三浦胤義は、鎌倉時代前期の武士で三浦一族の出身です。兄はコウモリ野郎として名高い、三浦義村ですが兄とは違い権謀術数は上手ではなく、承久の乱では後鳥羽上皇についてしまい兄の軍勢に討ち取られてしまいました。
今回は鎌倉殿のコウモリ野郎の弟、三浦胤義を解説します。
この記事の目次
畠山重忠の乱から名前が出てくる胤義
三浦胤義の登場は吾妻鏡によると元久2年(1205年)の畠山重忠の乱と牧氏事件での出陣で、この時は兄義村と手柄を立てています。その後は、和田合戦でも手柄を立て、源実朝の左大臣拝賀にも護衛の1人として参加していました。
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理由は不明だが上洛し検非違使となる
承久の乱の頃には京に上り検非違使として後鳥羽上皇に仕えていた事が分かりますが、上洛の理由はわかっていません。
承久記慈光寺本によると、後鳥羽上皇の近臣、藤原秀康から挙兵計画を聞かされた際に、どうして本拠地の鎌倉を捨てて、アウェーの京都にいるのかと問われた胤義は、
「私の妻は二代将軍頼家の愛妾で若君(禅暁)を産んだが、頼家は時政に殺され、禅暁も義時に殺された。妻はその事で悲嘆にくれていて、可哀想になった自分は鎌倉を捨てて上京し仇に報いるつもりなのだ」と語っています。
ここを読めば妻への仕打ちに対する復讐ですが、一方で承久記には、大番役で上京し、その後任期が明けても帰っていないと記していて、恨みによる上京か別に理由があったのかははっきりしていません。
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無邪気に兄を信じオウンゴールを決められる
経緯は不明ですが、胤義は藤原秀康の説得に応じて、承久の乱に参加します。胤義は上皇の威光を信じ切っていて、院宣が出たからには、義時に味方する御家人は千人もいないと豪語していました。
また、秀康に対しても「兄の義村はお調子者のバカなので、日本国惣追捕使に任命していただけるなら、喜んでホイホイ寝返ります」と持ちかけます。ちなみに日本国惣追捕使は、過去に源頼朝が朝廷より任命された地位で、坂東の一御家人に過ぎない三浦義村にとっては破格の待遇です。
上皇は鎌倉幕府の内部崩壊を目論んで義村を含めた鎌倉の有力御家人に密書を出しますが、密書を読んだ義村は激怒して使者を捕らえ、執権義時に密書を渡してしまいました。
無邪気な胤義は、兄を信じたばかりに討伐計画を義時に知らせてしまったのです。ただ、義村が謀反なんてとんでもないと思っていたかどうかは怪しく、日和見している間に鎌倉の結束が固い事を知り、乱に参加する約束を反故にした可能性もあります。
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鎌倉幕府に乱の首謀者と見做され追い込まれる
兄の義村を反乱に誘った事で胤義の名前は鎌倉に知れ渡り、尼将軍政子の演説にも、上皇を惑わす奸臣として藤原秀康と並んで胤義の名前が出てきます。
しかし、胤義の楽観論は大ハズレし、鎌倉軍は最初の18騎から雪だるま式に人数が増加。京都に迫る頃には19万人の大軍となり、それも22日間というスピードで京都に進軍します。
胤義は藤原秀康、山田重忠と共に17500騎を率いて美濃国で幕府軍を迎え撃ちますが大敗。さらに、京都の手前、宇治川を最終防衛ラインとして奮戦しますが、ここも数にモノを言わせた幕府軍に破られました。
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後鳥羽上皇に見捨てられ東寺で討死に
宇治川から敗走した胤義は秀康と共に最後は京都で市街戦をせんと御所に向かいますが、上皇はすでに日和っていて御所の門を閉ざして、2人を締め出しました。
そればかりか、まもなく入城してきた幕府軍に対し、「悪いのは秀康と胤義。朕は騙されただけじゃ」としれっと言い抜け、義時追討の院宣を取り下げて、逆に秀康、胤義、重忠討伐の院宣を出します。上皇に見捨てられた胤義は、秀康と共に東寺に籠城し最期まで幕府軍と戦い続けました。
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兄義村を説得するも「バカとは話しない」と一蹴
承久記慈光寺本によると、この時、東寺を攻めていたのは、胤義の兄義村でした。もう自害しようと諦めかけていた胤義は、幕府軍の中に兄の姿を見つけると近づいていきました。
「今となっては、兄上を信じた自分が恨めしい。しかし、過ぎた事を恨んでも仕方なく、このまま死んでしまおうと思っていたが、ここで思いがけなく兄上に会えた。さあ、兄上!今からでも遅くはない、共に御所に向かい上皇様の為に戦おうではないか」
しかし、義村は弟のスカウトを一笑に付します。「あ~~聞こえな~い?なーんも聞こえな~い。お前のようなバカと真面目に話してもしょうがないから、あっちに行くか」
最後の望みを絶たれた胤義は息子達を率いて西山の木嶋まで退却し、そこで自害しました。罪はそれだけにとどまらず、鎌倉に残していた息子達も、嫡男を除いては皆殺しにされたそうです。
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日本史ライターkawausoの独り言
胤義の罪がここまで重くなったのは、彼が承久の乱の首謀者とみなされたからで、その原因は兄の義村に届けた密書のせいだったのですから、胤義にとっては悔やんでも悔やみきれない痛恨のミスでした。あの時、義村に密書さえ出さなければ、一族皆殺しなんて重罪にはならなかったのにね。
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