日本史で習う法皇の1人、後白河法皇は、日本一の大学者として知られた乳父の信西に「三国でも稀なる暗君」つまり天下一のウルトラバカと書かれた人物です。
実際、後白河法皇は今様と呼ばれたわらべ歌や仏教の信仰に熱心でその点では功績大ですが、行政能力は皆無で政治については側近に任せきりでした。しかし、そんな後白河法皇は30年もの間上皇として君臨し続けました。その秘訣は何だったのでしょうか?
第一の要因は健康で後白河法皇の時代の天皇は短命が多いのですが、法皇は今様を毎日大声で歌って肺活量が凄かったのか健康で65歳まで生きました。これにより対立していた息子の二条天皇が短命で倒れるなどして何度も返り咲く事が出来ました。
もう1つは待つという事を知っていた事でしょう。
後白河法皇は、平清盛、木曾義仲に幽閉されましたが、焦って脱出しようとせずに法皇の価値を知る者に救助されるのを待っていました。3つ目は味方を切る時には、必ず次に味方につける人間を確保していた点もあります。
乱暴者の木曾義仲が上洛しても、頼朝が手紙を寄こすまでは我慢して置いておき、いよいよ義経と範頼の鎌倉軍の上洛が確実となると義仲を切り離しています。
平治の乱で側近の藤原信頼が信西を討って権力を握っても、様子見をして平清盛が天皇を擁したと見るや自分も信頼を切り離して清盛を頼っています。この辺りは後白河法皇が父の鳥羽法皇からも兄の崇徳上皇とも仲が悪く自分が養育しなかった息子の二条天皇とも険悪だった事で孤独の中で人の顔色を見る能力に長けていたからであるようです。
最後は義経を籠絡して頼朝と仲違いさせ源氏の勢力を削ごうとしますが、これは頼朝の政治力の前に阻止されました。
頼朝は後白河法皇の恐ろしさを見抜き、日本一の大天狗と評しています。
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