八田知家とはどんな人?セクシー御家人は源頼朝の兄弟だったのか【鎌倉殿の13人】

23/06/2022


八田知家

 

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」21話「仏の眼差し」で初登場。胸元をはだけ大胸筋をちらつかせて斧を奮うセクシーすぎる御家人が八田知家(はったともいえ)です。

 

ドラマでは登場人物の兼ね合いで中盤からしか登場していませんが、この知家、頼朝の挙兵から従い、実は頼朝の異母兄弟(いぼきょうだい)とも噂されていました。今回は知られざる鎌倉幕府の大物、八田知家を解説します。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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下野国の豪族、宇都宮氏の子として誕生

下野国

 

 

八田知家は、下野国(しもつけこく)の豪族・宇都宮宗綱(うつのみやむねつな)八田局(はったのつぼね)(宇都宮朝綱(ともつな)の娘)の間に康治(こうじ)元年(1142年)に誕生しました。八田家続書では知家の父は源義朝で、生母の八田局が懐妊7か月の時に宇都宮朝綱に預けられたとあるそうです。

 

源義朝 鎌倉殿の13人

 

同時期は義朝が関東に下向して周辺豪族と縁組していた頃であり、八田知家が義朝の御落胤(ごらくいん)である可能性は100%までは否定できないでしょう。また、知家の父である宇都宮宗綱の娘の寒河尼(さむかわのあま)は、複数いた頼朝の乳母(うば)の1人であり、宇都宮一族と義朝の関りが深いのは事実です。

 

知家は、保元の乱では14歳で義朝に従って戦い功績をあげましたが、それから3年後の平治の乱で義朝が敗死した事で雌伏を余儀なくされました。

 

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

知家は八田武者所知家(はった・むしゃどころ・ともいえ)とも記される事から、若い頃に院庁(いんのちょう)の警備をしていた可能性もあり、ドラマのようなワイルドな坂東武者ではなく京都の事情に通じた都会派御家人だったかも知れません。

 

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はじめての平安時代

 

 

源頼朝の挙兵に参加

坂東武士A(モブ)

 

治承(じしょう)4年(1180年)に頼朝が挙兵すると八田、小山(こやま)、宇都宮一族は頼朝に味方して勇敢に戦いました。これは、宇都宮氏が頼朝の乳母を出している関係もあるのでしょう。そして、知家は富士川の合戦後に、早くも下野国茂木郡地頭職(しもつけのくに・もぎぐん・じとうしょく)安堵(あんど)されました。

 

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はじめての鎌倉時代

 

 

もうひとつの兄弟の再会

源義経に寄生するキングボンビー源行家

 

富士川の戦いと言えば、黄瀬川で陣を敷いていた頼朝のところに九郎義経(くろうよしつね)が尋ねてきて感動の兄弟再会になった場面が有名です。一方、八田知家も異母弟である頼朝に対面した記録が残っています。それが常陸国の佐竹氏討伐の時の事でした。

 

ブチギレた源頼朝は源義経と源行家に出陣

 

常陸国は平氏の知行国で佐竹氏は源氏ながら、清盛に頼朝追討を指示されると積極的に平家の命令に従って頼朝には協力しませんでした。源氏の棟梁として僅かな謀反も許さない厳しい態度で臨む頼朝は佐竹氏を討伐しますが、その最中に叔父にあたる志田義広(しだよしひろ)と敵対し野木宮合戦(のぎみやかっせん)が始まります。

 

八田知家は、この野木宮合戦に従い、義広の郎党29名を生け捕り鎌倉で頼朝と対面し、手柄を褒め称えられたと吾妻鏡(あずずまかがみ)にあります。もし、知家が頼朝の異母兄なら、これが2人の初対面の可能性もあります。

 

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源頼朝

 

 

度々の手柄で常陸国守護に昇進

義仲討伐の総大将に抜擢された源範頼

 

この後、知家は、源範頼の配下になり平家追討や九州平定など、ほとんどの合戦に参戦して功績を上げ、文治5年(1189年)の奥州合戦では千葉常胤と共に東海道大将軍として福島の浜通りから進軍して平泉の軍勢を追い詰めました。

 

このような功績から、頼朝は、奥州藤原氏の根拠地にも近い常陸国の中から、信太荘・南野荘を知家に与え、国府を挟んだ南郡の地域を下河辺氏(しもこうべし)に与えます。頼朝は鎌倉と奥州を結ぶ交通の要衝を知家に任せたのです。

 

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源義経

 

下野国から常陸国へ謀略で国替

常陸国

 

建久4年(1193年)知家は、曾我兄弟(そがきょうだい)の仇討ちを利用して常陸大掾氏(ひたちだいじょうし)多気義幹(たけよしもと)を北条時政と共に罠にはめ領地を没収。自分の本拠地を下野から常陸に移し、その後、頼朝により常陸国守護に任命されました。

 

どんな罠かというと、八田知家は最初に「知家が多気義幹を討とうとしている」と流言を流します。それを知った多気義幹は多気山城(たけやまじょう)に兵を集めました。つぎに知家は「富士野で狼藉があったので私と同道してもらいたい」と義幹に伝令を出します。

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

多気義幹は、(おび)き出して討つつもりではないかと疑い、黙殺しました。ここで八田知家は「多気義幹は仇討ちに乗じて謀反を企んでいる」と頼朝に訴えます。

 

頼朝は双方の言い分を聞こうと知家と義幹を鎌倉に呼びますが、義幹は口下手だったのか、弁明が意味不明で、さらに多気山に兵を集めた事実は隠しようがないため敗訴し領地を没収され、身柄は岡部泰綱(おかべやすつな)に預けられました。

 

軍議(日本史)モブb

 

いささか気分が悪い逸話ですが、知家は悪賢い知恵も回る人でした。

 

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北条義時

 

 

八田知家の失敗

木曽義高を殺す事を決意した源頼朝

 

狡猾(こうかつ)な知家ですが、頼朝の怒りを買った事もあります。平家を壇ノ浦で滅ぼす前、義経が頼朝の許しを得ずに朝廷から官位を得た事があり、知家も義経に付き合い任官して右衛門尉(うえもんじょう)になっていたからです。

 

馬に粘土を載せて運ぶ人(幕末時代)

 

怒った頼朝は「仕事も済ませないで道草しながら任官を受けるとは、まるで怠け馬が道草を食べてあるくようなものだ」と知家を罵倒しました。

 

頼朝は罵倒する時に御家人の顔や容姿を悪く言っているので、知家は馬に例えられた経緯から馬顔だったのかも知れません。しかし、知家は怒られて後は行動に注意し、ついに天寿を全うしたので慎重な人だったのでしょう。

 

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鎌倉殿の13人

 

 

ラブリー全成を誅殺した和田知家

北条義時、北条時政と対立した源頼家

 

建久10年(1199年)、頼朝が死去すると2代将軍源頼家の専制が始まります。そこで、有力御家人たちは北条氏や比企氏(ひきし)を中心に十三人の合議制を組織、知家も中に入ります。

 

しかし、狡猾な知家は、単純な反頼家でもありませんでした。建仁3年(1203年)に頼家の叔父である阿野全成(あのぜんじょう)が北条氏の後援を受けて反頼家派を形成すると、源頼家は先手を打って全成を捕らえて伊豆へ流し、知家は頼家の命令で全成を誅殺しています。

 

法力を持つと自称していた阿野全成

 

知家は、宇都宮、小山一族と歩調を合わせながら、鎌倉幕府で重臣の位置を占め、建保(けんぽう)6年(1218年)に76歳で死去します。阿野全成を討ち取りながら北条氏を敵に回さず、上手く生き延びたと言えるでしょう。

 

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北条政子

 

 

日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

八田知家が常陸国に築いた地盤は、常陸小田氏として室町時代頃まで、関東八屋形(かんとうはちやかた)と呼ばれますが、次第に佐竹氏や後北条氏に圧迫を受けて領地を縮小し、戦国時代の不死鳥、フェニックス小田こと、小田氏治(おだうじはる)に引き継がれます。

 

小田氏治は、その後も根拠地の小田城を何度も攻め取られては奪い返す活躍を見せますが、天正11年(1583年)には佐竹氏に完全に従属。天正18年(1590年)の小田原攻めでは豊臣秀吉の従軍命令を拒否した事で領地を完全に召し上げられ戦国大名としては終焉を迎えました。

 

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47都道府県戦国時代

 

 

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カワウソ編集長

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