戦国時代

甲斐の虎の遅すぎた天下取りの理由は?武田信玄編

朝まで三国志2017 観客1 モブ

 

戦国時代の話をするのが好きなヤカラが何人か集まると、

しばしば以下のテーマが議論にあがるのではないでしょうか?

 

singen-takeda(武田信玄)

 

「はたして、武田信玄(たけだしんげん)には天下取りのチャンスがどれだけあったのか?」

 

このテーマになると、決まって指摘されるのは、

「いかんせん、上洛を決断する時期が遅すぎた」という点。

 

oda-nobunaga(織田信長)

 

もっと早い時期、織田信長(おだのぶなが)の上洛よりも先に、京都に入ってしまえばよかったのに、と。

 

武田信玄-vs-上杉謙信

 

そして武田信玄の上洛が遅れた理由として筆頭に挙げられるのが、

上杉謙信(うえすぎけんしん)との合戦に明け暮れて時間を無駄にしてしまった」というものです。

 

五回の川中島よりもずっと致命的だった?自ら崩壊させてしまった三国同盟

上杉謙信

 

ですが、少し詳しく振り返ってみましょう。武田信玄は、なるほど川中島(かわなかじま)で五回にもわたり上杉謙信と激戦を繰り広げましたが、それを牽制し京都へ向かう道筋を作るための秘策として踏み切ったのが、今川義元(いまがわよしもと)北条氏康(ほうじょううじやす)との三国同盟だったはずです。

 

城攻めをするシーン(日本戦国時代)モブ

 

この同盟は単なる相互不可侵(そうごふかしん)だけでなく、三国のどれかひとつが他国からの攻撃を受けた場合は、相互に援軍を派遣するという、積極的な一面も持っていたとされています。武田信玄の立場から言えば、上杉謙信を牽制するに十分すぎる好条件の同盟でした。

 

ところがこの、「武田家にとっても実においしい話」だったはずの三国同盟を、あっけなく崩壊させてしまったのも、武田信玄自身でした。そしてこの話、信玄に「三国同盟を破棄してしまえ」とアドバイスした容疑者には、なんとも意外な名前もあがってきているのです。

 

武田信玄の生涯最大の危機は川中島ではなく「駿河侵攻」の後始末だった?

若き頃の織田信長に敗れる今川義元

 

問題となったのは、今川義元が桶狭間(おけはざま)で戦死した後のこと。

 

今川氏真

 

当主を失った今川家の所領、駿河国(するがのくに)では、跡継ぎの今川氏真(いまがわうじざね)がリーダーシップに乏しいということもあり、明らかに防衛力が弱まっていました。

 

徳川家康

 

そこに武田信玄が、あろうことか徳川家康(とくがわいえやす)と手を組み、突然の侵攻を開始したのです。このうえなく露骨な「三国同盟体制」の否定でした。しかしこの駿河侵攻は、三国同盟の当事者であった今川家および北条家との絶好状態をもたらしただけでなく、信玄の計算を超えて以下のようなデメリットをもたらすことになります。

 

武田義信

 

  • 今川義元の娘を妻に迎えていた、信玄の息子である武田義信(たけだよしのぶ)との父子関係が最悪になった
  • このことがおそらく原因で、嫡男であったはずの武田義信はナゾの死を遂げている
  • 義信に近い立場だった武田家の家臣には、このことがかなりの不満となった模様

 

武田勝頼

 

ちなみにこのとき嫡男の義信が死んだため、武田勝頼(たけだかつより)が後継者候補になったわけだが、この事件の「しこり」が結局は、後の勝頼と家臣団の間の不和の伏線にもなっている。

 

この家中の大混乱は、「人は城」をキーワードにしていた信玄らしからぬ不手際といえるのではないでしょうか。そしてこの後しばらく、信玄は義信事件の余波をなんとか穏便に済ませようと苦慮し、膨大な時間を費やしてしまいました。

 

そればかりではありません。

 

上杉謙信

 

三国同盟の崩壊は、長年の宿敵、上杉謙信をふたたび勢いづかせることになりました。さらには、駿河侵攻にあたってせっかく裏取引をしていたはずの徳川家康に対しても、武田軍がたびたび狼藉(ろうぜき)を働いてしまった影響で、家康は「信玄は油断ならない」と警戒するに至っています。

 

北条と今川を敵に回し、新しく手を組めるかと思った徳川への接近も中途半端な展開になり、当然ながら徳川の後ろ盾である織田信長にも警戒心を抱かせ、せっかく牽制していたはずの上杉謙信が動き出し、そのうえ嫡男を憤死(ふんし)させたことで家中の結束もガタガタ。

 

天下取りどころか、滅亡の可能性すらあるほどの大ピンチでした。いったい、こんなに悪い結果ばかりをもたらした「三国同盟破棄」、どこから出てきた戦略なのでしょうか?

 

「今なら駿河を取れるぞ!」と誘ってきたのはかつて追放したお父さん?

甲斐統一を果たす武田信虎

 

ここで意外な人物の名前が出て来ます。武田信玄から追放され、今川家のところに身を寄せていた、信玄の父、武田信虎(たけだのぶとら)です。

 

あくまでも一説として伝えられている話ですが、今川家の領内にお屋敷を与えられ、隠居として生活していた信虎が、甲斐の信玄に「今川氏真は凡庸で領国は混乱している、今なら駿河を取れるぞ!」という重要な手紙を送っていた、という話があります。

 

信虎と信玄の父子関係がいったいどういうものだったのか、それ自体もなかなかナゾが多いのですが、結果として信玄は異国の父からの「内通」を受けて、駿河侵攻を決意します。その結果、武田信玄に起こったことが、前述したような生涯最大のピンチでした。

 

まとめ:武田信虎の一世一代の「倍返し」だったと見るのはうがちすぎでしょうか?

実はヒャッハーな武田信玄

 

もちろん、経緯がどうあれ、最終的に駿河侵攻の決断をしたのは武田信玄。武田信虎からの手紙が本当にあったとしても、判断の責任は信玄自身にあります。ですがブキミなのは、武田信虎は今川家にお世話になっていた身分なので、三国同盟がどれほど関東甲信越の秩序維持に効いているかはよく知っていたはずですし、信玄が駿河に攻めこんだらどれほどの混乱が武田家自体に返っていくかも、経験豊かな戦国武将として、よく見えていたはずなのに、という点です。

 

信虎は昔の確執を捨てて、信玄に善意で駿河侵攻をアドバイスしたのでしょうか?

それとも、さすがは乱世の奸雄(かんゆう)としてかつて恐れられた男、生涯の後半にまんまと息子信玄に、痛恨の煮え湯を飲ませたのでしょうか?

 

日本史ライターYASHIROの独り言

三国志ライター YASHIRO

 

いずれにせよ、三国同盟という「おいしい同盟」を捨て文字通りの四面楚歌に陥った信玄は、苦労した挙句、迫りくる病魔に追われるように、あわてて三方ヶ原(みかたがはら)に出陣したものの、もはや天下取りはかなわない状態でした。

 

信玄が死んだ後、実は信虎は信濃(しなの)に帰国しており、そこで人生の最期を迎えています。

「わしが天下を取れないなら息子にも天下は取らせんわ!」と最期に笑ったかどうか?

 

それは後世の我々の想像しだい、ということになりますが、武田信虎の前後の動きがどうにもブキミで仕方ないという点、否めないのでした。

 

関連記事:石高250万石の大大名はどうして小田原に引き籠ったの?北条氏康編

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【甲相駿三国同盟の崩壊】
三国同盟を潰したあの男

 

 

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