幕末の日本史で重要な出来事と言えば大政奉還とその切っ掛けになった幕府の第二次長州征伐の失敗ですね。長州征伐には第一次と第二次がありますが、実質第一次で戦争は起きていないってご存知ですか?今回は有名なのに内容は詳しく知られていない長州征伐をすっきりと簡単に解説します。
この記事の目次
第一次長州征伐の原因
第一次長州征伐の原因は、1864年(元治元年)7月18日の禁門の変で長州兵が皇居内に発砲した事でした。幕府はこの事件をとらえて朝廷に対し長州征伐を上奏し7月23日に許可されます。天皇の許可を得て幕府は中国・四国・九州の21藩に出兵を命じ、総大将を前、尾張藩主、徳川慶勝として長州へ軍勢を進めようとします。
動かない征長軍と混乱する長州
しかし、力の衰えた幕府の命令では21藩の足並みは揃いません。また長州藩も馬関海峡で単独での攘夷を決行した結果、イギリス、フランス、オランダ、アメリカの連合艦隊により下関を砲撃され大打撃を受けます。そんな折に長州征伐の詔勅が出た事で長州藩内部は動揺し、幕府への恭順を唱える保守派が台頭しました。
西郷隆盛の周旋で長州は降伏
第一次長州征伐の時の参謀は薩摩藩の西郷隆盛でした。西郷は幕府に先がない事を見越し、長州をあまり追い詰め過ぎないように画策します。西郷は幕府に対し内部分裂が起きている長州藩に揺さぶりを掛けて、責任者の切腹で兵を損なわずに長州征伐を収めようとします。追い詰められた長州藩では幕府に恭順する保守派が台頭し禁門の変で出兵した家老、福原越後,益田右衛門介、国司信濃と参謀、宍戸左馬之介、佐久間佐兵衛、竹内正兵衛、を斬って幕府へ恭順、これを受けて征長軍は一戦も交えず撤退します。このように第一次長州征伐は戦端を開かずに終わりました。
長州で約束不履行とクーデターが起きる
幕府は急進的な攘夷派だった三条実美等の五公卿を引き渡す事も求めていましたが、長州藩は応じませんでした。さらに長州藩内では討幕派である高杉晋作が1864年末から1865年(慶応元年)の一月にかけて下関で決起。保守派から藩の主導権を奪って奇兵隊以下の諸民兵の軍事力を背景に幕府との直接対決姿勢を鮮明にします。一連の長州藩の行動に脅威を感じた幕府は、長州藩が容易ならぬ企てをし禁止した外国商人との取引をしている事を理由に慶応元年9月に再び、天皇より長州藩征伐の勅許を得ました。
第二次長州征伐に薩摩は不参加
しかし、第二次長州征伐は、前回以上に諸藩の反対を受けます。特に前回、禁門の変では長州藩を阻止するのに大きな力を見せた薩摩藩は出兵を拒否します。それでも出兵を強行する幕府ですが、イギリス、アメリカ、フランス、オランダの四ヶ国は連合艦隊を兵庫沖に来航させ、兵庫の開港と条約勅許を要求します。幕府は困難な外交交渉に苦労しつつも、慶応二年(1866年)6月、長州と交戦状態に入りました。
内憂外患に苦しみ将軍家茂は死去
幕府が内憂外患で、なかなか長州征伐に踏み切れない間に、長州は薩長同盟を締結。藩内では高杉晋作や木戸孝允らで藩を挙げた軍事改革と訓練が開始され、武士だけではなく意欲ある民兵も組織し、薩摩藩名義で購入した近代兵器によって幕府軍に立ち向かいます。長州軍は芸州口での戦闘では、幕府の洋式歩兵と紀州藩兵の活躍で一進一退であったものの、石州口や小倉口方面では幕府軍を圧倒しました。苦戦する幕府は背後を重税に抗議する大坂、江戸の打ちこわしや百姓一揆に脅かされ、広島藩は出兵命令を拒否するなど、面子と軍が同時崩壊しかねない窮地に陥ります。
家茂死去を名分に休戦も威信は没落
その最中、征長軍の総司令官であった14代将軍徳川家茂が病死しました。幕府は将軍の喪に服する事を大義名分として、慶応二年8月、朝廷に休戦の許可をもらい、9月2日には長州と休戦協定を結びます。慶応二年12月には、孝明天皇の急死を期として戦争終結を天下に布告しました。何とか敗戦だけは避けた幕府ですが、10万以上の兵力を繰り出し、僅か3500人の長州兵を倒せない事実は致命的となり、翌年の大政奉還へと突き進む事になります。
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