられたら負け!やられたら倍返し」サムライの論理が吹き荒れることになりました。
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戦国大名がサムライマインドを変える
では、サムライが「なめられたら負け!」精神から脱却していくのはいつ頃でしょう?
これには、室町時代に大きく性質が変化した守護の存在があります。
元々守護は軍事力を有して、鎌倉幕府の謀反人を討伐する事が目的でしたが、軍事力だけあっても経済力の保障がないので行動に制約がありました。そこで足利尊氏は守護に特定の領国において荘園の収穫の半分を自分のモノにしてもいいとする半済令を出し、守護が荘園経営に干渉できるように法整備します。
当時は南北朝の時代で、南朝方と騒乱を続けている最中なので尊氏としては守護を優遇して、自分の味方に留めておきたい思惑もありました。
地頭は荘園に1人ですが、守護は半国か1国に1名ですから荘園への影響力の強さが全く違い、すぐに守護請けと呼ばれる徴税権を行使するようになり富を背景に地方の地頭や国人勢力を組み込んでいき、守護大名と呼ばれる存在になります。
戦国時代に入ると、一部の守護大名は室町幕府の権威に頼らずに領地を支配しないといけなくなり、より武力を前面に出して荘園の権利関係を解消して部下に土地を再分配するなど、力による荘園解体を推し進め戦国大名へと進化していきました。
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太閤検地で荘園解体 サムライは穏やかに
やがて、守護大名斯波氏の守護代の立場から身を起こした織田信長が尾張、そして美濃を支配下に収めて足利義昭を奉じて上洛を果たし信長の部将として台頭した豊臣秀吉が太閤検地を実施しました。
太閤検地は、土地を実地で計測して正確に石高を算出し豊臣家の経済基盤を強化したと説明されますが、それ以上に重要なのが土地の権利者を納税者と定めた事です。これで入り組んだ荘園の権利関係は清算され、耕作者が年貢を幕府に納めるというシンプル納税が復活し、800年以上も続いた荘園は消滅していきました。
また、戦国大名は領主でもある部下の権力を削ぐ為に自分が居住する城下町に部下を住まわせ土地と部下の関係を断ち、土地には代官を派遣して徴税させ、領地から集めた米の中から俸給を支払うようになります。
江戸時代に入るとサムライたちは、城下町に住んで主君から俸給をもらうサラリーマンとなり、土地が奪われる事を心配する必要も敵に報復する必要もなくなり、真面目に主君に仕えてヘマしなければ、子孫代々安定した生活が保障されました。
こうして、「なめられたら負け、やられたら倍返し」の異常に誇り高いサムライの性質は大きく変化、礼儀正しく謙虚で誠実という現在のイメージになったのです。
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日本史ライターkawausoのまとめ
いかがでしたか?
江戸時代以前のサムライが異常に誇り高かった原因は、自分の土地を守ってくれる権力がないので、なめられないように武装し自己防衛が当たり前だったためです。
そのため、江戸時代になり幕府や藩が土地を管理し俸給だけを支払うようになると、荒々しいサムライの気風は消滅していきました。
安心と安全は、人間を穏やかにするものなのですね。
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