皇室の紋章といえば、菊が有名かと思います。これは十六葉八重表菊と言いますが、最初から皇室の紋章だったわけではありません。今回は皇室が十六葉八重表菊を紋章にするまでについて解説しましょう。
この記事の目次
皇室の紋章は桐竹紋
皇室の紋章は元々、桐竹紋でした。俗に五三の桐と呼ばれ、五百円玉の裏に描かれている植物です。それに対して、菊の紋章は後鳥羽上皇個人の紋章であり本来ならそれが皇室を代表する紋章にはならなかったハズですが、後鳥羽上皇が承久の乱を起こした事で菊の紋章の運命が大きく変化しました。
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後鳥羽上皇の血筋を疎んじた幕府
承久の乱に参画していたのは後鳥羽上皇ばかりでなく、上皇の子である後土御門上皇、後土御門天皇の異母弟である順徳上皇、さらに順徳上皇の子で僅か4歳で即位した仲恭天皇がいました。
鎌倉幕府は、自分達に反旗を翻した後鳥羽上皇の血筋を許さず、4歳の仲恭天皇を廃位させ、後鳥羽天皇の兄弟である守貞親王の子を後堀河天皇として即位させます。
後堀河天皇は10歳で即位し、その後院政をおこなうべく2歳の四条天皇に譲位しました。しかし後堀河天皇は23歳で崩御し、後を継いだ四条天皇も不慮の事故で12歳で崩御。こうして守貞親王の直系は絶え、幕府は渋々、後鳥羽上皇の血筋から次の天皇を選ぶ事になりました。
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忠成王と邦仁王
朝廷では、天皇の後継者として佐渡に流罪になった順徳天皇の子である忠成王か、土御門天皇の王子、邦仁王で次の天皇が選定され、忠成王ほぼ決定します。
しかし、幕府執権の北条泰時は忠成王を即位させると父親の順徳上皇が京都に戻り院政を敷いて反幕府的な態度を取る事を危惧し、武力介入をちらつかせて、まだ中立の立場であった邦仁王を天皇に推しました。
朝廷は泰時の恫喝に屈して邦仁王を後嵯峨天皇として即位させます。
菊の紋章を受け継いだ後嵯峨天皇
即位した後嵯峨天皇は、1246年1月に子の後深草天皇に譲位して上皇となります。そして、牛車の紋章を後鳥羽上皇が使用していた菊の紋章に変えました。
この経緯について、上皇に仕えた葉室定嗣は日記の「葉黄記」で
「上皇様が菊の紋章を使うのは先祖の後鳥羽上皇にならうものである。中国では前漢が滅んだ後に光武帝が後漢を復興したが、上皇様は自らが後鳥羽上皇の後継者である事を強く意識して、菊の紋章をお使いになった」このように記録していて、後嵯峨上皇が後鳥羽上皇の正統な後継者として自任している事を仄めかしています。この菊の御紋については、幕府でも朝廷でも色々物議を醸したようですが結局は認められる事になりました。
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菊の紋章は後鳥羽上皇の後継者である証
承久の乱で幕府に抑え込まれた朝廷にとって、後鳥羽上皇は反幕府の象徴となります。そして、菊の紋章を使用する事は、幕府の言う事をただホイホイと聞いたりはしないぞという天皇の決意を表すものとなりました。
後嵯峨上皇の後、皇室は後深草天皇の持明院統と弟の亀山天皇の大覚寺統の二系統に分裂し両統並立の時代がやってきます。そして、持明院統も大覚寺統も、菊の紋章を自分の印として使い続けたのです。
こうして、菊の紋章は幕府の言いなりにはならない、言うべき事は言うという天皇の意地の象徴となり、皇室第一の紋章へと昇華していきました。
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民間にも開放された菊の紋章
こうして見ると神聖な紋章に見える菊の紋章ですが、江戸時代には葵の御紋が厳しく規制されたのに対し、菊の御紋には規制がなかったので、亜流を含めて多くの菊花紋が、家具や仏具、お菓子の図案として民間で使用されました。
逆に明治時代になると、皇室の威信を高める必要から十六葉八重表菊やそれに似たデザインを民間が使用するのを禁止されて、皇室のブランドとしての菊の紋章のイメージが強化されます。逆に戦後は一切の規制がなくなりますが、皇室ブランドのイメージは強く残り、菊花紋は自らの存在を権威づけたい団体にとって用いやすい紋章になっています。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は菊の紋章がどのような経緯で皇室の紋章になっていったのかを書いてみました。菊の紋章が後鳥羽上皇の紋章だった事は知られていますが、その後の天皇が紋章を継承していった背景についてはご存知ない方も多いのではないでしょうか?
皇室は常に時の幕府や権力者と対立関係だったわけではありませんが、常に菊の紋章を前面に押し立てる事で、後鳥羽上皇の無念を忘れまいと浮上のチャンスを窺っていた。
こう考えると、建武の新政での後醍醐天皇と足利尊氏の対立や、戦国時代の正親町天皇と織田信長の関係など、色々と思い当たる節もあり、ニヤリとしてしまいませんか?
参考文献:勘違いだらけの日本文化史 淡交社
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