江戸時代

太田道灌はなぜ有名?江戸城を建てただけじゃない道灌の功績を紹介

細川勝元

 

太田道灌(おおたどうかん)は室町時代から戦国初期にかけて活躍した関東の武将です。一応、教科書には江戸城を築いた人として紹介され戦前から知られていました。

 

しかし、ただ江戸城を築いただけの太田道灌がどうしてこんなに有名なのか?

実は太田道灌の功績は江戸城築城だけではなく、もっと大きな功績を挙げていたのです。

 

太田道灌永享4年に誕生

戦国時代の武家屋敷a

 

太田道灌は(いみな)資長(すけなが)と言い永享4(えいきょう)年(1432年)鎌倉公方(かまくらくぼう)を補佐する関東管領(かんれい)上杉氏の一族、扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の家宰(かさい)を務めた太田資清(おおたすけきよ)の子として誕生します。道灌は鎌倉五山や足利学校でも学び、文安3年(1446年)に元服、享徳2年(1453年)に従五位下(じゅごいげ)昇叙(しょうじょ)しました。

 

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4つに分裂した関東管領上杉家

 

この頃、鎌倉公方を補佐する関東管領上杉氏は、山内上杉・犬懸(いぬがけ)上杉・宅間(たくま)上杉・扇谷上杉の4家に分裂。当初は山内上杉と犬懸上杉が力を持っていましたが、上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)の乱で犬懸上杉が没落した後は、山内上杉が関東管領職を独占します。

 

太田道灌の主君の扇谷上杉は山内上杉を支える分家の存在でした。

 

しかし、父資清が主君扇谷上杉持朝を補佐していた時代に大事件が起こります。鎌倉公方の足利持氏(あしかがもちうじ)と関東管領山内上杉憲実(うえすぎのりざね)の対立が永享(えいきょう)の乱に発展。足利持氏は室町幕府軍に滅ぼされ鎌倉公方が中絶したのです。

 

その後に幕府により持氏の子の足利成氏(あしかがしげうじ)が鎌倉公方に就任。そして上杉憲実の長男、山内上杉の憲忠(のりただ)が関東管領に任じられると憲忠の義父、持朝(もちとも)の要望で道灌の父、太田資清が山内上杉の家宰・長尾景仲(ながおかげなか)と共に上杉憲忠を補佐しました。

 

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今度は享徳の乱で鎌倉公方が2つに分裂

三国志のモブ 反乱

 

ところが、鎌倉公方と関東管領の関係はやはりうまく行きません。鎌倉公方である足利成氏が管領の上杉憲忠を暗殺してしまったのです。

 

これに激怒した上杉一門は報復に立ち上がり、足利成氏を攻めたものの享徳4年(1455年)分倍河原(ぶばいがわら)の戦いで返り討ちにあい、当時の扇谷家当主上杉顕房(うえすぎあきふさ)も討ち取られました。

 

室町幕府は成氏討伐を決め、駿河守護の今川範忠(いまがわのりただ)率いる幕府軍が鎌倉に攻め寄せます。しかし敗れた成氏は下総古河城に拠って抵抗して古河公方となり室町幕府に反発する関東の諸侯を味方につけたので今川範忠も攻めあぐね、関東地方は利根川を境界線として、古河公方陣営の東側と堀越公方を担ぐ関東管領陣営の西側に分断されました。

 

 

この出来事を享徳の乱と言い、関東の戦国時代の始まりともされますが、太田道灌は鎌倉公方が分裂した難しい時代に父、資清から家督を譲られます。

 

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古河公方と戦う砦として江戸城が築かれる

仙台城

 

古河公方と戦うには、早急に防衛拠点が必要となります。そこで扇谷上杉当主に復帰した上杉持朝の命令で太田道灌と父は河越城を築きました。道灌はさらに古河公方サイドの有力武将である房総の千葉氏を抑えるために当時の利根川下流域に城を築く必要がありこうして江戸氏の領地だった武蔵国の豊嶋郡(としまぐん)に江戸城を建築します。

 

道灌は江戸城の守護として日枝神社(ひえじんじゃ)築土神社(つくどじんじゃ)、平河天満宮を江戸城周辺に勧進造営します。最初に出来た江戸城は、古河公方に備える砦として誕生したのです。

 

また道灌は武人であるだけでなく当時としては教養を修めた文化人でもあり、京都の公家、飛鳥井雅親(あすかいまさちか)万里集九(ばんりしゅうく)などと交流して歌道にも精通し様々な和歌が残し、文明元年から文明6年頃は、歌人の心敬(しんけい)を品川館に招いて連歌会を開催。同年には心敬を審判に江戸城で歌合を行い、「武州江戸二十四番歌合」を残しています。

 

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手強い古河公方

幕府の旧式軍隊(兵士・モブ)

 

文正元年(1466年)関東管領山内房顕が死去。山内家は越後上杉家から養子に入った上杉顕定(うえすぎあきさだ)が相続します。翌年、京で応仁の乱が勃発。同じ年扇谷持朝が死去し、跡を孫で16歳の上杉政真(うえすぎまさざね)が相続し五十子(いそこ)の砦に入りました。

 

文明3年(1471年)古河公方足利成氏が攻勢に出て武蔵国を突破し箱根を越え堀越公方(ほりごうえくぼう・)足利政知(あしかがまさとも)のいる伊豆国へ進撃。上杉方は古河公方軍を撃退して古河城へ逆襲して陥落させますが、足利成氏は千葉孝胤(ちばたかたね)を頼って落ち延びます。

 

その後足利成氏は猛反撃に出て古河城を奪回。文明5年には扇谷政真を戦死させました。なんだか扇谷上杉の当主は死んでばかりですね。若い政真には子供がなく、道灌ら老臣が協議した結果、政真の叔父にあたる上杉定正(うえすぎさだまさ)を扇谷家当主に迎え入れます。

 

この頃、道灌は出家し、沙彌道灌(さみどうかん)、または道灌と称しました。

 

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足軽戦術を考案した太田道灌

足軽a-モブ(兵士)

 

太田道灌の功績は江戸城を築城しただけではありません。彼は江戸城で勤務しながら京都で起きていた応仁の乱の情報をつぶさに研究していました。そして、応仁の乱において東西軍を問わず活躍していた足軽に目を付けたのです。

 

もちろん経済が発展し、同時に浮浪者を足軽として食わせる余裕があった畿内と違い、関東には足軽傭兵の予備軍となる浮浪者は少ないのですが、代わりに関東には頻繁な勢力激変で没落し、土豪として活動する騎馬足軽が多く存在していました。

 

道灌はこの粗野で乱暴な騎馬足軽をスカウトし、江戸城内で弓矢の稽古などを積ませ、成績の優秀な者には茶代(ちゃだい)を出し、怠けて成績が上がらない者からは罰金を徴収して茶代に当て騎馬足軽を精強な軍団として鍛え上げます。こうして道灌は当時としては、かなりまとまった数の騎馬足軽を保有し集団戦法を実施したのです。

 

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長尾景春の乱

日本戦国時代の鎧(武士・兵士)

 

文明5年山内氏の家宰長尾景春が死去し、跡を長尾景春(ながおかげはる)が相続します。しかし、山内顕定は家宰職を景春ではなく景信の弟の長尾忠景に与え、景春はこの事を恨みます。

 

文明8年2月、駿河国守護、今川義忠(いまがわよしただ)遠江国(とおとうみこく)で討死し家督を巡り遺児の龍王丸と従兄の小鹿範満(おしかのりみつ)が争い内紛になりました。この今川氏の家督争いは龍王丸の叔父の伊勢新九郎(いせしんくろう)が仲介に入り、小鹿範満を龍王丸が成人するまでの家督代行とする事で和睦が成立。小鹿範満を家督につけるべく出兵していた道灌も撤兵します。

 

しかし、道灌が駿河に出張していた同年6月、長尾景春は鉢形城(はちがたじょう)を拠点に古河公方と結び挙兵。景春は従兄弟である道灌に謀反に加わるように誘いますが道灌はこれを断りました。

 

軍議(日本史)モブb

 

道灌は五十子の陣に向かい、関東管領山内顕定に長尾景春を懐柔する為に長尾忠景を退けるように進言しますが顕定はこれを拒否。さらに景春を武蔵国守護代につける事も、直ちに景春を討つ事も拒否しました。優柔不断ですねーダメな上司の典型です。文明9年正月、長尾景春は五十子の陣を急襲し山内顕定と扇谷定正は大敗し敗走。長尾景春に味方する国人が続出して上杉氏は危機に陥ります。

 

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太田道灌独力で長尾景春を討つ!

馬にのり凱旋する将軍モブ(兵士)

 

さらに石神井城(しゃくじいじょう)豊島泰経(としまやすつね)が長尾景春に呼応、江戸城と河越城の連絡が絶たれ道灌も窮地に陥ります。同年3月、道灌は兵を動かし長尾景春方の溝呂木(みぞろき)城と小磯城を速攻で攻略。江戸城に近い豊島氏にも兵を発して豊島泰経・泰明兄弟を江古田(えこた)沼袋原(ぬまぶくろはら)の戦いで撃破。そのまま石神井城を落して豊島氏を没落させました。

 

 

道灌は次に用土原(ようどはら)の戦いで長尾景春を破り景春の本拠・鉢形城を包囲しますが、古河公方成氏が出陣したため撤退し早期に景春を討つ好機を逃がします。しかし道灌の東奔西走の活躍で長尾景春は早々に封じ込められ翌文明10年正月、古河公方成氏は和議を打診しました。

 

太田道灌は文明10年4月、武蔵の小机城を包囲し少人数でこれを攻め落とすと長尾景春方の諸城を落とし相模から一掃。12月に和議に反対する古河公方の有力武将千葉孝胤を境根原合戦で撃破。

 

文明11年には孝胤と千葉氏当主の座を争っていた千葉自胤(ちばよりたね)を擁して甥の太田資忠を房総半島に出兵させ反対派を一掃します。抵抗を続けていた長尾景春も文明12年6月、最後の拠点である日野城を道灌に攻め落とされ没落。文明14年、古河公方成氏と両上杉家との間で「都鄙合体(とひがったい)」と呼ばれる和議が成立30年に及んだ戦乱は終結しました。

 

太田道灌は30数回の合戦を戦い抜き、ほとんど独力で上杉家の危機を救い、「山内家が武蔵上野の両国を支配できるのは、私の手柄である」と自ら述べるまでになります。

 

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出る道灌は討たれた!

戦国時代の武家屋敷b

 

太田道灌の活躍によって主家扇谷家の勢力は大きく増しました。しかし、それとともに大手柄の道灌の声望も絶大なものになります。長尾景春の乱では逃げてばかりだった上杉定正は太田道灌が優れた統率力と戦略で敵を圧倒しその功を誇って主君を軽んじるとして、道灌の意見を用いないなどし、関係は険悪になっていました。

 

「永享記」道灌が人心の離れた山内家に対し謀反を企てたと記録し、また、扇谷家中が道灌の江戸・河越両城の補修を怪しんで扇谷定正に讒言したとも言います。

 

道灌はこれらの中傷に対して一切弁明しませんでしたが、「太田道灌状」父と自分の功績が正当に評価されないことに不満を持ち、上杉定正の冷遇に対する不満をぶつけています。さらに、暗殺からの一族皆殺しに備え嫡男の資康(すけやす)を和議の人質を名目として古河公方成氏に預けてもいました。

 

道灌の懸念は現実のものとなります。文明18年7月26日、道灌は扇谷定正の糟屋館(かすややかた)に招かれここで暗殺されました。「太田資武状(おおたすけたけじょう)」によると、道灌は入浴後に風呂場の小口から出たところで曽我兵庫(そがひょうご)に襲われて斬り倒されたとの事です。

 

道灌は死に際に「当方滅亡」と言い残しました。自分がいなくなれば扇谷上杉家に未来はないという予言ですが、道灌暗殺で、道灌の子資康はもちろん、扇谷上杉家に付いていた国人地侍の多くが主家の山内家へついてしまいました。

 

北条早雲

 

家宰の扇谷定正は苦境に陥ることになり、翌長享元年(1487年)には管領山内顕定と家宰扇谷定正の関係は決裂。両上杉家は長享の乱と呼ばれる歴年にわたる抗争を繰り広げ、その隙に勢力を伸ばした伊勢宗瑞の後北条氏に飲み込まれる事になります。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

太田道灌はただ江戸城を築城しただけの人ではなく、応仁の乱から足軽の集団戦法を取り入れ、長尾景春の反乱を鎮圧して崩壊寸前だった上杉氏の窮地を救い、同時に古河公方から堀越公方を防衛する役割を長年に渡り担いました。

 

その功績は特筆に値するものでしたが、功績が大きくなりすぎて山内上杉氏と扇谷上杉氏に恐れられて疎まれ、遂には殺害されるに至ってしまったのは残念です。道灌は功績を誇る出来るタイプであり、それがより周囲の恐怖を煽り道灌の寿命を縮めてしまったのではないでしょうか?

 

参考文献:絵解き 雑兵足軽たちの戦い 講談社文庫

 

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