平安プレイボーイ在原業平が東国に下った理由は?


監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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book-saiyuki(西遊記-書類)

 

平安時代を代表するプレイボーイは在原業平です。和歌に秀でて眉目秀麗であり、多くの女性と浮名を流しました。しかし、それが行き過ぎて道ならぬ恋をしてしまい朝廷の怒りを買い、ほとぼりを覚まそうと関東を旅行して伊勢物語を書いたと言われます。

 

ところが、在原業平が東国に下った理由はもっと直接的な理由だったのです。鎌倉前期、鴨長明が著わした「無名抄」によると、業平は浮名を流した女性たちの兄に恨みを買い髪の髻(もとどり)ちょんまげを切り落とされたそうです。

 

公家同士の会議

 

鎌倉殿の13人』を視聴されたかたは、平安末の公家が烏帽子をかぶれないのは裸で人前を歩くのと同じ恥辱だと知っていると思います。当時、烏帽子は顎紐ではなく髻にカンザシで固定していたので髻がないと烏帽子をかぶれなかったのです。業平もそうであり、これまでプレイボーイとして浮名を流した分烏帽子なしでは外に出る事も出来ません。

 

そこで、大人しく髻が結えるまで家に閉じこもるつもりでしたが元来、歌心がある人なので、この機会に関東を旅しようと牛車で都を出たという事でした。ちなみに当時の関東は蛮地であり、烏帽子を被る人もほとんどいませんでした。業平が烏帽子をかぶらなくてもそれを気にする人はほとんどいなかったのです。

 

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