私達が歴史教科書で習う蒙古襲来と言えば、必ずカラーで登場する挿絵、蒙古襲来絵詞が有名です。
絵巻物の右端では、主人公の御家人、竹崎季長の頭上で、てつはうが炸裂、馬が大きな物音に怯えて後ろ脚を跳ね上げ、季長も流血しつつも果敢に前面の3人の蒙古兵に弓を向けようとしています。勇壮なる鎌倉武士のイメージがダイレクトに伝わる絵詞ですが、実は蒙古襲来絵詞、当初、現在のような形ではなく江戸時代に内容が盛られたそうなのです。
3人の蒙古兵は後世に描き加えられたもの
蒙古襲来絵詞というのは絵巻物であり、本来はかなり長いものです。なので、教科書にはその一部分しか掲載されていません。掲載されている一部分というのが画面の右端に竹崎季長がいて、左端で蒙古兵3名が矢を射かけたり、投槍を構えている有名な場面なのです。
しかし、絵詞に緊迫感を与えている蒙古兵3名は、季長が描かせた時代には存在せず、江戸時代に書き加えられた可能性が高いというのです。
その証拠に、本来の蒙古襲来絵詞には、蒙古兵3名のさらに左に陣地に逃げようとしている2名の蒙古兵、盾の下に隠れて伏せている蒙古兵、距離を置いて矢を構えている蒙古兵3名などが描かれていますが、よく見ると、絵のタッチと蒙古兵の軍装が前面の3人と後方の兵士とでは随分違います。また、頭上で炸裂するてつはう(鉄炮)も竹崎季長の時代ではなく、後世に書き加えられた可能性が否定できないそうです。
巻物の構成も変えられている
蒙古兵3名が加筆されたばかりではなく、蒙古襲来絵詞自体の構成も編集されている可能性も指摘されています。
竹崎季長は文永の役の鳥飼潟の戦いで総大将少弐景資の許可を得て、主従五騎で先駆けをし、それが絵詞の有名なシーンになっているのですが、実際には当時、竹崎季長は当主ではなく、姉婿の三井三郎資長が当主であり、季長はそれに付き従う形で突撃したという説があるのです。
ですので、当初は三井三郎資長が一番手を務めて、逃げ惑う蒙古兵を弓で狙う構成だったのですが竹崎季長が著名になった為に、後世、無名の三郎資長は背後に下げ、竹崎季長が前に出るように絵巻物が再構成されたと考えられています。資長から見れば、部下の竹崎季長に一番駆けの手柄を奪われてしまった形になってしまいますから、皮肉なものですね。
再編集が鎌倉武士一騎打ちマストの誤解を生んだ?
また、素直に三井三郎資長を先頭にした本来の鎌倉武士の戦法を見ると、一騎打ちではなく、それぞれの騎兵が馬上から矢を射かけて、巻き狩りのように蒙古兵を追い込んでいく戦い方が浮かび上がります。
これにより従来言われていた鎌倉武士は、一々、名乗りを挙げて個人戦で蒙古兵に向かうが、蒙古兵はそれを嘲笑い、集団戦法で矢を射かけて鎌倉武士を倒した。というような話が一面的であり、実際には鎌倉武士もある程度集団になり、矢で敵を追い込んで戦う集団戦法を取っていたというのが分かります。
そもそも、当時の騎兵のマストアイテムは弓で、馬上から敵を射る事が多かったので、一騎打ちはあまりそぐわない戦い方ではあります。むしろ、江戸時代に絵詞が編集されて、竹崎季長が一騎で蒙古兵3名に立ち向かう姿が強調された事で、鎌倉武士=一騎打ちマストという誤解が広まったのかも知れません。
蒙古が弱くては困る!という思惑
では、どうして蒙古襲来絵詞が盛られ、内容にも編集が加えられてしまったのでしょうか?答えは、蒙古襲来絵が現在の形になった寛政年間にあると思われます。
寛政とは、1789年から1800年までの12年間ですが、その間には伊能忠敬が蝦夷地を測量したという事実に象徴されるように、寛政元年にはロシアのラクスマンが江戸幕府に通商を求めて来航しています。
ロシアという北の脅威に対し、幕府は否応なしに対応を迫られる事になり、それと同時に、かつて日本に攻めて来た元の脅威を跳ね返した鎌倉武士への関心も高まってきたのでしょう。
その象徴的な絵巻物が蒙古襲来絵詞ですが内容を見てみると、確かに鎌倉武士は勝っているものの、一方的な勝ち方であり、特に蒙古兵が覇気に乏しい。
それでは困るので、有名な竹崎季長をメインに持ってきて、存在しなかった勇猛な蒙古兵3名を描き込んで加え、奮闘して蒙古を追い払った強き武士を演出したかったのではないかとkawausoは思います。
日本史ライターkawausoの独り言
鎌倉武士が強き人々であった事に間違いはありません。竹崎季長も、我々が突撃すると蒙古兵は慌てふためき逃げていきましたと説明したくて、蒙古襲来絵詞を描かせたのでしょう。
しかし、一方的に鎌倉武士が勝っている話は、蒙古がひたすら弱く見えるので面白くありません。ましてや、ロシア南下の脅威を受けて士気を鼓舞する材料とするには、弱すぎる蒙古兵と眼前の強いロシアはマッチしないのです。
そこで、蒙古兵を強く盛る必要が生まれ、今日の蒙古襲来絵詞が誕生したのではないかとkawausoは思います。
一部参照:橋本雄2018「蒙古襲来絵詞を読みとく:二つの奥書の検討を中心に」『SGRAレポート』82号
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