日本の歴史には、8人10代の女性天皇がいて、126代の全天皇をトータルすると10%が女帝という計算になります。女帝と言うと古代の天皇を思い浮かべてしまいますが、実は江戸時代でも明正天皇と後桜町天皇の2名は女帝でした。
今回は維新の先駆けになったとされる光格天皇を補佐した偉大な女帝、後桜町天皇について解説します。
どうして近代に女性天皇がいないの?
後桜町天皇について話すまえに、どうして近代日本には女性天皇がいないのか?
この疑問に答えられる人はいるでしょうか?
結果論では、明治、大正、昭和、平成、令和と全て、男子がいたから女性天皇に繋ぐ必要がなかったという事ですが、仮に天皇に女の子だけがいても天皇になる事は出来ませんでした。これは天皇と皇族を拘束する法律である皇室典範に、天皇に即位できるのは男系の男子のみと規定されているからです。
男系男子とは難しい言葉ですが、優しく言うと父が天皇である男の子しか天皇にはなれないという意味です。この皇室典範は現在でも存続していて、現天皇唯一の女子である愛子様は、男系女子なので皇室典範を改正しない限り、天皇に即位する事が出来ません。
では、逆にどうして明治時代以前には、女性の天皇が即位できたのでしょうか? これは、養老令という法律の跡継ぎを定めた法律があり、天皇は男子が前提だが、女帝の子でも即位できると規定しているからでした。
養老令は明治維新まで生きていたので、江戸時代でも男の皇太子がいなかったり、誕生しても幼かった時には女帝が即位していたというわけです。面白いですね。
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即位まで
後桜町天皇は諱を智子と言い桜町天皇と正妻女御舎子の間に誕生しました。
女御舎子には皇子が生まれず、側室の典侍定子が産んだ皇子、八穂宮が舎子の実子として迎えられ御所で育てられ、桜町天皇が譲位して太上天皇になると桃園天皇として即位します。
翌月、父桜町上皇も亡くなりますが、即位した桃園天皇も22歳の若さで没します。即位から15年後の事でした。桃園天皇には皇子である英仁親王がいましたがまだ5歳であり、すでに成人していた智子が親王成人までの中継ぎで即位したのです。
中継ぎとしての即位
しかし、後桜町天皇の即位には、もっと複雑な事情がありました。桃園天皇の在位中、宮中では過激な尊王論を主張する青年公家が権力を天皇の下に取り戻す事を目的に幕府を非難。神道家でイデオローグの竹内式部と共に桃園天皇を担ぎ、徳川家重を追放するクーデターを企てたのです。
当時の朝廷は、幕府により政治的にも経済的にも抑え込まれ公家の間に幕府への恨みつらみが常に満ちていました。
ところが幕府との関係が悪化する事を恐れた五摂家はクーデターを幕府に密告。竹内式部や青年公家が幕府に処罰される宝暦事件に発展しました。この時、竹内式部に感化された桃園天皇は公家達をかばう言動をし五摂家を非難したので天皇と五摂家の関係が悪化したのです。
五摂家は、幼い天皇が即位すると、また竹内式部のような者が現れ対立が再燃するかも知れないと考え、親王が大人になって他人の影響を受けにくくなるまでは女帝である後桜町天皇にリリーフしてもらおうと考えたのでした。さらに、これらの出来事は幕府への連絡なくおこなわれ後桜町天皇の即位は事後報告だったそうです。
宝暦事件は、まるでペリー来航後の尊王攘夷を先取りしたような事件であり、幕末がペリー来航から始まったわけではない事を教えてくれます。
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上皇となり光格天皇を補佐
後桜町天皇は、男子同様の儀式を経て即位し、在位する事9年で甥である英仁親王に譲位して太上天皇になります。英仁親王は即位して後桃園天皇になりますが、こちらも22歳という若さで死去。子は女の子だけで男子はいませんでした。
ここで後桜町上皇は、前関白の近衛内前と相談し伏見宮家から養子を迎えようとしますが上手くいかず、関白九条尚実が推す典仁親王の六男、帥仁9歳を迎えます。
帥仁は光格天皇として即位しますが、男子の跡継ぎを迎えてめでたしか?と言えばそうはなりませんでした。帥仁の父、典仁親王は113代東山天皇の孫でこれまでの天皇の血筋から、かなり遠かったのです。
9歳と幼く立場が不安定な天皇を、後桜町上皇は度々面会にきて補佐していました。この献身的な行動から後桜町天皇は国母と呼ばれ、ただ男子の天皇が誕生すればそれで終わりの中継ぎではなかったのです。
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天明の大飢饉の対応
光格天皇は傍系から即位した関係で、古代の天皇のようなより天皇らしい天皇を目指し、昔に廃れた皇室の儀式を復活させました。
また、国民は宝であるという考えから政治状況にも敏感であり、天明の大飢饉で京都にも餓死者が出て、飢えた人々が御所を拝んで千度を踏んで歩く御所千度詣りを聞いた際には、幕府が定めた禁中並公家諸法度を破り幕府に対して民衆の救済を申し出ました。
幕府は天皇の行動に驚きますが、訴えを聞き入れないと民衆の憎しみが幕府に向かい、天皇の求心力が強まる事を恐れ、米俵1500を京都市民に放出しました。この時、後桜町上皇も飢えた人民に対し和リンゴ3万個を放出したり、お茶を配るなど出来る限りの救済措置を取っています。
「天皇は政治にかかわらず儀式と文化活動だけしておれ」というのが家康以来の幕府の方針でしたが、光格天皇は処罰覚悟でこれを破ったのです。後桜町上皇の行動も天皇を補佐するものであり光格天皇の行動に上皇が影響を与えているのは間違いないでしょう。
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尊号一件での対応
光格天皇は在位10年目の19歳の時、死去した父の典仁親王に太上天皇の称号を与えようとします。ところがこれに対し幕府老中、松平定信が過去に天皇でなかったものに上皇の称号を与えるのは皇位を私物化するもので認められないと拒否します。
若い光格天皇は幕府に対して感情的になり関係険悪になりますが、この時、後桜町上皇は天皇に「一番に考えるべきは皇室の安泰であり、それこそ最大の親孝行になりましょう」と諭し、天皇はその言葉を受け入れました。光格天皇の在位は37年間にも及びましたが、この時我慢した事で、その後皇室は権威を高めて明治維新へと繋がっていくのです。
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日本史ライターkawausoのまとめ
女性天皇については、8人10代存在するが、あくまでも男子の天皇が即位するまでの中継ぎという評価があります。しかし、後桜町天皇の行動を見ると男子天皇よりも動きは控え目ではあるものの、次代天皇の選定に関与し幼少の天皇と度々面会して補佐するなど、決して中継ぎでしたという単純な言い方では片づけられないと思います。
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