歴史上の人物で最も有名でなおかつ絶大な人気を誇る坂本龍馬。坂本龍馬は土佐藩出身。身分は低かったが才谷屋から多額の財産を分与されていたので、裕福な家庭に生まれます。その後龍馬は17歳の時、剣術道場のため、江戸へ向かいます。
1862年には日本を諸外国の属国とさせないために土佐藩を脱藩し、国内の結束力を高めるため薩長同盟成立の立役者に。
1865年には長崎で亀山社中(後の海援隊)を作りました。今回は、坂本龍馬ゆかりの地長崎で何をしたのか?あわせて観光スポットもご紹介します。
長崎で亀山社中を結成
坂本龍馬は脱藩した後、勝海舟の門弟になり、勝塾や海軍士官養成機関である神戸海軍操練所で勉強します。ですが、1865年操練所は閉鎖され、行き場をなくした龍馬は薩摩藩に保護され、長崎にやって来ました。
同年、薩摩藩や長崎商人である小曽根家の援助を受け、日本最初の商社といわれる「亀山社中」を結成しました。亀山社中は利益を上げる目的の他、薩長の和解も目的としていました。新しい時代を切り開く大きな役割を果たします。
最大の業績は、1866年に長州藩のために薩摩藩名義で小銃や蒸気船ユニオン号の購入・運搬に成功したことです。これが、薩摩藩と長州藩を結ぶ大きな要因になり、薩長同盟の締結、新しい時代を開くための足ががかりとなりました。
亀山社中から海援隊へ
海援隊は亀山社中の後身の貿易結社です。坂本龍馬が中心となり、活動開始。薩摩藩などから資金援助を受け、日本初の株式会社とも呼ばれています。1865年から1868年の間、施設海軍・貿易会社として活動。
亀山社中の頃と同じように薩摩藩名義で武器や軍艦などの兵器を長州藩へ斡旋を行い、関係修復に努め、1866年6月の薩長同盟締結に貢献しました。
しかし、朝廷の復権・倒幕運動に駆け巡りましたが、内戦回避派の坂本龍馬と、薩長の武力倒幕論が対立し、1867年近江屋事件で海援隊隊長坂本龍馬と陸援隊隊長中岡慎太郎が暗殺され、統率者がいなくなり、分裂。
その後は後藤象二郎が海援隊を長崎土佐商会、岩崎弥太郎が九十九商会・三菱商会・郵便汽船三菱会社・三菱商事などに発展させました。
長崎土佐商会
長崎土佐商会は、土佐藩の開成館貨殖局の長崎出張所のことです。1866年長崎で鉄砲や様式船舶の買い付けを行いました。長崎土佐商会の目的は土佐藩の富国強兵策を実行するためでした。
後藤象二郎は、プロシャ商人クニフラーから法外な値段でライフル銃300丁を買い付けたり、イギリス商人オールトから蒸気船「夕顔」」と風帆船「羽衣」を購入。
その上、中浜万次郎らを引き連れ浦賀に来航、イギリス商人グラパーの介入により小型戦艦である「若柴」を上海で建造しました。
この時これらの支払いに困ってオールトから18万両という多額の借金をしたといいます。ちなみに18万両を今の金額に換算すると、簡単には言えません。期待した方スミマセン…。なぜなら現在程価値基準が曖昧で人によって価値基準が様々だったからです。
坂本龍馬ゆかりの地長崎おすすめ観光スポット
それでは最後に、坂本龍馬ゆかりの地、長崎にある観光スポットをご紹介。
坂本龍馬像
風頭公園には、高さ4.7mの坂本龍馬像があります。腰に刀を携え、腕組みをし、力強い眼差しで長崎港の方を見つめています。その佇まいに圧倒されることでしょう。
龍馬通り
龍馬をはじめ、幾多の武士たちが通ったと言われている道から龍馬通りと名付けられています。寺町通りの深祟寺と禅林寺から亀山社中跡を経て、風頭公園へ至る石段まじりの坂道です。周辺に休み石が置かれているので、風景や花木がゆっくり眺められます。
亀山社中跡
亀山社中跡には「長崎市亀山社中記念館」として公開されています。館内には当時の資料が多数あり、幕末当時の建造物を復元した建物もあります。記念館のすぐ近くには、「龍馬のぶ一つ像」があり、履いてみることもでき、そこからの眺めもまた素晴らしいです。
長崎歴史博物館
寺町から少し離れていますが、「長崎歴史博物館」も寄ってみる価値ありです。他にも長崎には異国情緒が残る場所がたくさんありますので、一度訪れてみてはいかがですか。
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