松浦武四郎とはどんな人?北海道を命名しアイヌを迫害する日本政府に警鐘を鳴らし続けた探検家

21/07/2022


オンライン授業の講師を務めるkawauso編集長

 

松浦武四郎(まつうらたけしろう)は江戸末期の探検家であり、著述家(ちょじゅつか)、画家でもあります。

 

幕末に、当時蝦夷(えぞ)と呼ばれた北海道を複数回探検し、現地で暮らすアイヌ民族の文化を記録、将来、日本の文化の流入でアイヌ文化が滅んでしまわないよう最初に警告を発し、アイヌ民族のために戦った人物でもあります。

 

今回は、松浦武四郎について解説します。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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松浦武四郎は伊勢国須川村の庄屋の四男として誕生

戦国時代の武家屋敷b

 

松浦武四郎は、文化15年(1818年)伊勢国一志郡須川村にて、郷士松浦桂介と、とく子の四男として誕生します。元々、松浦家は肥前国平戸(ひぜんのくにひらど)の松浦水軍の支流で中世に伊勢国に引っ越してきたそうで伊勢で成功した庄屋の家系でした。

 

鉄甲船

 

武四郎は、比較的恵まれた環境で13歳の頃から3年間漢学者平松楽斎(ひらまつらくさい)の元で学び、そこで猪飼敬所(いかいけいしょ)梁川星巌(やながわせいがん)と知り合うなど後に探検家として役立つ文化的な素養を身に着けたとされています。

 

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日本各地を遍歴、26歳で蝦夷地探検へ

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山本亡羊(やまもとぼうよう)本草学(ほんぞうがく)(医学)を学んだ武四郎は16歳から日本全国を回り天保(てんぽう)9年(1838年)に平戸で僧になって文桂(ぶんけい)と名乗りますが故郷を離れている間に親や兄弟が亡くなり天涯孤独となったのを契機に弘化(こうか)元年(1844年)還俗して蝦夷地探検に出発します。

 

1846年には、樺太詰(からふとづめ)となった松前藩医の西川春庵(にしかわしゅんあん)の下僕として同行し北海道ばかりではなく択捉(えとろふ)樺太(からふと)まで探検しました。

 

名古屋城

 

安政2年(1855年)に江戸幕府から蝦夷御用御雇(えぞごようおやとい)に抜擢されると再び蝦夷地を踏破(とうは)し「東西蝦夷山川地理取調図(とうざい・えぞさんせん・ちり・とりしらべず)」を出版します。明治2年(1869年)6月に「蝦夷開拓御用掛(えぞかいたくごようがかり)」となり、蝦夷地に「北海道」と命名しました。

 

また、武四郎はアイヌ語の地名を参考にして国名や郡名を選定、その数9800以上で、すべて現地のアイヌ人にインタビューして名前を確かめた上での命名でした。

 

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アイヌ文化の紹介に努めた武四郎

book-Suikoden(水滸伝-書類)

 

地名をアイヌ語に沿ったものにしたように武四郎はアイヌの文化に深い理解を持っていました。武四郎が出版した「蝦夷漫画」では、アイヌ文化がありのままに紹介されています。

 

武四郎が蝦夷地を訪れた時、すでに蝦夷地を支配していた松前藩や松前藩より貿易の利権を許された日本商人によりアイヌ人は搾取されている状態でした。

 

そこで武四郎は幕府に対し、開発の必要性を認めつつも、それよりもまず今日のアイヌ民族の命と文化を救うべきであると調査報告書の随所(ずいしょ)で訴えていました。

 

近世蝦夷人物誌(きんせいえぞじんぶつし)」では百数十人のアイヌの人々が実名で登場し、アイヌ民族の生活を紹介していましたが、その中には松前藩や日本商人による搾取や圧政もそのまま記録されていた事から武四郎の生前には出版が禁止されています。

 

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島義勇に直訴し過酷な場所請負制を廃止

 

松浦は明治政府が積極的に北海道開拓を進めていく上で、かならず衝突するであろうアイヌ民族と文化に敬意を示し開拓によりアイヌ文化が危機に瀕しないよう、アイヌ民族と文化の紹介を熱心に続けました。

 

特に日本商人により過酷な利潤追求がおこなわれ、アイヌの迫害と反乱まで招いた「場所請負制」について、武四郎は蝦夷開拓御用掛首席判官(えぞかいたくごようがかり・しゅせきほうがん)島義勇(しまよしたけ)に掛け合い廃止を願い出ます。

 

島は武四郎の訴えを聞き入れ、石狩や小樽(おたる)など西部13郡の場所請負人(ばしょうけおいにん)を呼びつけて請負人制度の廃止を通告します。

 

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場所請負制が漁場持と名称変更し復活

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しかし、利益を奪われる事を恐れた日本商人は裏から手を回し、函館の本庁から制度名を「漁場持(ぎょうばもち)」と変えて制度自体は「従来通リ」とするように画策します。

 

当時の箱館府権判事開拓判官(はこだてふ・ごんはんじ・かいたくほうがん)岩村通俊(いわむらみちとし)が制度廃止を時期尚早とし開拓費用を大和商人に負担させるべきという意見書を書き送り、民間資本を北海道開拓に利用するため独占的利益が得られる漁場持は維持する事が決定されました。

 

結局、島義勇は鍋島直正(なべしまなおまさ)の後任である開拓長官・東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)と予算をめぐり衝突。志半ばで解任されました。

 

 

軍艦(明治時代)

 

島義勇の解任後、松浦武四郎が函館に赴任します。この時、松浦は偶然函館の料亭で、役人が大和商人に「島同様、松浦も罷免に追い込む」と口約束しているのを耳にします。松浦は陰謀を非難し1250字に及ぶ辞表を東久世に突きつけて辞任。それだけでは治まらず、与えられた従五位下の官位まで返却しています。

 

 

真っすぐな性格の武四郎にとって、アイヌ民族に対する搾取と迫害を続ける明治政府の官位を持っている事がガマンできなくなったのでしょう。武四郎は一生で北海道へプライベートで3度、公務で3度の合計6度赴き、およそ150冊の調査記録書を遺し、それらはアイヌ研究の貴重な史料となりました。

 

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様々な趣味を持ち70歳で大往生

 

役人を辞めた武四郎は晩年を執筆活動にあてていますが、死の前年まで歩く事を止めず全国歴遊を続けたそうです。武四郎は天神を篤く信仰し全国25の天満宮を巡り、鏡を神社に奉納しています。

 

また、古物収集家としても知られ、縄文時代から近代までの国内外の古物をコレクションし、64歳の時、自分を釈迦に見立て古物コレクションに囲まれた「武四郎涅槃図」を河鍋暁斎に描かせるなどユニークな試みもしています。

 

絵筆も達者で、明治3年(1870年)には北海道人と号し「千島一覧(ちしまいちらん)」という錦絵を描き、最晩年68歳の時には、富岡鉄斎(とみおかてっさい)の影響で登山にハマり、奈良県大台ケ原(おおだいがはら)に熱心に登り、登山道の整備、小屋の建設などを自費でおこなったそうです。

 

明治21年(1888年)武四郎は東京神田五軒町(かんだごけんちょう)の自宅で脳溢血(のういっけつ)で死去します。70歳でした。

 

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松浦武四郎は正義感が強い人で明治政府のアイヌ人に対する差別待遇に憤り、官職を投げ捨ててしまうほどでした。

 

ただ、その事もあり武四郎はアイヌの人々に過剰に肩入れする所があり、著作の「近世蝦夷人物誌」については、日本のアイヌ人搾取を強調する脚色が入っているようで全体としては嘘ではありませんが、史料として読むには客観性に難があるようです。

 

それらを差し引いても、武四郎が日本人に迫害され文化を失っていくアイヌ民族に対し強い同情と問題意識を持ったのは事実であり、その点は否定できないでしょう。

 

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