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長谷川平蔵はどんな人?鬼平犯科帳は虚構ではない!人情派武士の真実


 

長谷川宣以(はせがわのぶため)と言ってもピンとこない人でも、長谷川平蔵(へいぞう)というとすぐに「鬼平」と分かるのではないかと思います。テレビ時代劇でも劇画漫画でも超有名な長谷川平蔵は火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)の長官で実在の人物です。

 

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

しかも、この長谷川平蔵、実物もテレビドラマに負けない人情のある立派な武士でした。今回のほのぼの日本史は、長谷川平蔵宣以を解説します。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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名奉行長谷川宣雄の長男として誕生

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

長谷川平蔵は、延享(えんきょう)2年(1745年)400石の旗本、長谷川宣雄(のぶお)の長男として誕生しました。父の長谷川宣雄も有能な人物で、火付盗賊改から京都西町奉行所に栄転。平蔵も27歳で妻子を伴い、京都、西町奉行所に暮らします。

 

筒井順慶

 

西町奉行所は京都特有の門跡(もんぜき)大寺(だいじ)古社(こしゃ)の争訟を扱う役所でしたが、お坊さんはなまじ学問をしているので、誰も弁舌が立ち、自分の理屈を通すのが上手く訴訟は長期化します。

 

しかし、宣雄は争論の要点を掴んで快刀乱麻(かいとうらんま)を断つように争訟をテキパキと裁きました。その速さは京都東町奉行所が4~5件の訴訟を裁く間に、宣雄は20件以上も裁くという具合で町奉行所役人を含め、京都市民からも信望を集めています。

 

また、宣雄は質実で質素な暮らしが身に付いた古武士然とした人で、それに感化されて奉行所の贅沢な風習も自然に改まったそうです。

 

幕末 臨終のシーン 亡くなる(死)モブ

 

ところが、西町奉行所に赴任してから僅かに8カ月、長谷川宣雄は病により五十五歳で急死してしまいました。

 

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父親の部下の前で大見得を切る

名古屋城

 

父が死んだ平蔵は奉行所を出て、江戸に帰る事になります。大恩ある名奉行のドラ息子が江戸に帰るので、与力(よりき)同心(どうしん)が見送りに顔を出すと平蔵は大変な大ぼらを吹きました。

 

「おのおのがた、どうか元気にお勤めあれ。後世、長谷川平蔵といえば当世の英傑と呼ばれるようになりましょう。もし、江戸に来る事があれば、必ずや私の屋敷をお尋ねくださるように、しからば、これにて!」

 

無役(むやく)の部屋住みの分際で、大ぼらを吹く平蔵に与力も同心も呆気(あっけ)にとられます。平蔵の大言壮語癖(たいげんそうごへき)は江戸でも発揮されますが、それは若い頃からの性格だったのです。

 

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ガンバレ徳川

 

 

放蕩三昧で父の遺産を食いつぶす

宋銭 お金と紙幣

 

平蔵は安永二年(1773年)長谷川家の家督400石を相続し、役職につくまで小普請(こぶしん)に入って待機します。

 

そして、待機中の7か月で平蔵は堅実な父が倹約して貯めた金銀で遊里に通い、あまつさえ悪友と席を同じくして旗本には似つかわしくない素行をし、大通(だいつう)と言われる派手で豪華な身なりで通りをねり歩き、本所二ツ目の屋敷は「本所の(てつ)」とあだなされ、大変な不良旗本として悪い意味で有名になりました。

 

kawausoさん

 

それでも、独身なら珍しくもありませんが、平蔵は27歳の成人で妻子もいるというのだから呆れます。奥さんは離縁したいとは思わなかったのか?

 

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仕官から14年で火付盗賊改方本役に昇進

江戸城

 

こうして、父の遺産を全て食いつぶすと、平蔵は人が変わったように真面目になります。家督を継いで7か月後に番方(ばんかた)(武官)のエリートコースに進むと

 

安永(あんえい)3年(1774年) 西の丸書院番(しょいんばん)
安永4年(1775年) 西の丸進物番(しんもつばん)
天明(てんめい)4年(1784年) 西の丸徒頭(かちがしら)足高(あしだか)六百石
天明6年(1786年) 御手先弓頭(おてさきゆみがしら)・足高千五百石
天明7年(1787年) 火付盗賊改加役(かやく)
天明8年(1788年) 火付盗賊改本役(ほんやく)

 

このように西の丸書院番になって14年で長谷川平蔵は火付盗賊改本役に就任しました。

 

しかし、いかに平蔵が有能でありエリートコースを進んだとはいえ、たった14年で江戸町奉行支配下の火付盗賊改方への出世は速すぎます。実は、長谷川平蔵のスピード出世には、幕府老中田沼意次(たぬまおきつぐ)の引き立てがあったのです。

 

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田沼意次を呆れさせる気配りの達人

炎上する城a(モブ)

 

長谷川平蔵が西の丸進物番だった頃の事、夜明けどきに神田橋内の田沼の上屋敷近くで火事がありました。平蔵はすぐに西の丸に使いを走らすと、「長谷川平蔵、本日登城仕(ほんじつとじょうつかま)らず(そうろう)」と欠勤を届け出ます。

 

そして、家の者に本町一丁目の菓子の老舗鈴木越後(しにせ・すずきえちご)で火事見舞い用の餅菓子(もちがし)をあつらえさせて田沼の下屋敷に届けるように命じ自分は田沼の上屋敷に参上すると、「上屋敷は危ない!下屋敷に逃げた方が安全です。拙者(せっしゃ)が案内いたしましょう」と呼びかけ奥方や奥女中を蠣殻(かきがら)町の下屋敷に避難させます。

 

こうして、奥方や奥女中が下屋敷に到着すると、一同はホッとしてお腹がすいてきます。そこにベストタイミングで鈴木越後から餅菓子が届けられ、女たちはようやく人心地がつきました。

 

ここまででもぬかりのない人ですが、平蔵はさらに夜に備えて夜食の手配も済ませ、田沼の家中の人々がひもじい思いをしないように配慮していたのです。

 

田沼意次は

「まだ、どこからも火事見舞いがこないうちから餅菓子を届けさせたり、夜食まで運ばせるとは、よくもこうまで気が回るものだ」と感心するやら呆れるやらでした。

 

しかし、田沼の中に気配り上手の長谷川平蔵の印象は強烈に残り、その後も何かと平蔵に目をかけます。こうして有能な平蔵は田沼の引き立てで、とんとん拍子に昇進したのです。

 

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田沼意次は失脚するが

幕末_密室政治(軍議)

 

しかし、平蔵が御手先弓頭・足高千五百石までに出世して間もなく大政変が起きます。10代将軍、徳川家治が病死し、家治の後ろ楯を失った田沼意次が失脚したのです。

 

代わりに老中になったのは、清廉潔白(せいれんけっぱく)を売りとする白河藩主(しらかわはんしゅ)松平定信(まつだいらさだのぶ)でした。そして、田沼時代に引き立てを受けた幕臣の一斉首切りが始まりますが、何故か平蔵だけは、30名余りもいた御手先弓頭から1人抜擢され、火付盗賊改方に昇進します。

 

周囲は「なんで田沼とズブズブの長谷川平蔵が…」と不思議がっていたそうですが、いかに定信でも平蔵の有能さを無視するわけにはいかず、渋々の人事でした。

 

抜擢(ばってき)したものの松平定信は内心平蔵を嫌っており、日記の中でも長谷川何某(なにがし)とわざと名前を書かずに平蔵を(いや)しめています。かくして、平蔵は火付盗賊改方までは昇進したものの、定信の横槍により町奉行や寺社奉行には、全く手が届かないまま出世を断たれてしまうのです。

 

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火盗改長谷川平蔵、爆誕!

 

平蔵は天明7年(1787年)に火付盗賊改方に任命されますが、この時は火事の多い冬季半年間の助役でした。この年は米価が高騰(こうとう)し江戸でも千軒近い米屋や豪商が襲われる「打ちこわし」が起き、江戸の治安も最悪でしたが、火盗改本役の堀帯刀(ほりたてわき)は、元々働きが生ぬるく翌天明8年10月には平蔵が本役に昇進しました。

 

この頃、江戸と関東では連日連夜、押し込み強盗があり世情騒然としていましたが、寛政元年(1789年)4月、長谷川平蔵は、配下の与力と同心を武州大宮(ぶしゅうおおみや)に派遣、大盗賊真刀徳次郎(だいとうぞく・しんとうとくじろう)一味を一網打尽にする手柄を挙げます。

 

真刀徳次郎の盗賊団は、鬼平犯科帳の言葉で言うと「外道(げどう)」で手下は八百人、仲間を増やしながら数百カ所に手当たり次第に盗みに入った凶悪な賊でした。真刀徳次郎は他3名の幹部と獄門に処されています。

 

手下八百人には誇張もあるでしょうが、江戸を騒がす凶賊(きょうぞく)を召し取った平蔵と火盗改(かとうあらため)の名声は江戸市中に轟きました。

 

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自ら暗黒街の顔役を捕縛する

五重塔(仏塔)仏教

 

寛政元年、長谷川平蔵は江戸で自らの手で播磨屋吉右衛門(はりまやきちえもん)という老人を捕らえます。この吉右衛門は、ただの老人ではなく日光街道沿いの下谷に住み、浅草寺(せんそうじ)寛永寺(かんえいじ)根津権現(ねづごんげん)一帯を縄張りにしていました。

 

当時、この界隈は遊郭や岡場所があり吉右衛門は江戸の闇の世界を牛耳る暗黒街の顔役だったのです。そして、性質が悪い事に吉右衛門は、北町奉行所から十手を預かる目明しであり、同時に江戸の目明しの元締めでした。

 

暗黒街の顔役である吉右衛門に奉行所が十手を預けたのは、幕府の役人では掴めない犯罪者の情報を得る為で持ちつ持たれつの関係でしたが、平蔵はこれを断ち切ろうと何度も与力・同心を召し取りに向かわせています。

 

しかし、吉右衛門は周囲を屈強な子分で固めているために、与力や同心では太刀打ちできません。そこで、平蔵は自ら吉右衛門を捕らえる為に出撃します。

 

とはいえ、相手は博徒や無宿人ではない公儀の十手を預かる相手です。刀を抜いて立ち回りはご法度でした。

 

そこで平蔵は、何食わぬ顔をして播磨屋に出向くと火付盗賊改方、長谷川平蔵と名乗り、「少々、うけたまわりたきことがあるゆえ、ちょっと、これへ出られよ」と申し入れました。

 

吉右衛門は平蔵が突然現れた事に何の疑念も抱かず「なんだろう?」と1人で出てきた所を平蔵に召し取られます。あっ!と思う暇もない平蔵の作戦勝ちでした。

 

本来ならば、捕らえられた罪人は、罪状が定まるまで伝馬町の座敷牢に入れられる決まりです。しかし伝馬町の牢屋には、目明しの吉右衛門に売られ収監されている犯罪者が沢山いて、このまま吉右衛門を伝馬牢に放り込むと数日の内にリンチされ殺害される事は分かり切っていました。

 

悪党とはいえ、すでに老人で持病を抱える吉右衛門に対して平蔵は情をかけ、自宅の仮牢に収監した後で取り調べもせず吉右衛門は病人であるとして品川の(ため)と呼ばれた病人や浮浪者の保護施設に送りました。

 

さらに平蔵は吉右衛門の看病と報復を阻止する名目で屈強な子分1人を看病人につけて身の回りの世話をさせています。吉右衛門は結局、溜で病死しました。まるで、鬼平犯科帳のシナリオみたいですが、これは本当にあったそうです。

 

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長谷川平蔵の挑戦

餓死する農民 日本史ver

 

長谷川平蔵は8年間、火付盗賊改方の地位にあり有名・無名の盗賊や悪党を多く捕らえました。その検挙数は歴代の火盗改でもトップを占めます。その理由の1つは、天明の大飢饉(だいききん)の直後で大量の潰れ百姓が発生し村々から江戸に流れこんで無宿人となり犯罪にかかわるという社会問題のせいでした。

 

平蔵は、若い頃放蕩無頼(ほうとうぶらい)で、不良仲間とも付き合いがあったので、社会の底辺を良く知っていて、自分が召し取った盗賊や悪党が、元は食いつめて田舎から江戸に流れた無宿人だとよく分かっていました。

 

平蔵が最初に検挙した真刀徳次郎の一味も、大半は10代の無宿人の青年であり天明の大飢饉が産み出した犠牲者だったのです。

 

こうして平蔵は、犯罪者を検挙するばかりではなく、犯罪を犯す人間自体をを減らさないといけないという強い使命感を持つに至ります。

 

寛政の改革を主導した松平定信も、享保の改革以来、発生し続ける無宿人問題に頭を悩ませ、かつて南町奉行、牧野成賢が深川に開設し失敗した「無宿人養育所」のようなものが出来ないか幕臣に諮りました。

 

長谷川平蔵は、定信の諮問に応え無宿対策の新プロジェクト立ち上げに名乗りを上げます。というより、このプロジェクトに手を挙げたのは平蔵1人でした。

 

松平定信の日記である宇下人言(うげのひとごと)には、「ここによって志ある人に尋ねしに、火盗改をつとめし長谷川なにがし、こころみんと言う」と若干の悪意を込めて書いてあります。

 

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自己資金を投入し人足寄場を守る平蔵

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松平定信の許可を得た平蔵は、隅田川河口近くの石川島に「人足寄場(にんそくよせば)」を開設。御手先弓頭、火付盗賊改に加えて人足寄場取り扱いを兼務し激務をこなします。

 

人足寄場には、罪を犯していない無宿人と、すでに盗みなどを犯し「入れ墨・敲き」を加えられた身元引受人がいない者が収容されました。

 

期間は3年間で、その間、大工、左官、建具、鍛冶屋、草履(ぞうり)作り、(かご)作り、紙すき、炭団(たどん)作り、米つき、油しぼり、掘さらい等得意とする作業を選んで従事し、経費を差し引いた売上金が各人に支給される仕組みでした。

 

おこないがよければ、三年以内でも寄場から出して、その際には開業資金を与えたそうで、18世紀末に犯罪者や犯罪予備軍に授産を行う施設は世界的に見ても先進的なものです。

 

幕府は開設一年目には米五百俵と金五百両を出しましたが、次年度からは米三百俵、金三百両に削減しました。平蔵が人足寄場を管轄したのは、創設から二年の間で寛政四年6月には役を免ぜられています。退任した平蔵には、幕府から金五枚が下賜されましたが、平蔵が人足寄場に投資した自己資金はこの程度ではありません。

 

平蔵は当時の幕臣に珍しく相場を見るのが上手く、自己資金を相場に投資し利益を出しては、それを人足寄場につぎ込んでいたのです。

 

「生まれついての悪人はいない、貧しく食べる手立てがなくて、やむなく悪事に手を染めるのであり、手に職をつけさせることさえ出来れば、罪を犯した者でも立派に更生できるとわしは信じる」

 

これこそ長谷川平蔵の信念であり、この信念が正しい事を証明しようと人足寄場の運営にのめり込んでいたのです。

 

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長谷川平蔵五十歳で死去

 

長谷川平蔵は人足寄場を退任して三年後の寛政7年(1795年)5月病気を理由にお役御免を願い出た直後、5月10日50歳で命が尽きます。この寛政7年の4カ月間にも、15件の事件について老中に「御仕置(おしお)き伺い」を出していて、まさに心身を削り燃え尽きるように倒れた孤軍奮闘の生涯でした。

 

平蔵の犯罪に対する態度は厳しく容赦がない公正なものでしたが、同時に情状酌量(じょうじょうしゃくりょう)の余地がある罪には、極めて柔軟に対処しました。

 

例えば、武蔵・鳩ケ谷(はとがや)宿の旅籠屋(はたごや)飯盛女(めしもりおんな)よしが旅籠主人の置いておいた財布から十両を盗んだ事件で、平蔵は老中に御仕置き伺いをした時、敢えて盗まれた金額を九両三分二(しゅ)と偽って書いています。

嫌々条約に調印する井伊直弼

 

これは、江戸時代には、十両盗むと初犯でも死刑だったのでこれを可哀想に思った平蔵が意図的に二朱少なくして報告したのです。

 

平蔵の配慮は功を奏し、よしは入れ墨・五十日の過怠牢(かたいろう)という軽微な罪で済みました。

 

また、平蔵は誤認逮捕者が出ると、「例え三、四日といえど牢内に留置すれば、それだけ家職(かしょく)も出来ずに妻子を養いかねるのだから」として、拘留した日当分の手当を自分のポケットマネーから釈放時に渡しています。

 

江戸時代にも能吏(のうり)は沢山いたでしょうが、長谷川平蔵のように能力と人情が同居した人は、そうは多くなかったのではないかと思います。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

テレビを視聴するkawauso編集長 ver.2

 

江戸時代、火付盗賊改方の評価は低く、荒っぽい武官ばかりの為に庶民にも嫌われ、「町奉行所の(ひのき)舞台、火盗改の乞食舞台」と陰口を叩かれました。しかし、平蔵が火盗改めに就任していた8年間は例外で庶民は「本所の平蔵様」、「今大岡」と呼んで親しまれたそうです。

 

また、火盗改の役宅でもあった平蔵の屋敷では、毎日朝から大鍋で飯を炊いて、本所深川あたりで酒や博打で金を使い果たした遊び人や食いっぱぐれの宿無しに飯を振る舞うのを厭いませんでした。

 

これも、空きっ腹で自棄をおこした人間が犯罪に走るのを抑止する手だてでしたが、何度か一飯の恩義を受けるうちに感激し、闇社会の情報を平蔵に打ち明ける無宿人もいたそうです。放蕩無頼な「本所の銕」は人情の機微を知り犯罪を抑止する事に心を砕き、江戸庶民に慕われるヒーローになったのでした。

 

参考文献:江戸の名奉行43人の実録列伝

 

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