海道一の弓取りは何故、桶狭間の悲劇を迎えたの?今川義元編

20/12/2020


若き頃の織田信長に敗れる今川義元

 

今川義元(いまがわ よしもと
)
といえば、織田信長(おだ のぶなが
)
に手玉に取られ殺害されたザコ大名のように思っている方も多いかもしれません。

 

その実像は、「ザコ」どころではありません!

 

寄親・寄子制を導入する今川義元

 

外交も内政も軍事も安定させ、特に城下では商人を優遇して経済を潤わせるなど、スキのない堅実運営ができる「名経営者」タイプでした。私の評価としては、「桶狭間(おけはざま)で討たれた以外は大名としてほぼ完璧だった!」と見ています。

 

今川義元

 

そんな定盤石の経営をこなしていた今川義元が、どうして桶狭間ではボロボロになったのでしょう。考察して見えてくるのは、桶狭間への出陣はいろいろな意味で「義元の一世一代の冒険」であったこと。

 

出陣した二万五千という兵力も最大限の動員数であり、堅実経営をモットーとしてきた義元の人生では破格の突出でした。やや唐突の感もあるこの大冒険、いったい誰の差し金だったのでしょうか?

 

そういえば、この時期の今川義元の周辺に、一人気になる人物がいたことを思い出しました!

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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武田信玄のお父さん「武田信虎」は今川家中でも重要人物扱いだった!

武田信虎を追放する武田信玄

 

武田信虎(たけだ のぶとら
)
といえば、これまた小説やドラマの影響で、

「息子である武田信玄(たけだ しんげん
)
に国外追放された」という一点ばかりが強調されてしまっている人物です。

 

甲斐統一を果たす武田信虎

 

とりわけ、追放された後にどのような生涯を送ったのかについては、ほとんど言及されることがありません。質の悪いマンガや、時代考証の甘いドラマになると、中年になった武田信玄が「死んだ信虎の幽霊を夢に見て、後悔の念に悩まされる」などというシーンすら、平気で描かれていたりします。

 

とんでもない!

武田信虎はむしろ息子の信玄よりも長生きした人物です。現代に流布する、その手のいい加減なメディアを見て、

 

「ばかもん!わしはちゃんと今川家で重宝されて生きとったわい!」と信虎が激怒する顔が目に浮かびます。

 

どうして今川家中に追放された武田信虎がいたのか?

簡単に整理すると、こういうことです。

 

・今川家は北の脅威を除くために、武田信虎との同盟をつねづね働きかけていた

 

・この同盟案に信虎も応えて、自分の娘(つまり信玄のお姉さん)を今川義元に嫁がせていた

 

・それ以来、武田信虎と今川家は良好な関係だった

 

武田信玄が作った甲陽軍鑑

 

・武田信玄は父親の信虎を追放する時に、事前に義元に示し合わせて、「父を追放するから面倒みてやってくれ」と手配をしていた気配がある

 

・その証拠に、信虎が追放されてしばらくすると、今川義元から武田信玄に「あんたのお父さんの世話を見てやっているんだけど、生活費についてオタクからも少しは払ってくれんじゃろうか?」というケチな手紙が送られている

 

追放されてきた義父を迎え入れた義元は、立派なお屋敷をあてがい、かなり気を使って大切にしていたようです。武田信虎も、名門に嫁がせた娘のおかげで、安泰な隠居暮らしの身分。と、おもいきや。

 

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とにかくおとなしくならない「甲斐の虎」がお義父さん!おムコさんの苦悩が止まらない!

 

なにせ武田信虎はタタキアゲの「乱世の奸雄」。こんな強烈キャラが「殿様のお義父さん」として駿河にやってきたのですから、家中に戸惑いも大きかったでしょう。そのうえ信虎もまだ武将としてアブラののっている年齢ですので、

 

「わしは隠居の身として口を出さないよ」などというオトナシイ人におさまっていたとも思えません。

 

娘を通じて、時には自分自身の口から、義理の息子である義元に「ああすべき、こうすべき」と口出ししていたのではないでしょうか。おまけに後年の今川氏真時代の話にはなりますが、この信虎、自分を追放したはずの信玄に、

 

「今川家にはスキがあるから、今攻め込めば駿河を取れるぞ!」という手紙を送っていた疑惑もあります。

 

「力量がないと見限られれば、この義父は、平気で裏切ってくるかもしれない!」

堅実経営を好む義元には、野望ギラギラの義父の視線はそうとうなプレッシャーだったのではないでしょうか。

 

三国同盟成立のウラで、なぜか陰謀の明け暮れる京都に潜入していた武田信虎!

太原雪斎

 

この時代、義元の参謀役を務めていたのは太原雪斎(たいげん せっさい)

有名な「今川義元、武田信玄、北条氏康(ほうじょう うじやす
)
の三国同盟」は、一説にはこの人物の奔走によって成立したともいわれています。

 

今川義元の右腕として手腕を発揮する太原雪斎

 

この三国同盟は今川家にとっても決定的に「おいしい」同盟でした。北と東の脅威はなくなり、残った敵である西の織田家はまだ信長「以前」の時代。堅実経営派の義元はこれで安心して、さらに富国強兵に臨めるはずでした。

 

ところがこの時、親戚の中で唯一「こわい」信虎が、なぜか京都(きょうと)駿河(するが)を行き来する生活を開始します。

 

足利義輝

 

どうもこの時期の信虎は、京都で足利義輝(あしかが よしてる
)
や、その他の諸大名たちと接触し、「よしみを通じていた」とされているのです。この頃の京都は三好衆(みよししゅう)松永久秀(まつなが ひさひで
)
の暗躍する、クーデターが頻発する混乱期。

 

この京都に信虎が現れて、陰謀渦巻く政界の中で「有力者とよしみを通じていた」とすれば、おそらく権力闘争がらみの話だったと思われますもしかすると信虎、「おれの義理の息子は、今川家の当主で強力な兵力を持っている、京都へ招き入れて奴に権力を奪取させよう!」と余計なことを振りまき、段取りを組んでいたのかもしれません。

 

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まとめ:唐突な「義元の大冒険」は強烈キャラの義父のプレッシャーか?

鉄砲隊を率いる今川義元

 

上洛のお膳立てをされてしまった上に、もし無能と見限られたら隣国の信玄に売られるというプレッシャー。この状況の中、今川義元も唐突に覚悟を固め、二万五千人という最大限の軍事力を投入して、上洛に向けての西進を始めます。勇壮な出発というよりは、何やら悲壮な覚悟を感じさせるその後ろ姿。その結果が不幸すぎる桶狭間での敗死でした。

 

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戦国時代ライターYASHIROの独り言

戦国史ライター YASHIRO-ver3

 

義理の息子を死地においやってしまった信虎は、さすがに反省し、自分にとっては孫にあたる今川氏真をサポートする気になったのでしょうか。

 

ところがこの後の信虎はまたしても、とんでもない行動に出るのです。今川氏真もろとも、実の息子である武田信玄すらも滅亡の淵に追いやるような行動、信玄に「三国同盟破棄を勧める」という怪行動に出るのです!

 

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三国同盟を潰したあの男

 

 

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YASHIRO

通説では「ダメ人物」とされている人について、史料に則しつつも「こういう事情があったのではないか?」と「弁護」するテーマが、特に好きです。愚将や悪人とされている人物の評価を少しでも覆してみたい!がモチベーションです。日本人の「負けた者に同情しがちな心理」大切にしたいと思っています
【好きな歴史人物】
南朝側の武将全員!

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