平清盛とはどんな人?八方美人はなんで独裁者に変貌した?【鎌倉殿の13人】

22/01/2022

平清盛 鎌倉幕府

 

2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿(かまくらどの)の13人」その序盤において圧倒的な権力を振るい敵対勢力を押さえつけているのが平家の棟梁(とうりょう)平清盛(たいらのきよもり)です。

 

朝廷すら意のままに操る平清盛

 

平家物語などの影響で残忍非情な独裁者のように扱われる清盛ですが、その実像は正反対、なるべく人に嫌われないよう細心の配慮をする八方美人(はっぽうびじん)でした。では、そんないい人清盛はどうして独裁者に変貌したのでしょうか?

 

平家一門の事がザックリ分かります!

 

平忠盛の嫡男として誕生

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

平清盛は永久(えいきゅう)6年(1118年)伊勢平氏の棟梁、平忠盛(たいらのただもり)の嫡男として京都に誕生しました。生母は不詳ですが、元は白河法皇(しらかわほうおう)に仕えた女房が忠盛に下賜された可能性が高いとされています。

 

平家物語では法皇が懐妊(かいにん)した祇園女御(ぎおんにょうご)を忠盛に与え誕生したのが清盛として御落胤説(ごらくいんせつ)を採用していました。また、祇園女御の妹が清盛の生母で、後に祇園女御が清盛を猶子(ゆうし)(養子)とした記述もあり、清盛が生母の後ろ盾もないのに伊勢平氏の家督を継いだのは、白河法皇晩年の寵妃(ちょうひ)だった祇園女御の影響が強いようです。

 

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愛情深く育ち良い人になった清盛

京都御所

 

少年期の清盛は祇園女御の庇護下(ひごか)で成長し12歳で従五位下左兵衛佐(じゅごいげ・さひょうえのすけ)叙任(じょにん)親王(しんのう)並みの出世スピードを見せ当時の公卿を驚かせます。

 

 

若き頃の平清盛

 

こうして都のプリンスとして成長した清盛は、誰にでもいい顔をし八方美人になる事が生き残る最適の方法と学習していきました。

 

太政大臣に任命される平清盛

 

清盛は外面(がいめん)だけいい人ではなく、家の従者に対しても気を遣う人で、家族が見ている前では、どんな最下層の従者でも、ぞんざいに扱わず一人前の武士として対応し従者を感激させ、冬の寒い日に幼い従者を寝かせる時は、自分の衣の裾側(すそがわ)に寝かせ、従者が朝寝をすると起こさずに黙って起き出し、ぞんぶんに朝寝坊をさせたそうです。

 

また、他人がとんでもなく無礼な振る舞いをしても、ただの冗談だと流す事にし、他人がサブい冗談を飛ばしても相手を(ねぎ)ってニコニコ笑い、部下が大きなミスをしても大声を上げて叱る事は決して無かったとか、努力している面もあるのでしょうが、生まれ育ちが良く、愛情と躾が両立している円満な人柄だったのでしょう。

 

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はじめての鎌倉時代

 

 

平時子を継室に迎える

おんな城主 直虎

 

若い頃は継母、池禅尼の従兄弟であり鳥羽法皇の寵臣、藤原家成の屋敷に出入りし、久安3年(1147年)には、鳥羽法皇の判官代(はんがんだい)として葉室顕頼(はむろあきより)信西(しんぜい)とともに院庁(いんのちょう)の実務をしていた平時信(たいらのときのぶ)の娘を継室に迎えました。彼女が後に二位(にい)の尼として、安徳天皇の外祖母(がいそぼ)になります。それ以前には高階基章(たかしなもとあき)の娘を正室に迎え、平重盛(たいらのしげもり)平基盛(たいらのもともり)を儲けていましたが死別したようです。

 

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延暦寺の強訴を鳥羽法皇の庇護で回避

一向一揆

 

久安(きゅうあん)3年6月15日、清盛は祇園社(ぎおんしゃ)に郎党を引き連れて大願成就の祈願に向かいますが、途中で清盛郎党の武具携帯を咎めた神人(じにん)と小競り合いになります。この時、清盛郎党の放った矢が宝殿(ほうでん)に当たるアクシデントが発生しました。

 

祇園社を末寺(まつじ)としていた延暦寺は「神をも恐れぬ所業」と激怒し、鳥羽法皇に平忠盛、清盛父子流罪(るざい)を要求、京都に僧兵を派遣して強訴に及びました。

本願寺顕如

 

しかし、鳥羽法皇は自身の寵臣である忠盛と清盛を一貫して(かば)い、武士団を動員して延暦寺僧兵の京都侵入を阻止。忠盛が早期に罪を認めて下手人を検非違使(けびいし)に引き渡した事もあり、朝廷の非難も高まらず清盛の罪は罰金に留まります。

 

ただ、このせいで清盛の昇進は遅れ、忠盛の正室、池禅尼(いけのぜんに)の子の平家盛(たいらのいえもり)常陸介(ひたちのすけ)右馬頭(うまのかみ)に任じられて頭角を現しました。

 

平家の総帥・平清盛

 

ところが家盛は2年後に急死。再び清盛は浮上し安芸守(あきのかみ)となり、瀬戸内海の制海権を手にし莫大な利益を挙げ西国に影響力を拡大。仁平3年(1153年)忠盛が死んだ事で伊勢平氏の棟梁となりました。

 

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保元の乱で勝組に属する

三国志のモブ 反乱

 

保元元年(1156年)鳥羽法皇の薨去(こうきょ)により事態が動きます。

 

後白河法皇 天皇 鎌倉

 

鳥羽法皇の後継者である後白河天皇を擁立し、その皇太子守仁(もりひと)親王を推す信西や鳥羽法皇の寵妃美福門院(びふくもんいん)、さらに関白(かんぱく)藤原忠通(ふじわらのただみち)の勢力と、鳥羽法皇に冷遇された崇徳上皇(すとくじょうこう)と、その子の重仁親王(しげひとしんのう)を推す藤原忠実(ただざね)頼長(よりなが)父子の勢力がそれぞれ源氏と平氏の勢力を味方にして戦争を起こします。保元の乱です。

 

この時清盛は継母(けいぼ)、池禅尼が崇徳上皇の子、重仁親王の乳母である事から難しい選択を迫られますが、池禅尼が今回の戦いは後白河天皇が勝つとして子の頼盛(よりもり)を清盛に従わせる事に成功。清盛は一門を結束させ後白河天皇の側について勝組となり清盛は播磨守(はりまのかみ)太宰大弐(だざいだいに)に昇進しました。

 

遣唐船(奈良時代)

 

 

太宰大弐は日宋貿易を管轄する官職であり、清盛は職権を活用して巨万の富を蓄えます。

 

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平治の乱で難しい局面に

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保元の乱に勝利し後白河天皇のブレーンとして権力を握った信西ですが、やがて守仁親王が二条天皇として即位すると今度は自分の子息を天皇サイドにも送り込んで影響力を拡大しようとします。

 

これに対し後白河上皇の寵臣、藤原信頼(ふじわらのよりのぶ)と二条天皇の寵臣、藤原経宗(ふじわらのつねもと)葉室惟方(はむろこれかた)が反信西で結託。藤原信頼が源義朝(みなもとのよしとも)源光保(みなもとのみつやす)などを武士勢力に引き込んで反信西の兵を挙げ三条殿を襲撃。後白河上皇の身柄を確保し逃亡した信西を追い詰め、穴に隠れていた所を捕縛し斬首しました。

 

この頃、清盛は熊野参詣(くまのさんけい)に出ていて留守でしたが、困った立場に追い込まれます。どう困ったのかというと、すでに清盛は信西の子成憲(なりのり)に娘を嫁に出し信西の信任厚く信西派だと思われていたのです。

 

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八方美人のお陰で平治の乱に勝利

藤原京(地図)

 

しかし八方美人の清盛はここからが違いました。すでに藤原信頼の嫡男、信親(のぶちか)にも娘を輿入れする約束をしていて信頼からも信用を得ていたのです。この時、源義朝の子の義平(よしひら)は信頼に直ちに清盛を討つべしと討伐を要請していますが、信頼は清盛も味方になると(たか)を括って許可しませんでした。

 

清盛も手勢を引き連れて本拠地の六波羅(ろくはら)に戻ると藤原信頼に名簿(みょうぶ)を差出して配下になる事を求め信頼は完全に油断します。

 

源義朝の武力を背景に後白河上皇と二条天皇を擁立した信頼はすぐに信西以上の独裁者になり、二条天皇の寵臣である葉室惟方は信西と親しかった三条公教(さんじょうきみのり)と計画して信頼排除の計画を練り、上皇と天皇を信頼の元から引き離し六波羅の清盛の下に逃がす事に成功します。

 

幕末77-14_錦の御旗

 

 

後白河上皇と二条天皇を手に入れた清盛は、天皇の命令で朝敵とされた藤原信頼と源義朝を攻撃して大勝利しました。この時、反清盛の武士団はほとんど藤原信頼サイドにいたので清盛は対抗勢力がない軍事力トップの存在となり、都で絶大な影響力を持ちます。

 

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義朝の子をほとんど助命し禍根を残す

戦費負担で貧乏になる鎌倉武士

 

ところが、ここで清盛の最大の弱点、誰にも嫌われたくない病が炸裂しました。

 

継母、池禅尼や後白河天皇の頼みで、義朝の嫡男の頼朝や側室常盤御前(ときわごぜん)の子牛若丸を助命したのです。と言うより清盛が処刑したのは乱の首謀者の義朝と庶長子(しょちょうし)義平(よしひら)だけで、後は義朝の男子を全員助命しました。

 

いくらなんでも、これは助命が行き過ぎで、結局はこうして生かしておいた頼朝や義経、範頼(のりより)のような勢力が二十数年後に平家を壇ノ浦で滅ぼし清盛はしっぺ返しを喰らいます。

 

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二条天皇と後白河上皇で二股をかける

朝廷(天皇)

 

ここからも清盛は八方美人ぶりを発揮していきます。

 

継室の時子が二条天皇の乳母であった事から、清盛は天皇の乳父(めのと)として後見役となり検非違使別当(けびいしべっとう)中納言(ちゅうなごん)に昇進する一方、二条天皇の父であり天皇とは険悪な関係である後白河上皇の院庁別当(いんのちょうべっとう)(長官)を務めて二股(ふたまた)をかけ、時子の妹、平滋子(たいらのしげこ)が後白河上皇の寵妃となるなど、権力がどちらに転がっても大丈夫なように盤石な体制を組みます。

 

応保元年(1161年)9月、後白河上皇と滋子の間に言仁親王が誕生すると、平時忠(たいらのときただ)平教盛(たいらののりもり)が立太子を計画。激怒した二条天皇が時忠、教盛等を解官して平時忠を出雲へ左遷、後白河院政を停止する措置に出ると、清盛は二条天皇を支持し御所に武士を宿営させて警護する事で天皇の厚い信頼を得、また息子の重盛を天皇に仕えさせました。

 

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後白河上皇をケアし摂関家とも縁組

五重塔(仏塔)仏教

 

しかし、八方美人の清盛はこれで後白河上皇を切り捨てたりはせず、仏教に傾倒する上皇に対し蓮華王院(れんげおういん)を造営してプレゼントし、荘園を寄進し上皇の財政基盤を強めます。さらに清盛は関白の近衛基実(このえもとざね)に娘の平盛子(たいらのもりこ)を嫁がせて摂関家とも関係を強化しました。

 

その後、二条天皇が急死し幼少の六条天皇(ろくじょうてんのう)が即位しますが後見人の近衛基実が死去すると、清盛は院政を復活させた後白河上皇に接近、上皇と滋子の間に生まれた憲仁親王(のりひとしんのう)が六条天皇の譲位を受けて高倉天皇として即位します。

 

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平家にあらずんば…

和宮が嫁入り時の行列(将軍の上洛)女性

 

さらに高倉天皇に清盛の娘の徳子(とくこ)が輿入れすると清盛は天皇の義父となり、後白河法皇との関係も滋子を仲介して良好。伊勢平氏の関係者も次々と官位を得て高位に上り、一門で全国に500カ所の荘園を所有し、福原に拠点を置いて日宋貿易を盛んにするなど、平家にあらずんば人に(あら)ずと豪語するような隆盛を極めました。

 

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権力の頂点に立ち暗雲が

公家としての栄華も極めた平清盛

 

しかし、東の空に上った太陽が次第に西に傾くように清盛の天下にも暗雲が立ち込めます。平家の利権が拡大するに従い、後白河法皇の院政と衝突する事が増えてきたのです。さらにこのような時に法皇と清盛の調停をしていた滋子が死去。

 

晩年の平清盛

 

そして、決定的な事として高倉天皇の皇后になった徳子が言仁親王を産みます。この言仁親王が後の安徳天皇ですが、天皇の外戚となった清盛にとって後白河法皇は、妥協や譲歩をしてまで必要不可欠な存在ではなくなります。

 

後白河法皇と清盛の対立は決定的となり、法皇は鹿ケ谷の陰謀で平家討伐の陰謀に関与。

 

また清盛の娘盛子の死後、法皇が勝手に荘園を没収したり病死した清盛の子重盛の知行国を没収、さらに平家に近い近衛家ではなく松殿家の松殿師家(まつどのもろいえ)権中納言(ごんちゅうなごん)に引き立てるなど、清盛を無視した政策を取ります。

 

清盛は激怒し福原から兵を率いて京都に入り法皇を幽閉、松殿家など反平家的な公卿を追放して親平家公卿と交代しました。これを治承(じしょう)三年(1180年)の政変と言います。

 

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後白河法皇を幽閉し反平家の狼煙が上がる

 

さらに、清盛は高倉天皇に譲位させ、外孫の安徳天皇を即位させました。こうして、日本の権力の頂点に立った清盛ですが、後白河法皇を幽閉したのは致命的で、法皇の子の以仁王(もちひとおう)源頼政(みなもとのよりまさ)と結託して平家追討の令旨を出すと、日本各地に反平家の火の手が上がりました。

 

清盛は武力で反乱軍を叩き潰そうと東国で蜂起した源頼朝や源義仲、武田信義に対して平維盛を(たいらのこれもり)総大将に追討軍を派遣しますが大敗。

 

熱病に臥せった平清盛

 

その後、膝元の美濃や近江、摂津でも源氏勢力が挙兵し、南都興福寺(こうふくじ)園城寺(えんじょうじ)も兵を挙げる中、清盛はマラリヤと見られる熱病に罹り、治承五年(1181年)(うるう)2月4日に64歳で死去します。

 

平家の水軍(壇ノ浦の戦い) 平清盛

 

それから僅か4年で、平家は壇ノ浦の海の藻屑(もくず)となってしまうのです。

 

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二股政策が出来なくなった清盛

源氏と平氏が対立(平清盛と源義経)

 

清盛は、外孫の安徳天皇が誕生した事で、天皇の外戚となり後白河上皇をも凌駕する権勢を得ました。これは複数勢力のどちらにも取り入り良い顔をする事で勢力を伸ばしてきた清盛が初めて直面する事態でした。

 

それまでの八方美人型の対応が取れなくなり、清盛は絶対者として政策運営をするようになり、これまで機嫌取りに心を砕いた後白河法皇への対応も(おろそ)かになります。こんな事が重なり、よい人だった清盛は短期間で冷酷な独裁者へと変貌したのでしょう。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

清盛は自分が助命した恩を仇で返した頼朝に激しい憎悪を燃やし、「私の子孫は、たった1人になっても頼朝に挑んで(むくろ)をさらせ」と強い調子で遺言したそうです。一族を残す事より頼朝を滅ぼす事を優先せよという事ですが、そんな事なら最初から頼朝を助命しなければ良かったのにと思います。

 

自分が優しい対応をすれば、相手もそれに応えてくれるだろうという清盛の優しいゆえの思い込みは、流人として苦労を重ねた現実主義者、頼朝には通用せず、甘すぎる八方美人の性質が裏目に出てしまいました。

 

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大和朝廷

 

 

 

 

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カワウソ編集長

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