「逃げ上手の若君」で主人公時行に意地悪をする敵役。小笠原貞宗。彼こそが室町幕府成立の裏で暗躍した戦略家だった!弓の腕前とギョロ目だけではない知略と武勇を兼ね備え裏切りを繰り返しながら乱世を泳いだ貞宗の活躍をアニメさながらの迫力で解説します。
この記事の目次
- 小笠原貞宗とはどんな人物か
- 信濃の守護としての業績
- 弓の名手としての逸話
- 視力とその伝説
- 小笠原貞宗の家族と子孫
- 家系図と家紋
- 子孫とその現在
- 『逃げ上手の若君』での小笠原貞宗
- キャラクター設定と役割
- タメ口キャラとしての特徴
- 声優について
- 小笠原流礼法と貞宗
- 武士道と礼儀作法
- 弓と正座の伝統
- 小笠原貞宗の評価と人気
- かわいいと評される理由
- かっこいいキャラクターとしての側面
- 小笠原貞宗何をした?
- 小笠原貞宗は実在する人物ですか?
- 小笠原貞宗の実在を証明する
- 小笠原家のルーツは?
- 信濃の守護は貞宗ですか?
- 小笠原氏の先祖の身分は?
- 小笠原貞宗の視力はどのくらいですか?
- 逃げ若の小笠原貞宗の声優は誰ですか?
- 南北朝時代最強の武将は誰ですか?
- kawauso編集長の独り言
小笠原貞宗とはどんな人物か
小笠原貞宗は、鎌倉時代末から南北朝期の人物で下克上と裏切りを繰り返し成り上がった武将です。貞宗は元々、鎌倉幕府に仕え後醍醐天皇に敵対し楠木正成を千早城に攻めたり、北条高時の命令で京都に出兵して六波羅探題を守っていました。
ところが、鎌倉幕府の有力御家人である足利尊氏が後醍醐天皇に味方して幕府を裏切ると貞宗は尊氏に味方し、中先代の乱では北条時行と激戦を繰り広げました。貞宗は、南朝・北朝というより尊氏のカリスマに心酔して仕え功績により信濃守護に就任。貞宗の子孫は明治維新後まで継続しています。一方で貞宗は小笠原流弓術の中興の祖で、武士の礼儀作法の確立にも貢献しました。
信濃の守護としての業績
小笠原貞宗は足利尊氏にしたがって活躍し信濃守護に任じられ、 建武2年(1335年)には安曇郡住吉荘を与えられるなど、次第に筑摩と安曇に勢力を伸ばします。そして国府に対抗し守護の基盤を固めるべく本拠地を松尾(飯田)から国府のある府中(松本)に移動し井川城を築きました。やがて守護は守護大名として朝廷に任命された国司の力を凌駕するようになりますが、貞宗はその風潮を先取りしていたとも考えられます。
弓の名手としての逸話
小笠原貞宗の具体的な弓の腕前についての逸話は不明ですが、後醍醐天皇より「小笠原は武士の定式なり」との直筆の書状と「王」の字を家紋に加える事を許されたそうなので、非凡な才能だったのでしょう。貞宗は弓の稽古として犬追物を復活させると共に、晩年には、今川氏、伊勢氏、小笠原氏の三家の武家礼節の書「三義一統」を書いています。
視力とその伝説
小笠原貞宗は視力が良く、足利尊氏が手にしたノミの雌雄を遠くから言いあてる程であり、同時に相手の僅かな動きの変化や隙を見逃さない観察眼の鋭さを持ち合わせています。ただし、これは逃げ上手の若君の逸話であり、史実の小笠原貞宗の視力についての具体的な伝説はありません。
小笠原貞宗の家族と子孫
小笠原貞宗には、小笠原政長、小笠原宗政、坂西宗満、坂西政経という4人の息子がいたようですが、ハッキリと経歴が分るのは政長だけです。政長は父の貞宗と共に北朝に味方し、貞宗の死後は信濃守護を継承しました。しかし、観応の擾乱で足利直義側に攻め込まれて追い詰められると屋敷を焼き払い一時直義に降伏します。そのため、怒った尊氏は政長の信濃守護を剥奪しますが、信濃の安定のためには政長の力が必要だと思い直し政長を味方に引き込んで、再び信濃守護を与えています。
家系図と家紋
小笠原氏は、清和源氏の流れを汲む八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光を祖とする甲斐源氏の嫡流です。
小笠原氏の太祖である小笠原長清は、源頼朝に仕えて源平合戦にも参加しました。甲斐を拠点としていた小笠原氏が信濃にやってきたのは、1285年、霜月騒動の後で、信濃の佐久に地盤を持っていた御家人、伴野氏が霜月騒動に関与し佐久の領地を没収され、代わりに小笠原長氏が佐久郡を与えられたからでした。この長氏の孫が小笠原貞宗です。小笠原氏の家紋は菱形を3つ重ねたモノを図案化した三階菱ですが、貞宗は弓の腕前を後醍醐天皇に褒められ、特別に三階菱に王の字を加える事を許可されたそうです。
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子孫とその現在
小笠原氏は貞宗の死後、曾孫の政康の時代に後継者争いが起こり、鈴岡小笠原、松尾小笠原、府中小笠原に分裂しますが、戦国時代に府中小笠原氏の小笠原長棟が三家を統一します。しかし、長棟の子、長時の時代に勢力を伸ばした甲斐の武田晴信により長時は追放されました。
それでも小笠原氏は諦めず、徳川家に仕えた小笠原秀政が関ケ原の戦いの後で、信濃国飯田に5万石で入国して小笠原氏を再興します。江戸時代には小笠原氏は四家の譜代大名を出し、明治維新後には、小笠原伯爵家、安志小笠原子爵家、千束小笠原子爵家、唐津小笠原子爵家がそれぞれ爵位を得て華族になりました。戦後については定かではありませんが、小笠原伯爵家の4代目小笠原長統が戦後、廃れていた小笠原流礼法を復活すべく熱心に全国を講演。現在は長統の姪にあたる小笠原敬承斎という人が小笠原流礼法を受け継いで普及活動をしているそうです。
『逃げ上手の若君』での小笠原貞宗
逃げ上手の若君での小笠原貞宗は、主人公である北条時行の敵である関係から足利尊氏のような上司にはペコペコする一方で、領土を巡って利害が対立する諏訪頼重や北条時行には慇懃無礼で傲岸不遜な態度を取る嫌なキャラとされています。その容姿も独特で目が飛び出す程に大きく、涙以外に目から胃液も流すキワモノキャラとして描かれています。
キャラクター設定と役割
特異な容貌を持つ「逃げ上手の若君」における小笠原貞宗ですが、一方で無駄に暴力を振るう事については戒め、領民を搾取する事にも反対しています。また、命のやり取りをする相手には敬意を払えと言い、敵であっても立ち向かってくる相手には全力で挑む事を信条としていました。主人公の時行に対しても素性の知れない怪しい奴だとは思いながら、自身の弓術の技術を惜しみなく教えて、時行を成長させる師匠の役割も担っています。
タメ口キャラとしての特徴
アニメの小笠原貞宗は小笠原流弓術の中興の祖なので、礼儀作法には何かとうるさい人物です。特に部下がタメ口を叩いてくると表面上は何ともないように見えますが、内心では激しく動揺します。このあたりは顔は規格外ですが、内面は常識人である貞宗の特徴を上手く漫画に活かしているのかも知れません。
声優について
アニメで小笠原貞宗を演じるのは声優の青山穣さんです。愛知県出身で代表作には、「かぐや様は告らせたい~天才たちの恋愛頭脳戦~」のナレーションや「NARUTO -ナルト- 疾風伝」のサソリ役、英國戀物語エマ では、ヴィルヘルム・メルダース等、数々の人気キャラクターを演じています。
小笠原流礼法と貞宗
小笠原流弓馬術礼法は、初代の小笠原長清から始まります。長清は26歳の時に、源頼朝の弓馬の師匠となりました。
小笠原流弓術は長清の長男の長経が伝承し、源実朝の弓馬の師匠を勤めました。長経には長男の長忠と次男の清経がいて、小笠原流弓術は長忠が継承し、長忠が小笠原氏の惣領となります。また、次男の清経の子孫も長忠家の人達と一緒に鎌倉幕府に仕え極めて近い間柄として両家一体となって行動していました。特に長忠家7代の小笠原貞宗と清経家第7代の小笠原常興は共に後醍醐天皇に仕え、その中で武家の定まった方式として「修身論」と「体用論」をまとめました。これが小笠原弓馬術礼法の基本となっています。貞宗の功績は分離していた小笠原弓馬礼法をまとめて編纂、体系化し、分かりやすくしたことにあると言えます。
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武士道と礼儀作法
武士道と礼儀作法は深く結びついています。その背景には武士が平安時代末から貴族の番犬ではなく、政治の実権を握る支配者階級に昇格した事があります。武士は下の身分の人間を指導する役割を負う事になり、侮りを受けないために武芸のみならず、人格的にも優れた存在になる事が要求されました。
礼儀作法は人格形成の基礎となり、武士に求められる品格や振る舞いを身につけるための手段だったのです。また、武士は誇り高く、名誉を傷つけられると躊躇わずに刀を抜くので、相手に敬意を払って尊重し、誇りを傷つけないようにする必要がありました。その為には、乱暴な言葉遣いを戒め、誰に対しても丁寧な言葉を使い、礼節を重んじる事が尊ばれたのです。
弓と正座の伝統
小笠原流礼法には正座が含まれています。元々日本には正座という座り方は存在しませんでしたが、禅宗の影響で中国から入ってきたようです。しかし、小笠原流の正座は私たちが一般的におこなう正座とは違い、足の爪先は床につけず爪先を垂直に立てて座ります。
爪先を床につけないのは、煙が立ち上るようにスッと立つのが難しいからのようです。また、立ち上がる時も同時に両足を浮かせるのではなく、片足の爪先を浮かせてスッと立ち上がり、その後でもう片方の足を引き寄せて立ちます。勢いをつけて立ち上がったり、片手を床について立つと姿勢が崩れて美しくないという考えによるものです。こうして考えると、小笠原流の正座は、足が痺れる事もなく臨機応変に動ける事が分かります。
小笠原貞宗の評価と人気
逃げ上手の若君での小笠原貞宗は、弓の名手として登場しますが、足利尊氏のような上司にはペコペコする一方で、領土を巡って利害が対立する諏訪頼重や北条時行には傲岸不遜な態度を取る嫌なキャラとされています。その容姿も目が飛び出す程に大きく、涙以外に目から胃液も流すキワモノキャラとして描かれます。一方で、貞宗は無駄に暴力を振るう事については戒め、領民を搾取する事にも反対し、命のやり取りをする相手には敬意を払えと言い、立ち向かってくる相手には全力で挑む事を信条としていました。
主人公の時行に対しても素性の知れない怪しい奴だとは思いながら、自身の弓術の技術を惜しみなく教えて、時行を成長させる師匠の役割も担っています。そのため、当初は人気がなく評価も低かったものの、次第にギャップのあるキャラクターが支持されるようになり人気も出てきました。
かわいいと評される理由
小笠原貞宗がかわいいと評される理由は、ギョロ目で強面の人物なのに、意外に部下のタメ口に内心動揺するなど、精神的に小心な部分がある点や敵の強さを見誤り、窮地に陥って大慌てした後に落ち着きを取り戻して劣勢を挽回するなど、感情の振れ幅が大きい点があるかも知れません。
かっこいいキャラクターとしての側面
小笠原貞宗は弓の腕前が一流であるだけではなく、その大きな目で少しの違和感から敵兵が配置されている事を察知したり、部下の失敗に対しても首にするのではなく、どこが悪かったかを説明して挽回するように促すなど、味方に対しては情に厚い点が挙げられます。また、貞宗は主人公の北条時行とは敵同士ですが、感情的に憎んでいるのではなく、仕えている主君が違うから戦うだけで、時行の成長には満足そうな顔も浮かべていました。このように懐が深いキャラクターが読者にはカッコイイと判断されている所以でしょう。
小笠原貞宗何をした?
小笠原貞宗は、鎌倉時代末から南北朝期の武将です。元は鎌倉幕府に忠誠を尽くす御家人で、後醍醐天皇の倒幕運動に対しても鎮圧する側でしたが、鎌倉幕府の有力御家人である足利尊氏が後醍醐天皇に寝返ると貞宗も尊氏に呼応して幕府に背きました。その後、小笠原貞宗は信濃守護となりますが、鎌倉幕府に忠誠を誓う立場だった諏訪頼重と信濃支配を巡り対立します。頼重は鎌倉幕府14代執権、北条高時の遺児、北条時行を匿っており、1335年に時行を総大将として中先代の乱を起こします。この時、小笠原貞宗は信濃国司を殺害されるなどして乱を鎮圧できず、時行は一時的に鎌倉奪還を成功させました。また、貞宗は江戸時代に武家の教養として定着した小笠原流礼法の中興の祖でもあります。
小笠原貞宗は実在する人物ですか?
小笠原貞宗は実在の人物です。第一には、小笠原貞宗自身が書いた武家の礼節の書である「三義一統」が存在し、客観的な史料としても「小笠原文書」の中に足利尊氏が小笠原貞宗について記した部分があります。また、太平記にも京都に上洛した鎌倉幕府の御家人の中に小笠原彦五郎として名前が登場するほか、新田義貞に従い楠木正成の籠る赤坂城を攻めた事が「光明寺残篇」という古いお寺の史料に残っています。これらを見ると小笠原貞宗が実在する事は疑いありません。
小笠原貞宗の実在を証明する
小笠原貞宗の実在を証明する史料は、貞宗自身が記した著書である「三義一統」や信濃守護だった小笠原氏に関する古文書を集めた「小笠原文書」さらには軍記物である太平記や、小笠原貞宗が新田義貞に従い赤坂城の楠木正成を攻めた事を記した「光明寺残篇」にも出てきます。これらの文書は書いた人も場所も社会的な地位もバラバラであり、1人の人が作為的に編纂したモノではないので、小笠原貞宗が実在する事は疑いようがありません。
小笠原家のルーツは?
小笠原家は清和源氏の流れを汲む八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光を祖とする甲斐源氏嫡流の名門です。初代小笠原長清は平安時代末に源頼朝に仕えた御家人でした。当初、甲斐を拠点としていた小笠原氏が信濃にやってきたのは、1285年霜月騒動で信濃の佐久に地盤を持っていた御家人伴野氏が霜月騒動に関与し佐久の領地を没収され、小笠原長氏が佐久郡を与えられて信濃に赴任したからです。この長氏の孫が小笠原貞宗です。
信濃の守護は貞宗ですか?
信濃の守護は小笠原貞宗です。小笠原貞宗の前の信濃守護は北条氏普恩寺流の北条仲時で、貞宗も仲時に従い、後醍醐天皇の側についた楠木正成討伐に従軍しています。しかし、幕府御家人の足利尊氏が後醍醐天皇に寝返ったタイミングで貞宗も寝返り、鎌倉幕府が倒れた時に恩賞として信濃守護の地位を得ました。
小笠原氏の先祖の身分は?
小笠原氏の先祖は、前九年の役や後三年の役で有名な源義家の弟、新羅三郎義光とされます。小笠原氏の初代にあたる小笠原長清は、鎌倉幕府初代将軍、源頼朝の弓馬の師匠でしたが、特にどこかの国の守護に任命される事もなく、身分としては一般の御家人と変わらない状態でしたが、長清の孫である小笠原長房が、西暦1221年の承久の乱で手柄を立てて阿波国守護となっているので、この頃から一般の御家人から抜け出したようです。
小笠原貞宗の視力はどのくらいですか?
当時には視力検査も存在しないので数値化した視力を知るのは不可能です。ただ、貞宗は弓の腕前では天下一と後醍醐天皇が認めているほどなので、視力はかなり高いと考えられます。
逃げ若の小笠原貞宗の声優は誰ですか?
アニメ「逃げ若」で小笠原貞宗を担当するのは青山穣さんです。彼は「かぐや様は告らせたい~天才たちの恋愛頭脳戦~」のナレーションや、「NARUTO -ナルト- 疾風伝」のサソリ役、また「英國戀物語エマ」のヴィルヘルム・メルダースなど、数多くの人気キャラクターで声を当てています。
南北朝時代最強の武将は誰ですか?
南北朝時代最強の武将としては、足利尊氏の右腕として活躍した高師直がいます。古来、師直は天皇への忠誠心もなく人妻に手を出すような大悪人とされていましたが、合戦では南朝の名将である北畠顕家や楠木正行等を次々に打ち倒し、恩賞制度の改革をして、尊氏の出した命令が下位の武士まで徹底される仕組みを造り、御家人たちの支持を集めた事が明らかになっています。師直は戦争に強いだけではなく行政手腕も巧みだった事になり、最後に足利直義に敗れて斬首される事さえなければ、南北朝時代最強武将とされて異論のない人物でしょう。
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今回は信濃国守護で、天下一の弓の名手、そして武家の教養ともなった小笠原流礼法中興の祖である小笠原貞宗を、様々な角度から解説しました。
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