平安時代

後白河法皇(後白河天皇)はどんな人?天下一のバカ殿が長期政権を維持した理由は歌が大好きだから?

幕末70-8_天皇(シルエット)

 

後白河法皇(ごしらかわおうおう)(いみな)雅仁(まさひと)と言い、平安時代末から鎌倉時代初期までの激動の30年間を上皇として君臨した人です。しかしその人物像は乳人(めのと)藤原信西(ふじわらのしんぜい)に史上(まれ)なバカ殿様と呼ばれたかと思えば源頼朝(みなもとのよりとも)には「日本国の大天狗」と恐れられるなど様々です。

 

そこで今回は後白河天皇について解説したいと思います。

 

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鳥羽法皇の第四皇子として誕生

朝廷(天皇)

 

後白河法皇は鳥羽法皇(とばほうおう)の第四皇子として1127年に誕生します。当時は治天の君(ちてんのきみ・)白河上皇(しらかわじょうこう)君臨(くんりん)して絶大な権力を振るっていた時代でした。しかし、間もなく高齢の白河上皇は崩御、父に(しいた)げられた鳥羽法皇が治天の君となります。

 

当時の天皇は後白河法皇の兄である崇徳(すとく)天皇で、法皇は第四皇子なので天皇になれる確率はほぼありませんでした。

 

法皇もそれをシリアスにとらえず、気楽に遊び暮らし当時のJポップのようなジャンルの今様(いまよう)に熱中していました。その熱中の仕方は常軌を逸していて、今様の名人と聞けばどんな低い身分の人間とも会って熱心に会話をし、夜を徹して歌い明かす有様で身分制にうるさい高級貴族たちは法皇を軽蔑(けいべつ)し評判は最低に落ちていました。

 

今風に言えば、カラオケボックスで瑛人(えいと)の香水を朝から晩まで得体の知れない連中とつるんで「ドールチェ!アーンド!ガッバァーナー」とヘビロテしているようなものですね。

 

でも、現代から見れば法皇は若い頃から身分に囚われず有能な人を集めていたとも言えます。後に法皇は自分の死後に今様が失われる事を惜しみ、梁塵秘抄(りょうじんひしょう)という本にまとめて後世に残す文化的偉業を果たしています。

 

ちなみにNHK大河ドラマ平清盛で印象的に使用されたわらべ歌

 

「遊びをせんとや生れけむ、(たわむ)れせんとや生れけん」はこの梁塵秘抄に記録されたものでした。

 

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鳥羽法皇と崇徳天皇の確執

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

順調にいけば鳥羽法皇の崩御(ほうぎょ)の後は、息子で天皇の崇徳天皇が上皇になるハズでした。しかし、鳥羽法皇は崇徳天皇を嫌っていました。

 

その理由というのが崇徳天皇の生母である藤原璋子(ふじわらのたまこ)が鳥羽法皇の父である白河天皇の遊女(あそびめ)であり、崇徳天皇の(たね)は白河上皇ではないかと鳥羽法皇が疑っていたという説があります。

 

そうでなくても鳥羽法皇の寵愛は璋子から藤原得子(ふじわらのなりこ)に移っていました。だから鳥羽法皇は崇徳天皇の子である重仁親王(しげひとしんのう)ではなく、藤原得子との間に生まれた躰仁親王(なりひとしんのう)に皇位を継がせたいと考えたのです。

 

そこで鳥羽法皇は躰仁親王を崇徳天皇の養子として即位させ自分が崩御したら崇徳天皇を上皇として治天の君を譲ると約束しました。崇徳天皇には皇太子の重仁親王がいましたから、複雑な心境でしたが鳥羽法皇が死ぬまでの我慢と提案を受け入れましたが、これは悪質な罠だったのです。

 

躰仁親王は即位して近衛天皇になりますが、崇徳天皇との関係は兄弟のままでした。つまり近衛天皇と崇徳天皇には血のつながりはない事になり、近衛天皇が即位しても崇徳天皇は父として治天の君になり権力を振るう道を断たれたのです。

 

失意の崇徳上皇は父鳥羽法皇を恨みますが、どうする事も出来ませんでした。

 

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バカ殿様、まさかの即位

京都御所

 

しかし、父の悪行が祟ったのか即位した近衛(このえ)天皇は17歳で崩御してしまいます。近衛天皇に子供はなく、再び皇位継承問題が持ち上がりました。ここで鳥羽法皇が目を付けたのはすでに皇子がいた四男の雅仁(まさひと)親王(後白河法皇)です。というより、すでに第二皇子と第三皇子が病没していて雅仁親王しかいませんでした。

 

雅仁親王には嫡男の守仁(もりひと)親王がいましたが、生母の源懿子(みなもとのいこ)は出産直後に亡くなり、守仁親王は後鳥羽法皇に引き取られ、藤原得子に養育されていました。

 

また、雅仁親王自身が猶子として藤原得子の義理の息子になっていて鳥羽法皇は、やむなく守仁親王を即位させる事にします。

 

ところが朝廷で父の雅仁親王を差し置いて孫の守仁親王を即位させるのは序列に反するのではないかと反論があり、鳥羽法皇はあくまでも中継ぎとして雅仁親王を即位させます。

 

こうして雅仁親王は後白河天皇として即位するのです。朝から晩までカラオケボックスで「ドールチェ!アーンド!ガッバァーナー」していた親王のまさかの天皇即位でした。

 

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信西の暗躍と保元の乱

東奔西走の日々を送る筒井順慶

 

しかし、棚ぼたで即位した中継ぎの天皇に期待している人はほとんどいませんでした。後鳥羽法皇も藤原得子も「早く守仁親王に譲位して天皇の座から()けろや」としか思っていません。

 

当の後白河天皇自体にもやる気は全くありませんでした。しかし、ただ1人、後白河天皇に権力を握らせようとほくそ笑んでいる人がいます。それが信西(しんぜい)でした。

 

信西は俗名を藤原通憲(ふじわらのみちのり)と言い、高階家(たかしなけ)を継いで高階通憲と称しますが有能にもかかわらず世襲が幅を利かす当時の朝廷では十分な地位を得られず絶望して出家。信西と名乗りつつも、鳥羽法皇の政治顧問として活躍するなど権力欲を隠していません。

 

この信西の2人目の妻が後白河天皇の乳母(うば)だった縁で信西は引き立てられます。若い頃の後白河天皇を見て「天下一のバカ殿様」と毒づいた信西ですが、バカ殿なら俺が上手く操縦してやると朝廷工作を開始したのです。

 

保元元年(1156年)鳥羽法皇が崩御すると信西は葬儀の一切を取り仕切り鳥羽法皇の後継者は後白河天皇だと印象付けます。

これに対し崇徳上皇は藤原頼長(ふじわらのよりなが)を味方につけて挙兵、信西は源義朝や平清盛の支持を取り付け崇徳上皇方を撃破して勝利しました。

 

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平治の乱と清盛の台頭

平清盛 鎌倉幕府

 

保元の乱後、信西と藤原得子の間で話し合いがなされ後白河天皇は予定通り守仁親王に譲位し二条天皇が即位します。

 

しかし、それにより後白河上皇の院政と二条天皇の親政を巡り朝廷では激しい対立が生じ1159年京都で平治の乱が勃発しました。この戦いで信西は二条天皇派に討ち取られ、信西にすべてを頼っていた後白河法皇は力を失います。

 

ところが勝利した上皇派の藤原信頼(ふじわらののぶより)と天皇派の大炊御門経宗(おおいのみかどつねむね)葉室惟方(はむろこれかた)で今後の政治主導を巡って争いが再燃しました。

 

ここで登場したのが軍事貴族として白河、鳥羽法皇に仕えた伊勢平氏棟梁平清盛(いせへいしとうりょう・たいらのきよもり)です。

 

清盛の軍事力と財力が欲しい経宗や惟方、それに信西に近しかった三条公教は清盛に接近。天皇を京都から脱出させ清盛がいる六波羅(ろくはら)に行幸させる計画を立て後白河上皇にも天皇脱出を告げると、後白河上皇も仁和寺(にんなじ)を脱出します。

 

藤原信頼は上皇派で形の上は上皇の配下でしたが、こういう時上皇は嗅覚がきくようです。天皇脱出は見事に成功、二条天皇は夜中に内裏を出御して清盛の館がある六波羅に移動しました。朝になり事実が知らされると公卿も諸大夫も京都御所ではなく六波羅に集結。

 

 

信頼と提携していた摂関家の藤原忠通、基実親子も参入し清盛は一気に官軍となりました。源義朝などの私兵は僅かであり、この時点で信頼の没落は決定的となります。その後、六波羅合戦で清盛の官軍が上皇方の源義朝等を撃破し、ここで多くのライバルを葬った事で平清盛は一気に権力の階段を駆け上がる事になりました。

 

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高倉天皇を擁立しようとし権力を失う

藤原京(地図)

 

こうして独特の嗅覚で信頼と心中を免れた後白河上皇ですが、自分の勢力を失った事に違いはありません。そこで上皇が頼ったのが平治の乱の勝利者として急速に出世を開始した平清盛でした。

 

平清盛は政治的には若く有能な二条天皇派を支持しますが、極力敵を作らず味方を増やしておく処世術を持っています。そこでバカ君主の後白河上皇にも接近して円満な関係を築こうとしました。

 

特に清盛の二番目の妻、平時子の妹である滋子(しげこ)は宮中に仕えて後白河上皇に見()められ妻となっています。やがて滋子は第80代天皇、高倉天皇(たかくらてんのう)を産む事になりました。

 

 

後白河上皇の滋子への寵愛は深く、生まれた皇子を天皇にしようと画策し、ただでさえ政治の主導権を巡り対立する二条天皇の激しい怒りを買いました。清盛は二条天皇の側についたので後白河上皇は孤立、院の近臣(きんしん)を天皇に追放された上皇は政治の影響力を失い仏教にのめり込んでいき出家して法皇になります。

 

 

二条天皇サイドについた清盛ですが法皇に恨まれないように、三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)を自分のポケットマネーで建立し機嫌を取りました。

 

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再び権力を握る後白河法皇(後白河天皇)

五重塔(仏塔)仏教

 

このまま読経三昧と熊野参詣(くまのさんけい)で生涯を閉じるかと思われた後白河上皇ですが、二条天皇が長寛(ちょうかん)3年(1165年)に重病に(かか)ります。

 

天皇には順仁(まさひと)という皇太子がいましたがまだ乳飲み子であり、とても政務は執れません。しかし父である後白河法皇を憎む二条天皇は法皇の子である高倉天皇への譲位を拒み、乳飲み子である六条天皇を即位させ崩御しました。

 

しかし、二条天皇は近臣である藤原伊通(ふじわらのこれみち)を失い藤原摂関家は弱体化、幼い六条天皇を補佐する勢力はありません。そこで仏教に没入していた法皇が再び政治の表舞台に引っ張り出されます。

 

流行り病で人が簡単に死んでしまう時代において今様で呼吸器を鍛えた後白河法皇は健康という武器で再び権力の座に返り咲きました。たとえバカでも長生きすれば再起の目はあるという事でしょう。

 

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平清盛との蜜月と終わり

本願寺顕如

 

二条天皇派だった清盛は後白河法皇が権力を握るとナチュラルに協力する姿勢を見せます。敵がいなくなった法皇は1168年幼い六条天皇を譲位させ、かつて失敗した高倉天皇の即位を成功させました。

 

こうして法皇は本格的に院政を開始、一方の清盛も承安2年(1172年)高倉天皇の正室に娘の平徳子を送り込む事に成功します。やがて高倉天皇と徳子の間には81代安徳天皇が誕生し清盛は武家で初めて天皇の外祖父となりました。

 

しかし、ここで後白河法皇と平清盛の蜜月は終りを迎える事になります。清盛は、孫の安徳天皇に即位してもらいたいですし、その際にあれこれ口を挟む法皇が邪魔になりました。

 

さらに安元2年(1176年)二人の潤滑油の役割を果たしていた平滋子が病死すると鹿ヶ谷(ししがたに)の陰謀事件が起きて上皇と清盛の対立は決定的になります。

 

そして後白河法皇と父清盛の間に挟まれた平重盛(たいらのしげもり)が1179年、心労から病に倒れて死ぬと、平清盛は後白河法皇を幽閉状態に追い込み政治の実権を掌握しました。

 

清盛は後白河法皇の許しを得ず高倉天皇を譲位させ孫の安徳天皇(あんとくてんのう)を即位させます。

 

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以仁王の挙兵

蒙古兵に先駆けをする竹崎季長

 

幽閉された後白河法皇は下手(へた)に動かずにじっとしていましたが、法皇を幽閉した清盛のやりかたは全国の反平家の武士や寺社の怒りを買います。

 

そこで出されたのが後白河法皇の第三皇子だった以仁王(もちひとおう)の平家打倒の令旨(りょうじ)でした。

 

平滋子(たいらのしげこ)の妨害で天皇に即位する可能性を断たれた以仁王は平家を恨み、後白河法皇の幽閉や勝手に安徳天皇を即位させた事を理由に打倒平家を叫んだのです。

 

以仁王の反乱はあえなく鎮圧されますが令旨は各地の反平家の武士団に任され各地で反平家の狼煙(のろし)があがりました。ところが、この肝心な時に平清盛は熱病に罹り病死してしまったのです。

 

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木曾義仲に救出され、また幽閉

恩賞を北条時宗に必死にせがむ竹崎季長

 

幽閉された後白河法皇を解放したのは倶利伽羅峠(くりからとうげ)で平家の追討軍を破った木曾義仲(きそよしなか)でした。旗色が悪くなった平家は安徳天皇と三種の神器を持ち出して西国へ落ちていきます。

 

しかし、義仲軍が駐屯した頃、京都は大飢饉の真っ最中であり、ロクに兵糧を持ってきていない義仲の連合軍は略奪に走り人々の不興を買います。

 

さらに義仲は皇位継承問題で自分が擁立した北陸宮(ほくろくのみや)を次期天皇に推したので後白河法皇は義仲を生意気と考え、同じ頃、鎌倉に拠点を持ち源義経を京都に向けて進撃させていた源頼朝と関係を強化します。

 

源義経の八艘飛び

 

義仲は後白河法皇に排斥される事を恐れ、再び後白河法皇を幽閉。これで清盛と同じく人心を失った義仲は宇治川の戦いで源義経と範頼(のりより)の軍勢に大敗し自害しました。その後義経は上洛して後白河法皇を解放し、さらに南下して壇ノ浦(だんのうら)で平家一門を滅亡させます。

 

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義経と頼朝の仲を裂こうと画策

源義経 鎌倉時代

 

後白河法皇は義経が平家を滅ぼしたのを苦い顔をして見ていました。このまま頼朝が天下を平定すると結局は清盛の地位に頼朝が就くだけと恐れたのです。

 

そこで後白河法皇は源義経を優遇し、鎌倉の頼朝と対抗させようとしました。平家追討の手柄は義経と範頼に従った京都組にあり、鎌倉留守組はそれがコンプレックスであり、後白河法皇の義経に対する肩入れに過剰に反応します。

 

義経も頼朝の許しも得ずに勝手に官位を受けたり公家の娘を妻にするなど野心を見せたので、頼朝は義経追討を命令、後白河法皇に全国に守護・地頭を置く事を認めさせます。

 

いくら法皇が支援しようと義経単独で鎌倉の頼朝に対抗するのは不可能であり法皇は義経を見限り、頼朝との交渉に望む事になりました。

 

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治天の君の時代が終わる

日本戦国時代の鎧(武士・兵士)

 

後白河法皇の理想は自身が治天の君として全国を支配し、配下の源氏と平氏を巧みに競争させながら権力を維持する事でした。しかし、頼朝はその手には乗らず本拠地を鎌倉において東日本の直接統治を勧めていきます。

 

法皇は頼朝と妥協し日本は東国においては鎌倉幕府の支配、西国では治天の君である法皇の支配と二極支配が確立、中世的な多重権力の時代に入っていきました。1192年、源頼朝が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となった年、後白河法皇は65年の生涯を閉じます。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

後白河法皇には実務能力が皆無で政治面は信西や清盛のような近臣に任せていました。その点では信西が評したように史上稀に見るバカ殿だったのです。

 

ところが今様に没頭し梁塵秘抄のような著作を残し、仏教に傾倒して多くの寺院を建立するなど文化的には大きな功績を残し、また父や兄弟と骨肉の争いを繰り広げた事や今様を通して様々な階層の人間と触れ合った事で非凡な人間観察眼を手に入れ、危ない局面を常に乗り越えて権力を維持する事に成功しました。

 

そして年がら年中、喉を潰すまで今様を謡ったお陰で強力な肺活量を得たのか、当時夭折を繰り返した歴代天皇の中で65歳まで長生きし、政敵が病に倒れる度に返り咲くという幸運をモノとしました。

 

なんだかんだ言っても「ドールチェ!アーンド!ガッバァーナー」と毎日歌っていた事が後白河法皇の長期政権の秘訣だったのではないでしょうか?

 

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