森長可ってだれ?というやり取りをしてしまった罪つぐないに「森長可」のことを本気で調べてみた

18/10/2020


森蘭丸のお兄さん・森長可

 

織田信長(おだ のぶなが
)
軍の猛将に、森長可(もり ながよし
)
という人物がいます。

「もり ながよし」と読みます。と解説を入れないと、そもそも名前を読めない人も多かったのではないでしょうか。

 

戦国史ライター YASHIRO-ver3

 

それくらい、言ってしまえば、マイナーな戦国武将です。どうしてそんな武将の話をするのかというと、ライターである私自身の親戚に、「先祖は森長可に仕えていたのだ」というオッサンがいたという、個人的な思い出ゆえ、となります。

 

冠婚葬祭でしか会わない人だったのですが、

 

そのオッサンに対して、それなりに戦国時代を知っている顔をしていた小学生の私、「森長可って誰?」と訊いてしまった記憶があり。その罪滅ぼしに、歴史についてのライターをやらせてもらっている今、まじめに「森長可ってどんな人?」を調べてきました!

 

が、思い返せば、そのときのオッサンの私に対する回答も、ひじょうに森長可に対しては失礼なものでして。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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「森長可というのは、本能寺の変で信長に付き添った、有名な森蘭丸のお兄さんだよ」

本能寺の変の織田信長

 

という説明を受けたのです。

 

そうなのです。親戚のオッサンにかぎらず、「森長可ってだれ?」に対する回答として、あちこちで出てくるのが、「あの森蘭丸(もりらんまる)の、お兄さんです」という説明。たしかにこう聞くと、一瞬わかった気になるのですが、これはあらぬ誤解を招いてしまう回答でもあります。

 

衆道b 織田信長、森蘭丸?

 

幼い頃の私も、これを聞いたせいで、「森長可というのは弟の森蘭丸が信長の小姓として寵愛を受けたおかげで、便乗で出世した人か」という印象になってしまいました。この印象は、間違いでした!

 

 

森蘭丸が信長に取り立てられたから出世したのではなく、森長可ががんばったから弟も目をかけられた?

悪い顔をする斎藤道三

 

まず、そもそもの出自から。森氏というのは、そもそも美濃国の土岐家に仕えていた一族。マムシの道三(どうさん)が美濃を「国盗り」する前から根付いていた血筋ということになります。

武田信玄が攻めてきてビビる織田信長

 

その血筋につながる森長可は、織田信長軍の武将として、美濃攻めや、対武田家戦にて活躍しました。最終的には川中島(かわなかじま)に二十万石という所領を得ます。

武田信玄-vs-上杉謙信

 

そうです、武田軍と上杉軍が何度も衝突した、あの川中島です。その武田家から奪った所領に森長可が入ったわけですから、つまり上杉軍との最前線に突出した土地を守るという重要な役目を、信長から任されたわけです。この森長可は、戦にかなり長けた人物であったらしく、勇猛果敢な戦いぶりで知られておりました。弟の森蘭丸よりも前に、兄の森長可のほうも信長に目をかけられ、重宝されていたようです。

 

なんであれ、一代で二十万石の大名に取り立てられたのは、信長の信任も厚かったうえに、実力も備わっていたと解釈できます。弟の蘭丸が信長に愛されたゆえに、それに便乗して出世したなどというよりは、そもそも森長可ら「森氏」の働きがめざましいがゆえに、信長も蘭丸をかわいがった、というところでしょうか。

 

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運命が急転したのは、「本能寺の変」よりも「小牧・長久手の戦い」

戦に長けた森長可

 

そんな森氏にとって、本能寺の変で森蘭丸が討たれたことはたいへんな痛手でした。ですが実はこのとき、森長可は素早く豊臣秀吉の傘下に加わって柴田勝家(しばた かついえ
)
らと対峙する構えに入っています。

 

「信長の次は秀吉」ということを早期に見抜いていたようで、この初世の判断の良さも、たいしたものです。

 

長い槍が得意な前田利家

 

もともと信長に重宝されていた武将で、秀吉にも重宝されたわけですから、そのままいけば、前田利家(まえだ としいえ
)
あたりに連なる「豊臣家の古参の名門」にまで出世する可能性もありました。

 

中国大返し ver2(豊臣秀吉)

 

運命が急転したのは、豊臣秀吉と徳川家康が対決した「小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい
)
」です。

 

この戦いで、森長可の部隊は徳川軍の奇襲をうけ、致命的な損害を出したうえに、森長可自身もあっけなく戦死してしまったのです。わずか27歳での戦死。もっともっと活躍できる素地を残しての早世であり、森氏にとってはこれこそがたいへんな打撃でした。

 

まとめ:意外なことに明治期まで生き残っていた「森氏」

徳川家康

 

とはいえ、小牧・長久手の戦いにおける敗死も、本人の判断の悪さというよりは、そもそもの豊臣秀吉の指示した作戦が、完璧に徳川家康に裏をかかれてしまった話。

 

森長可本人のせいとはいえないですし、相手も徳川家康となると、「敵が強すぎた」とも言えます。このことは秀吉も理解していたようで、森長可を失ったあとの森氏は引き続き豊臣家からの好意的な庇護を受け、大名として生き残ります。

 

その後、紆余曲折はあるのですが、実は森氏は徳川時代をも生き残り、微力な小藩にはなっていましたが、明治維新にも参加しているのです。森長可が小牧・長久手の戦いで戦死してから300年後に、その子孫が因縁の徳川家が倒れるところまでを見届けることができた、というのは、これはこれで面白い歴史の巡り合わせといえましょうか。

 

ほのぼの日本史ライター YASHIROの独り言

戦国史ライター YASHIRO-1

 

ということは、先述の、「ライターの親戚のオッサン」の家筋もまた、明治維新に参加していたのでしょうか?

それは、そのオッサンが子もなく既に亡くなってしまったので、もはや確認のしようもございません。

 

だいいち、こうして森長可の生涯をまとめてみると、あのオッサンは「森長可という人は秀吉の中国大返しにも参加していた武将だ!」などと豪語していたあたりが、明らかに史実と比較して間違っていることもわかってきてしまい、なんだか、いろんな意味で、「そもそもあやしい話」な印象になってきてしまったのですが。

 

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YASHIRO

通説では「ダメ人物」とされている人について、史料に則しつつも「こういう事情があったのではないか?」と「弁護」するテーマが、特に好きです。愚将や悪人とされている人物の評価を少しでも覆してみたい!がモチベーションです。日本人の「負けた者に同情しがちな心理」大切にしたいと思っています
【好きな歴史人物】
南朝側の武将全員!

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