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鎌倉時代の僧「一遍」が遺したのは盆踊りだけではない!一遍上人が未来に残した衝撃の文化遺産

24/12/2024


 

コメントできるようになりました 織田信長

踊り念仏を広めた一遍上人

 

鎌倉時代の僧の「一遍上人(1239年~1289年)」といえば、「踊り念仏」を積極的に行ったとして、広く知れ渡っています。しかし、一遍が後世に遺したものは、踊り念仏以外にもあったようです。紹介していきましょう。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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一般庶民に寄り添い続けた一遍

一遍上人(坊主)

 

調べてみると、一遍の生き方は、最貧民の庶民と寄り添うものであったことに気付かされます。それは、当時の日本の社会情勢として、二度にわたる「蒙古襲来」があり、危機的状況に陥っていたという背景があるでしょう。

 

餓死する農民 日本史ver

 

そして、人々を救うための手段として、「念仏勧進」を積極的に行っていたと言われています。その実は、ただただ、南無阿弥陀仏と唱え、祈ることを勧めて、念仏札を配り歩いて回る、というものでした。意味も分からずでも良いから念仏を唱えていれば、「仏」が救いの手を差し伸べてくれる、死んだ後も極楽浄土に行けると説いていたのです。その念仏勧進の活動の一環で行われたのが、「踊り念仏」でした。

 

ただ、それは、自分の力に頼らない、他力本願ということになります。大乗仏教の宗派の中では、この考え方は当然とされる所もありますが、上座部仏教などの古くからある宗派の立場からすると、その道から外れるのではないかと、批判の意見もあったかと思います。しかし、一遍の活動は、庶民救済の目的で行われていたのは確かです。祈る行為によって、民の心が楽になればという必死の願いがあったのだろうと推測されます。

 

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遊行上人と呼ばれた一遍

book-saiyuki(西遊記-書類)

 

次に、一遍は、「遊行上人」との異名も持っているほど、日本列島の全国を歩き回ったと伝わっています。36歳から始めて、51歳で生涯を閉じるまでの16年間、各地を回り、歩き続けたと言われています。そして、この「遊行」について、一遍にとって、手本となる存在が幾人もいたことが分かっています。例えば、行基菩薩、空海(弘法大師)、沙弥教信、空也上人、西行法師の名前が挙げられるでしょうか。

 

 

歌人でもあった一遍

西行法師 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士であり、僧侶、歌人

 

そして、今列挙した五人の僧侶たちの中で、「西行法師(1118年〜1190年)」は、各地を回り遊行しながら、和歌を多く詠んでいましたが、一遍の活動と重なる部分があります。一遍も遊行しながら、多くの和歌を詠んだと言われています。元々、一遍は、伊予国(現在の愛媛県)守護でもあった、河野水軍という武家の出身で、西行法師も 出家前は「佐藤義清(のりきよ)」という名の武士であり、生きた時代も近く、共感する所が多かったかもれません。

 

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book-Suikoden(水滸伝-書類)

 

一遍の詠んだ和歌で、現在残っていると確認できるものは、70首余りになるそうです。ここで、一遍の詠んだと伝わる和歌をいくつか紹介します。

 

・旅ごろも 木の根かやの根 いづくにか 身の捨てられぬ ところあるべき

 

(長旅を続けて、木の根元であれ茅の根元であれ、どのような所で最期を迎えても悔いはない、という意)

 

 

・捨ててこそ 見るべかりけれ 世の中を すつるも捨てぬ ならひ有りとは

 

(あらゆるモノを捨てて、捨てる心さえ捨てて、何も捨てるモノがなくなってこそ、本当に大切なモノを得られた喜びがある、という意)

 

 

・身をすつる すつる心を すてつれば おもひなき世に すみ染の袖

 

(身を捨てて、心も捨てて、さらに捨てることにとらわれた心までも捨ててしまって、今は黒墨の衣を着て、何も煩いのない世界に住んでいるという、意)

 

 

一遍の思想として、あらゆるものを「捨てる」ことを重んじていたと言われているのですが、和歌にそれが強く現れていますね。

 

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はじめての平安時代

 

 

捨聖 (すてひじり)の師匠たち

 

また、一遍の異名として「捨聖(すてひじり)」とも呼ばれていました。自分の持っているモノを捨てることを目指す生き方を理想した、と言えるでしょうかその生き方の手本としたのは、まずは、「空也上人」が挙げられますが、最終的に、命の閉じ方を真似たとされるのは、「教信」とういう僧侶だったと言われています。

 

教信は、奈良時代末期から平安時代初期に生きた僧侶です。生没年は【786年〜866年】との説が有力です。出家して修行した経験はあったものの、正式に僧侶として認められた訳ではなかったようで、修行僧を意味する「沙弥」から、「沙弥教信」の異名で呼ばれていたようです。

 

印南野(現在の兵庫県加古川市)に草庵を結び、暮らしていましたが、極貧でもあった中で、荷物運搬など、人のためになる活動に尽力しました。教信の最期の遺言として、自らの屍を、野良犬に喰わせたという逸話が残っています。この教信の臨終の迎え方を知り、一遍は心を打たれたようなのです。一遍自身の臨終は、教信が住まいとした印南野に比較的近い、神戸の観音堂(現在の神戸市兵庫区の『真光寺』)で迎えられたと伝わっています。

 

一遍上人

 

 

終わりに

コーノ 日本史ライター

 

このように、一遍の生涯は五十年と、僧侶としては短命でしたが、身体を張った活動を通して、後世に生きる私達に多くの影響を遺してくれたと感じられるのです。

 

 

【了】

 

【主要参考】

 

・『一遍語録を読む』(金井清光・梅谷繁樹 共著)法蔵館文庫

・『日本人のこころの言葉 一遍』(今井 雅晴 著)創元社

・『踊念仏の現象学的研究に向けて』(宮 嶋 俊 一 著)

・『一遍上人語録』(大橋俊雄 校注)岩波書店

 

【論文】

一遍上人の臨終をめぐって(岡本貞雄 著)

正岡子規記念博物館Webサイトより

時宗総本山 遊行寺 Webサイトより

 

 

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コーノ

歴史好きのライターです。 福祉関係の仕事をしつつ、物書きの仕事も色々としています。 小説や詩なども、ときどき書いています。 よろしくお願いします。 好きな歴史人物 墨子、孫子、達磨、千利休、良寛、正岡子規、 モーツァルト、ドストエフスキー など 何か一言 歴史は、不動の物でなく、 時代の潮流に流される物であると思っています。 それと共に、多くの物語が生まれ、楽しませてくれます。

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