戦国時代

豊臣秀長が二代目でピッタリ?あえて他の「秀吉の後継者候補」と実績比較

豊臣秀吉の弟・豊臣秀長

 

豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の弟、豊臣秀長(とよとみ ひでなが)

 

それほど戦国時代に詳しくない方からは、「え?秀吉に弟がいたの?」という声が漏れ聞こえてきそうですが、はい、おりました。

それもかなり優秀な!

 

豊臣秀吉からのオファーを拒否する佐久間盛政)

 

とにかく人材不足な印象が強い「豊臣一族」の中で、豊臣秀長は兄の秀吉をよくサポートし数々の活躍を見せたのみならず、政治家に出世してからのリーダーシップにおいても、並外れた人望の高さを見せました。

 

「二代目は愚かではもちろんダメだが、初代と衝突するほど豪傑すぎてもダメ」という歴史の法則を考えると、優秀であるにも関わらず野心がギラギラしていない秀長は、豊臣秀吉自身が指名した後継者候補たちの誰よりも、二代目候補としてパーフェクトだったのではないでしょうか?

 

どれほど秀長が二代目にふさわしいキャラクターだったか?

今回はそれを、秀吉が実際に指名した他の後継者候補たちとの比較から、見ていきましょう!

 

後継者一番手だった豊臣秀次VS豊臣秀長の実績比較

豊臣秀次

 

子宝に恵まれなかった秀吉が、事実上の後継者として育てていたのが、豊臣秀次。秀吉にとっては、甥っ子にあたります。

 

わずか4ヵ月で後継者に指名される豊臣鶴松

 

尾張の卑賤な身分から現れた秀吉が、なんとかして自分の家族や親戚の中から後継者を探し出そうと、田舎から引っ張り出して、官位を与え、最終的には関白にまで出世させてやったのが、この秀次です。

 

関白の座を譲り渡したということは、当然、後継者候補の筆頭として育てるつもりだったはずなのですが、最終的に秀吉は、秀次を切腹させた上で、その一族を皆殺しにするという、おそろしい所業に出ます。いったい何があったのでしょうか?

 

秀吉が秀次を処刑した理由は、諸説があり、今日までハッキリとはわかっていません。ただ推測できるのは、関白になりあがった秀次が、理由が何であれ秀吉とかなり険悪な関係にあったこと。そしてそんな秀次を弁護する武将が出てくるほどには、秀次の周りに、彼を擁護してくれる味方がいなかったこと。

 

だいいち秀次という人物は、経験を積ませようという秀吉の配慮から、小牧長久手の戦いや紀州攻め等の重要な合戦に参戦しているものの、いまいち目立った功績が残っていません。

 

それどころか小牧長久手の戦いでは、家康の奇襲を受けてパニックに陥ったという悪評ばかりが伝え遺されています(これについては、いきなりVS家康戦では相手が悪すぎたのかもしれませんが)。

 

これでは、豊臣方の諸武将たちも、

「秀次様はあくまで秀吉様のおかげでああなった、なりあがり」と心底では軽蔑していたかもしれず、天下人たる秀吉の後釜を引き継ぐには、そもそも難しいキャリアだったといえそうです。

 

黒田官兵衛にも実力を認められる豊臣秀長

 

いっぽうの豊臣秀長は、かの竹中半兵衛(たけなかはんべえ)の薫陶を受け、かの黒田官兵衛(くろだ かんべえ)にもその能力を絶賛され、などなど、秀吉に連れられて参加した戦いのたびに、名将たちにかわいがられ、高い評価を得ていたようです。

 

合戦に参戦するたびに成長を見せ、先輩武将たちからもお墨付きをもらっていたというあたり、秀長のキャリアには「なりあがり」と軽蔑されるもろさは見られません。

 

領国経営も完璧!小早川秀秋VS豊臣秀長

小早川秀秋

 

秀次の他にも、秀吉には目をかけている後継者候補がおりました。これまた甥っ子にあたる、小早川秀秋(こばやかわ ひであき
)
です。秀吉はこの人物を養子に迎え、後継者候補として重宝しますが、秀長や秀次とは、また少し異なるキャリアの積ませ方をしました。中国地方の名門、小早川家の養子に出したのです。

 

小早川家の跡取りとして、たいへん名誉ある地位を早々と手に入れてしまったわけですが、その後の秀秋は酒や遊びに溺れ、小早川家中での評判も落とし、五十九万石という巨大な所領の責任者の座をせっかく得たのに、領国経営はグダグダでした。いっぽうの豊臣秀長は、領国経営においても、たいへんな実績を残しています。

 

雑賀衆

 

たとえば紀州攻めで、有名な「雑賀孫市(さいか まごいち)」たちの一党との死闘を繰り広げたあと、占領軍として戦後復興に着手するやいなや、たちまち領民たちの人気をとり、紀州一帯を見事に統治してしまいます。

 

そのあとは、これまた「反豊臣家」の保守的な勢力がウヨウヨしている奈良地方の大名に抜擢されるのですが、こちらも見事に統治し、領民たちをてなずけてしまったそうです。

 

もともと安定している名家に迎え入れられながら、まったく統治力を見せていない秀秋と、戦後処理で入った領土(とうぜん「反豊臣」だらけ)の責任者となりながら、いつも領民たちを味方につけることに成功していた秀長。

 

秀吉でなくとも、「自分の後釜としてはどちらがふさわしいか」を考えた時、この比較は決定的な差として見えていたのではないでしょうか。

 

まとめ:残念なのは豊臣秀吉の「なみはずれた後継者運の悪さ」か

 

豊臣秀長が、他の秀吉の後継者候補に比べて一歩どころか、二歩三歩も抜きんでた才人であったことは、どうやら間違いなさそうです。そのうえ、秀長には最高の美質があります。

 

領国経営がうまい、とか、反乱の気運がある土地をうまくなだめられる、とか、

「秀吉に比べると地味な才能」で有能な点です。

 

歴史の常として、偉大な初代の後継者が、それはそれでギラギラした英雄肌だと、今度は初代と衝突し、悲惨な結末をもたらします。温和で、地味な政治力を発揮するのが得意な秀長は、秀吉の英雄豪傑肌とはぶつかることもなさそうで、そんな意味でも「二代目として理想的」な人物だったのではないでしょうか。

 

どうして、これほどの期待がかかる弟が、二代目候補にならなかったのでしょうか。残念ながら、この豊臣秀長は、早い段階で病没してしまうのです。

 

ほのぼの日本史ライター YASHIROの独り言

戦国史ライター YASHIRO-ver3

 

秀吉がこの秀長を後継者候補の一人に数えたことがあったのかどうか、それは秀長があまりにあっけなく病死してしまったせいで、わかりません。しかしながら、目をかけた秀次や秀秋が「残念」なキャリアとなり、見込みのあった人気者の秀長を、なんと病気で失ってしまうとは、これは豊臣家の人材の薄さ云々よりも、何かに呪われているかのような秀吉の「後継者運の悪さ」のせいとしか、言いようがありません。

 

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