平安時代を代表するプレイボーイは在原業平です。和歌に秀でて眉目秀麗であり、多くの女性と浮名を流しました。しかし、それが行き過ぎて道ならぬ恋をしてしまい朝廷の怒りを買い、ほとぼりを覚まそうと関東を旅行して伊勢物語を書いたと言われます。
ところが、在原業平が東国に下った理由はもっと直接的な理由だったのです。鎌倉前期、鴨長明が著わした「無名抄」によると、業平は浮名を流した女性たちの兄に恨みを買い髪の髻(もとどり)ちょんまげを切り落とされたそうです。
『鎌倉殿の13人』を視聴されたかたは、平安末の公家が烏帽子をかぶれないのは裸で人前を歩くのと同じ恥辱だと知っていると思います。当時、烏帽子は顎紐ではなく髻にカンザシで固定していたので髻がないと烏帽子をかぶれなかったのです。業平もそうであり、これまでプレイボーイとして浮名を流した分烏帽子なしでは外に出る事も出来ません。
そこで、大人しく髻が結えるまで家に閉じこもるつもりでしたが元来、歌心がある人なので、この機会に関東を旅しようと牛車で都を出たという事でした。ちなみに当時の関東は蛮地であり、烏帽子を被る人もほとんどいませんでした。業平が烏帽子をかぶらなくてもそれを気にする人はほとんどいなかったのです。
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