歴史あるNHK大河ドラマには、その時代のお笑いタレントも登場しています。
鎌倉殿の13人でもティモンディ高岸さんが、いつもの特徴ある口調そのままで仁田忠常役として登場しています。普段はにこやかだが合戦では強さを発揮する仁田忠常ですが、その最後はあまりにおまぬけでトホホなのをご存知ですか?
この記事の目次
頼朝と頼家の信任厚き坂東武者
仁田忠常は伊豆国仁田郷の住人で治承4年(1180年)の源頼朝挙兵に参加しています。その後は平氏追討軍に加わり、源範頼の配下として各地を転戦して武功を挙げ、その後も奥州合戦で手柄を立てています。
頼朝の信頼が厚く、文治3年(1187年)危篤に陥った時には頼朝自身が見舞い、建久4年(1193年)曽我兄弟の仇討の際には頼朝の命を狙った曽我祐成を討ち取り頼朝の窮地を救いました。
頼朝死後、二代将軍になった頼家にも信頼され、嫡男一幡の乳人夫になっています。乳人夫というのは疑似的血縁関係で八幡の父になったという事です。これは一幡が将軍になった暁には仁田一族の隆盛は間違いなしという事でした。
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頼家の外戚比企一族を滅ぼす
仁田忠常は裏表がなく誰からも好かれるタイプのようで、将軍頼家ばかりではなく北条時政にも信頼を置かれていました。
しかし、頼家と時政の関係は円満とはいかなかったのです。源頼家は北条政子を母としながら北条氏を警戒し、正室、若狭局の実家である比企一族を重く扱っていました。
当然、政子も時政もその事を苦々しく思っていましたが、決定的な事が起きます。建仁3年(1203年)8月頼家が急病で危篤となり、京都に使者を立てて、3代将軍は息子の一幡であると報告したのです。
もし、将軍位が頼家から一幡に移れば、外戚でもなくなった北条氏の権力は失墜します。時政は外戚の比企能員を滅ぼす事を決意し、建仁3(1203)年 9月 2日、天野遠景と仁田忠常を連れて荏柄社の前で馬を留めると「比企能員が謀反を企てたので本日滅ぼす打ち手を務めよ」と命じました。
その後、北条時政に呼ばれ、館にのこのこ入ってきた能員に蓮景と常忠が立ち向かい能員の左右の手を掴んで築山の麓の竹やぶに引き倒し情け容赦なく首を斬り落とします。驚いた能員の従者は逃げ帰り、一族・郎党が一幡の館に立て籠もりました。
「これは謀反なるぞ、小御所も攻め落とせ」ゴッドマザー北条政子の命令が出て、北条義時、北条泰時、榛谷重朝、和田義盛、平賀朝政、畠山重忠、それに仁田常忠が小御所に攻め込みます。仁田忠常は、一幡の乳人夫だったのですが、その一幡の一族を滅ぼしてしまいました。
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将軍頼家回復!今度は時政追討を命じられる
しかし、この状況で仁田忠常を困惑させる出来事が起きます。助からないだろうと見られていた危篤の頼家が息を吹き返したのです。北条時政により比企一族、そして実子の一幡を殺された頼家は怒り狂い和田義盛と仁田忠常を呼んで時政追討を命じました。
昨日は時政の命令で頼家の子一幡残御所を襲い、今日は頼家の命令で時政を追討する。こんがらがりそうな状況下で忠常は9月6日、時政が住んでいる名越の屋敷に向かいます。その日は、時政から比企能員を討った恩賞が出る日だったからです。
今から討とうとしている時政から恩賞を受けるとは不思議な感じですが、ともかく常忠は家来を引き連れて名越邸に向い、そこで時政の歓待を受け、したたか酒を飲みました。
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家来が早合点し知らない間に逆賊へ
しかし、屋敷の前で常忠の帰りを待つ家来は、常忠が時政に酒宴でもてなされている事を知りませんでした。待てど暮らせど戻らない主人を待つ間に、(これは先手を打たれて主人が時政に討たれたに違いない)と早合点してしまいます。急いで主人の首を取り返そうと名越邸に駆けこもうとしますが、当然、支離滅裂な事を言っているとしか思われず警護の兵に追い返されます。
「もう間違いない…主人は時政めに討たれたのだ!」
素性が知れない武士が「首を返せ」とわめいて屋敷に乱入しようとすれば警備兵が止めるのは当然ですが、そこは早合点で勘違いな坂東武者です。自分達の態度が怪しまれたなどと考えもしません。
「もう、こうなったらやられる前にやってしまうおう!」
家来たちは一目散に仁田の屋敷に帰り忠常が討たれた事(誤報)と報復の為に北条義時を討つべしと煽ります。
仁田一族も慌て者ばかりで、真偽も確認しないでいきりたち、弟の五郎と六郎は郎党を集め北条義時がいる大御所に攻撃を掛けます。義時も応戦し五郎は波多野忠綱に首を獲られました。
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謀反の首謀者として首を討たれる
さて何も知らない忠常、すっかり時政にもてなされいい気分になり、家来を呼んで馬を引かそうとしますが、待っているハズの家来がいません。ふと大御所の方角を見ると火の手が上がっています。
「やや、これは某が酔っている間に謀反でも起きたのか!」
まさか、自分の弟達が大御所を攻めているとは知らない忠常は、急いで屋敷に帰ると残っていた女たちはびっくり仰天
「旦那様、時政めに首を討たれたのではないのですか!」
「寝ぼけた事を言うな、わしは名越殿に酒を御馳走になっていたのじゃ」と忠常が言うと女たちは落胆し、今、大御所を攻めているのは仁田一族だと告げます。驚いた忠常は馬に乗って大御所に急行、そこで謀反の総大将として加藤景廉に首を討たれて死んでしまうのです。享年は37歳でした。
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日本史ライターkawausoの独り言
自分が酒を飲んでいる間に、慌て者の家来のせいで謀反人となっていたトホホな忠常ですが、将軍頼家に近く、また一幡の乳人夫である立場上、どこかで北条氏に消された可能性はありそうです。人柄の良さで頼朝とも北条家とも近かった事が常忠の運命を決してしまったのでした。
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