NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」21話「仏の眼差し」で初登場。胸元をはだけ大胸筋をちらつかせて斧を奮うセクシーすぎる御家人が八田知家です。
ドラマでは登場人物の兼ね合いで中盤からしか登場していませんが、この知家、頼朝の挙兵から従い、実は頼朝の異母兄弟とも噂されていました。今回は知られざる鎌倉幕府の大物、八田知家を解説します。
この記事の目次
下野国の豪族、宇都宮氏の子として誕生
八田知家は、下野国の豪族・宇都宮宗綱と八田局(宇都宮朝綱の娘)の間に康治元年(1142年)に誕生しました。八田家続書では知家の父は源義朝で、生母の八田局が懐妊7か月の時に宇都宮朝綱に預けられたとあるそうです。
同時期は義朝が関東に下向して周辺豪族と縁組していた頃であり、八田知家が義朝の御落胤である可能性は100%までは否定できないでしょう。また、知家の父である宇都宮宗綱の娘の寒河尼は、複数いた頼朝の乳母の1人であり、宇都宮一族と義朝の関りが深いのは事実です。
知家は、保元の乱では14歳で義朝に従って戦い功績をあげましたが、それから3年後の平治の乱で義朝が敗死した事で雌伏を余儀なくされました。
知家は八田武者所知家とも記される事から、若い頃に院庁の警備をしていた可能性もあり、ドラマのようなワイルドな坂東武者ではなく京都の事情に通じた都会派御家人だったかも知れません。
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源頼朝の挙兵に参加
治承4年(1180年)に頼朝が挙兵すると八田、小山、宇都宮一族は頼朝に味方して勇敢に戦いました。これは、宇都宮氏が頼朝の乳母を出している関係もあるのでしょう。そして、知家は富士川の合戦後に、早くも下野国茂木郡地頭職を安堵されました。
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もうひとつの兄弟の再会
富士川の戦いと言えば、黄瀬川で陣を敷いていた頼朝のところに九郎義経が尋ねてきて感動の兄弟再会になった場面が有名です。一方、八田知家も異母弟である頼朝に対面した記録が残っています。それが常陸国の佐竹氏討伐の時の事でした。
常陸国は平氏の知行国で佐竹氏は源氏ながら、清盛に頼朝追討を指示されると積極的に平家の命令に従って頼朝には協力しませんでした。源氏の棟梁として僅かな謀反も許さない厳しい態度で臨む頼朝は佐竹氏を討伐しますが、その最中に叔父にあたる志田義広と敵対し野木宮合戦が始まります。
八田知家は、この野木宮合戦に従い、義広の郎党29名を生け捕り鎌倉で頼朝と対面し、手柄を褒め称えられたと吾妻鏡にあります。もし、知家が頼朝の異母兄なら、これが2人の初対面の可能性もあります。
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度々の手柄で常陸国守護に昇進
この後、知家は、源範頼の配下になり平家追討や九州平定など、ほとんどの合戦に参戦して功績を上げ、文治5年(1189年)の奥州合戦では千葉常胤と共に東海道大将軍として福島の浜通りから進軍して平泉の軍勢を追い詰めました。
このような功績から、頼朝は、奥州藤原氏の根拠地にも近い常陸国の中から、信太荘・南野荘を知家に与え、国府を挟んだ南郡の地域を下河辺氏に与えます。頼朝は鎌倉と奥州を結ぶ交通の要衝を知家に任せたのです。
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下野国から常陸国へ謀略で国替
建久4年(1193年)知家は、曾我兄弟の仇討ちを利用して常陸大掾氏の多気義幹を北条時政と共に罠にはめ領地を没収。自分の本拠地を下野から常陸に移し、その後、頼朝により常陸国守護に任命されました。
どんな罠かというと、八田知家は最初に「知家が多気義幹を討とうとしている」と流言を流します。それを知った多気義幹は多気山城に兵を集めました。つぎに知家は「富士野で狼藉があったので私と同道してもらいたい」と義幹に伝令を出します。
多気義幹は、誘き出して討つつもりではないかと疑い、黙殺しました。ここで八田知家は「多気義幹は仇討ちに乗じて謀反を企んでいる」と頼朝に訴えます。
頼朝は双方の言い分を聞こうと知家と義幹を鎌倉に呼びますが、義幹は口下手だったのか、弁明が意味不明で、さらに多気山に兵を集めた事実は隠しようがないため敗訴し領地を没収され、身柄は岡部泰綱に預けられました。
いささか気分が悪い逸話ですが、知家は悪賢い知恵も回る人でした。
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八田知家の失敗
狡猾な知家ですが、頼朝の怒りを買った事もあります。平家を壇ノ浦で滅ぼす前、義経が頼朝の許しを得ずに朝廷から官位を得た事があり、知家も義経に付き合い任官して右衛門尉になっていたからです。
怒った頼朝は「仕事も済ませないで道草しながら任官を受けるとは、まるで怠け馬が道草を食べてあるくようなものだ」と知家を罵倒しました。
頼朝は罵倒する時に御家人の顔や容姿を悪く言っているので、知家は馬に例えられた経緯から馬顔だったのかも知れません。しかし、知家は怒られて後は行動に注意し、ついに天寿を全うしたので慎重な人だったのでしょう。
ラブリー全成を誅殺した和田知家
建久10年(1199年)、頼朝が死去すると2代将軍源頼家の専制が始まります。そこで、有力御家人たちは北条氏や比企氏を中心に十三人の合議制を組織、知家も中に入ります。
しかし、狡猾な知家は、単純な反頼家でもありませんでした。建仁3年(1203年)に頼家の叔父である阿野全成が北条氏の後援を受けて反頼家派を形成すると、源頼家は先手を打って全成を捕らえて伊豆へ流し、知家は頼家の命令で全成を誅殺しています。
知家は、宇都宮、小山一族と歩調を合わせながら、鎌倉幕府で重臣の位置を占め、建保6年(1218年)に76歳で死去します。阿野全成を討ち取りながら北条氏を敵に回さず、上手く生き延びたと言えるでしょう。
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日本史ライターkawausoの独り言
八田知家が常陸国に築いた地盤は、常陸小田氏として室町時代頃まで、関東八屋形と呼ばれますが、次第に佐竹氏や後北条氏に圧迫を受けて領地を縮小し、戦国時代の不死鳥、フェニックス小田こと、小田氏治に引き継がれます。
小田氏治は、その後も根拠地の小田城を何度も攻め取られては奪い返す活躍を見せますが、天正11年(1583年)には佐竹氏に完全に従属。天正18年(1590年)の小田原攻めでは豊臣秀吉の従軍命令を拒否した事で領地を完全に召し上げられ戦国大名としては終焉を迎えました。
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