皇居と江戸城、歴史が結ぶ驚きの繋がり!

30/12/2023


 

コメントできるようになりました 織田信長

 

Edo-Castle(江戸城)

 

 

さて今回は江戸城えどじょう皇居こうきょの関係について解説します。皇居こうきょとは天皇てんのうの住居であり、現在の皇居こうきょ江戸城えどじょう跡に建てられております。

 

朝廷

 

元々は天皇てんのうの住居というのは京都きょうとで、東京とうきょうへ遷都したのですが……もしかすると、遷都(せんと)の細やかな部分とか、江戸城えどじょうのその後とかは良く分からない人もいるのかもしれない……?そこで今回は皇居こうきょ江戸城えどじょうの関係、大政奉還や遷都についても触れつつ、おさらいしていきたいと思います。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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大政奉還という戦争の序幕

幕末75-3_武市半平太

 

 

さて江戸から明治へと時代が移行しようとしている中、日本は割れていました。ざっくりと言うと討幕派尊王派の勢いが強くなり、いざ幕府を討ち倒さん!となっている時期です。

 

 

大政奉還した徳川慶喜

 

 

そんな中で慶応3年10月14日、二条城で江戸幕府15代目将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇てんのうへ奏上しました。この奏上は翌日勅許され、政権は朝廷に返され……た訳ではなかったのです。結局この大政奉還は名目上のことであり、様々な理由から政治を取り仕切るのは幕府の方でした。

 

Cannon(大砲)

 

これじゃあ大政奉還の意味がない!ということで、鳥羽伏見を経て戊辰戦争が始まっていくのです。今回は江戸城えどじょうのお話なので、戊辰戦争についてはまたどこかで。

 

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江戸城の無血開城

 

結論から言うと、江戸城えどじょうは戦場になることはなく、受け渡しが行われました。江戸城えどじょう無血開城、と言った方が聞き馴染みがあるかもしれませんね。

 

 

薩長同盟が結ばれるシーン 坂本龍馬と西郷隆盛と桂小五郎

 

 

慶応4年3月、旧幕府側の勝海舟と新政府側の西郷隆盛とが交渉の末、江戸城えどじょうの明け渡しが徳川慶喜の謹慎などの条件付きとは言え決定しました。このための無血開城ですが、実際にはその後、いくらかの小さな戦いは各所で行われたようです。とは言え、これにて徳川幕府の居城、江戸城えどじょうは明治政府に受け渡しされることとなったのです。

 

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江戸城は徳川家康のものではなかった?

室町時代の築城の名人・太田道灌

 

 

ではここで時代を戦国時代に戻してみましょう。江戸城えどじょうを作ったのは徳川家康(とくがわ いえやす)……ではなく、元々は扇谷上杉家の家臣・太田道灌(おおた どうかん)が築いた平山城、平地の中の山に建てられた、お城でした。ここに徳川家康が入り、江戸城えどじょうは徳川のものとなったのです。徳川家康は1603年、征夷大将軍となり、江戸幕府を開きました。この際に、居城である江戸城えどじょうを大きく拡張工事を行うこととなったのです。

 

十年近くにもわたる徳川家康江戸城えどじょう改築プロジェクト

 

秀吉亡き後、野望を持ち始めた徳川家康

 

この徳川家康による江戸城えどじょう増改築プロジェクトは、開始が1606年、完成が1614年とされています。このプロジェクトには当然ながら多数の石材が必要とされ、各地の諸大名が駆り出されました。完成した江戸城えどじょうは、本丸・二の丸・三の丸に加えて、西の丸・西の丸下・吹上・北の丸を本城とした大きな規模の城郭となりました。現代から見てもかなり大掛かりな工事ですね。ただし1657年に明暦の大火により天守閣が焼失、それ以降も江戸の町の復興を優先させたために、天守閣はその後再建されないまま、明治政府に受け渡しされたのです。

 

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江戸城、東京城となる

Emperor-Meiji(明治天皇)

 

明治政府に受け渡しされた後、明治元年に明治天皇てんのうが江戸へ行幸してきました。行幸はあくまで天皇てんのうの外出ですので、この時点ではまだ天皇てんのうの居城ではありません。ですがこの際に江戸城えどじょう東京とうきょう城(とうけいじょう)と名を改めることとなります。そして更にその後、明治2年3月28日。東京とうきょう遷都が決まり、東京とうきょう城は皇城と称されることになります。因みに当初は西の丸御殿が皇居こうきょとして利用されていましたが、明治6年に焼失。その後、改めて明治宮殿が建設され、宮城と呼ばれることになるのでした。

 

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戦争によって焼け出された皇居

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しかし、後大正12年。関東大震災によって被害が出ただけでなく、1945年の東京とうきょう大空襲によって明治宮殿は全焼します。こういった際の避難場所として作られていたのが御文庫であり、昭和天皇てんのうはこちらに避難していて無事でした。その後は御文庫を仮住まいとし、1968年に現在の宮が建設されることとなります。この期間が開いたことには昭和天皇てんのうの意向である「国民が戦火によって家を失い、暮らしもままならないのに新しい宮殿は建てられない」という国民への思いやりがあったとのことです。

 

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現代も訪れることができる、江戸城跡と皇居

 

さて江戸城えどじょう、その跡地が皇居こうきょになっていった経緯について、簡単ではありますが説明させて頂きました。現在ではこの旧江戸城えどじょう跡地、本丸・二の丸・三の丸跡は皇居こうきょ東御苑として開放されています。公開日は原則として月曜日と金曜日以外で、入園料は無料です。その他では皇居こうきょ外苑、北の丸公園は常に解放されているので、訪れてみてはいかがでしょうか。都心でありながら緑が多く、穏やかで歩いていて気持ちの良い場所ですよ。

 

 

戦国ひよこライター センのひとりごと

日本史ライター セン

 

さて江戸城えどじょう跡地、現在の皇居こうきょになる土地。もちろんこの現代に至るまで、様々な歴史がありました。そこには悲痛なものもあれば、哀しいものもあったことでしょう。しかし今現在、解放されている江戸城えどじょう跡地はとても穏やかな気持ちで歩ける場所となっています。都心にお住まいの方はもちろんのこと、何かの折に都心に行かれる方は、少し足を延ばしてみてはいかがでしょうか。

 

参考:江戸城えどじょう史・増補 東京とうきょう城史

ようこそ 歴史資料の宝庫へ:国立公文書館(外部リンク)

 

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自己紹介:日本史はあちらこちら、面白そう!と思った所を色々と見ていくのが大好き。どこも面白くて目移りしてしまいますが、特に戦国時代が大好物。様々な勉強ポイント……よりも、ちょっとクスっとしてしまうような小話を交えつつ、皆さんと沼にハマっていきたいと思います、どぼーん。 好きな歴史人物:織田信長 斎藤道三

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