鎌倉幕府の将軍は源実朝で終わりではなかったってホント?摂家将軍、宮将軍を解説

25/08/2022


京都御所

 

鎌倉幕府の将軍と言えば、頼朝(よりとも)頼家(よりいえ)実朝(さねとも)の三代で絶えたという説明がよくされます。しかし、これは頼朝直系子孫(ちょっけいしそん)の将軍は三代で終わったという意味であり、鎌倉幕府将軍が三代で終ったという意味ではありません。

 

そこで今回は、マイナーな実朝以後の鎌倉幕府将軍を紹介します。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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切っ掛けは子供がいない実朝

源実朝

 

3代将軍実朝が(おい)公暁(こうぎょう)に殺された後、鎌倉幕府は藤原摂関家から4代将軍を迎えます。

 

しかし、実際は新しい将軍を京都から迎える計画は実朝が生きている頃からありました。それというのも実朝は結婚しても子に恵まれない上、病気がちな人で将来が不安視されていたからです。

 

北条政子による「承久の乱」の名演説

 

そのため、北条政子は後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)乳母(うば)と連絡を取り、上皇の皇子(みこ)を実朝の養子に迎えて公武合体(こうぶがったい)で鎌倉幕府の安定を目指していました。後鳥羽上皇は源氏の貴種(きしゅ)である実朝に好感を持っていて鎌倉に皇子を送る事にも前向きだったようです。

 

ところが、実朝が公暁に殺害された事で状況は一変しました。後鳥羽上皇は、鎌倉のような危険な所に皇子はやれないと政子の申し出を断ったのです。

 

軍議(日本史)モブb

 

鎌倉では宿老(しゅくろう)連署(れんしょ)を出して皇子を()いましたが無駄でした。

 

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はじめての平安時代

 

 

北条政子は坊門姫の曾孫三寅を将軍とする

ゴッドマザー北条政子

 

現実主義者の政子は、いつまでも天皇の皇子に恋々(れんれん)とはしません。天皇がダメなら次に尊い血を持つ藤原摂関家(ふじわらせっかんけ)ではどうだろうと方針転換します。

 

そこで白羽の矢が立ったのが関白九条道家の子で僅か2歳の三寅(みとら)でした。どうして三寅が後継者に適任とされたのか?第一には三寅の曾祖母(そうそぼ)坊門姫(ぼうもんひめ)と言い、源頼朝の妹にあたる女性だからです。

 

坊門姫系図

 

かなり薄いものの三寅は頼朝の血を引いていて、鎌倉幕府将軍の資格があると見なされました。そして現実的な理由として三寅が2歳と幼い事があります。鎌倉幕府としては、将軍は居てくれるだけのお飾りである方が都合よいのです。

 

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はじめての鎌倉時代

 

 

義朝と頼朝の血筋を粛清する政子

比企一族を全て滅ぼす北条政子

 

摂家将軍を迎える事に舵を切ると、政子は今後の反乱の火種を断つために、義朝と頼朝の家系の男子を殺害するか仏門に入れるかの非情な措置を取ります。

 

動物の行動まで神のお告げと考えてお祓いをしていた阿野全成

 

この時、ラブリー和尚阿野全成(おしょう・あのぜんじょう)の4男で阿波局(あわのつぼね)との間に生まれた阿野時元(あのときもと)謀反(むほん)の嫌疑を着せられ、善児(ぜんじ)のモデルとされる金窪行親(かなくぼゆきちか)の率いる軍勢に討たれています。

 

中村主水のような殺し方を得意とした善児

 

無残といえば無残ですが、そうしないと反乱は続出したでしょうから、やむを得ない所でしょう。

 

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源頼朝

 

 

はよ将軍を立てろや!後鳥羽上皇ブチ切れ

後鳥羽上皇

 

鎌倉に迎えられた三寅ですが、すぐに将軍に就任したわけではありません。三寅は政子の保護下にあり政治は尼将軍政子と北条義時が動かしていました。

 

2代目執権に就任する北条義時

 

これに対し、京都では後鳥羽上皇が不快感と怒りを露わにします。幕府が「三寅を4代将軍にして下さい」と使者を送るかと思えば将軍空位のまま、北条氏の専制が続いていたからです。

 

討死する坂東武士(モブ)

 

鎌倉が朝廷のコントロールから離れようとしていると不安になった後鳥羽上皇は、北条義時を討伐すべしと詔勅を出して兵を挙げます。これが承久の乱ですが全国の御家人は北条氏に味方し上皇は敗れて流罪となりました。

 

承久の乱の目的は義時にヤキを入れる事だった?

軍旗
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源義経

 

 

摂家将軍、藤原頼経・頼嗣父子が鎌倉を追われる

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

三寅は鎌倉に来てから6年後の嘉禄(かろく)元年(1225年)に8歳で元服し、翌年9歳で将軍宣下(しょうぐんせんげ)を受けて、鎌倉幕府4代将軍藤原頼経(ふじわらのよりつね)と名乗ります。

 

ゴッドマザー北条政子、病没

 

前年にはゴッドマザー北条政子や幕府重鎮、大江広元(おおえのひろもと)が死んでいましたが、幕府権力は北条時房(ほうじょうときふさ)北条泰時(ほうじょうやすとき)が継承していて、頼経に出番はありません。

 

しかし、2歳から鎌倉にいて30年も経過する頃には、頼経は上洛を済ませて官位は権大納言(ごんだいなごん)に上昇、従四位(じゅしい)どまりの執権北条氏と大きな格差がつきます。

 

朝まで三国志201 観客2 モブでブーイング

 

こうして頼経には北条得宗家に不満を持つ反主流派が集まり始めます。その筆頭には北条義時の正室の次男ながら政権を義時の庶長子泰時に奪われた北条朝時(ほうじょうともとき)がいました。

 

もちろん、この動きを4代執権北条経時(ほうじょうつねとき)が見逃すわけはなく寛元2年(1244年)頼経は、強制的に将軍職を息子の頼嗣(よりつぐ)に譲らされ隠居に追い込まれます。その後も大殿として鎌倉に留まった頼経ですが反得宗家勢力との関係は続き、寛元4年(1246年)に5代執権、北条時頼(ほうじょうときより)によって京都に強制送還されました。

 

この後も、鎌倉幕府のナンバー2、三浦泰村(みうらやすむら)光村(みつむら)兄弟が頼経を鎌倉に呼び戻そうと画策して宝治合戦(ほうじがっせん)に敗北。無関係の5代将軍、藤原頼嗣(ふじわらよりつぐ)も将軍を廃されて京都に強制送還されます。

 

公家同士の会議(モブ)

 

幕府では、摂家将軍の野心が強くて困るとして、改めて天皇から皇子を頂いて将軍に就ける事が決定。建長4年(1252年)4月、後嵯峨天皇(ごさがてんのう)の第1皇子、宗尊親王(むねはるしんのう)異母弟(いぼてい)である後深草天皇(ごふかくさてんのう)により将軍宣下を受け6代将軍に就任します。

 

こうして宮将軍は宗尊親王から9代守邦親王まで続き鎌倉幕府の終焉で終わりました。

 

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北条義時

 

 

4代の宮将軍を解説

親王将軍系図

 

 

以後は、宮将軍について分かりやすくまとめます。

 

6代宗尊親王 後嵯峨天皇の事実上の長子。

生母の身分の関係で天皇にはなれなかった。

建長4年(1252年)11歳で鎌倉に迎えられ異母弟の後深草天皇より将軍宣下を受けて6代将軍に就任。

すでに北条得宗家の専制が完成していたので政治的な力はなく、和歌の道に打ち込んで鎌倉武士の中から多くの歌人を生み出した。文永3年(1266年)25歳の時に正室の近衛宰子(このえさいこ)と僧良基(りょうき)の密通事件を口実に謀反の嫌疑をかけられ鎌倉から追放。

7代惟康親王(これやすしんのう) 宗尊親王の嫡男として相模国鎌倉に誕生。

文永3年(1266年)7月に、父の宗尊親王が廃され3歳で征夷大将軍に就任。当初、親王宣下がなされず惟康王と呼ばれ臣籍降下(しんせきこうか)して源姓を賜り源惟康(みなもとのこれやす)を名乗る。源実朝以来の源氏将軍復活だが、背景には蒙古襲来の危機を受けて源氏将軍を復活させ御家人全体を結束させたいと考える執権北条時宗(しっけんほうじょうときむね)の考えがあったとされる。

蒙古の脅威が落ち着くと、九代執権北条貞時が長期在位する源惟康を嫌い、弘安10年(1287年)には後宇多天皇(ご・うだてんのう)により親王宣下を受け宮将軍に回帰。正応2年(1289年)26歳で将軍職を解かれ京都に追放された。

8代久明親王(ひさあきらしんのう) 後深草天皇の第六皇子。正応2年(1289年)9月従兄にあたる前将軍、維康親王が京都に戻され13才で征夷大将軍に就任。

鎌倉では九代執権、北条貞時が実権を握り久明親王は鎌倉歌壇の中心人物として和歌の道に生きた。

永仁元年(1295年)に維康親王の娘を正室に迎え、正安3年(1301年)5月、最後の鎌倉幕府将軍となる守邦親王が誕生。延慶元年(1308年)8月、執権貞時により将軍職を解かれ京都に送還。8歳の長子守邦親王が征夷大将軍に就任。

 

9代守邦親王(もりくにしんのう) 延慶元年(1308年)8月、8歳で征夷大将軍に就任。

政治的な影響力はほとんどなく、文保元年(1317年)4月に内裏造営(だいりぞうえい)の功績で二品(にほん)に昇叙された事が分かる程度だった。

元弘3年(1333年)後醍醐天皇(ご・だいごてんのう)による倒幕運動が起きるが、その対象は北条高時(ほうじょうたかとき)で、守邦親王は鎌倉幕府の長としての立場も無視されるほどに影響力がなかった。

鎌倉幕府が足利義詮や新田義貞の攻撃で滅んで、北条得宗家が軒並み自害した時も守邦親王は出家して3ケ月後に薨去したとしか伝わっていない。守邦親王は親王の地位を持ちながら生涯一度も京都に足を踏み入れず鎌倉の将軍として生きた。

 

このように宮将軍は摂家将軍の反省から、ある程度成長して政治を執れるようになると難癖(なんくせ)をつけて京都に送り返し、幼少の息子に将軍を継がせるか朝廷から新しい幼い親王を迎えるかで交替が繰り返され、政治的影響力は皆無でした。

 

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鎌倉殿の13人

 

 

日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

今回は3代将軍実朝以後も継続した鎌倉幕府の征夷大将軍を解説しました。実際には実朝暗殺後も、2代の摂家将軍、4代の宮将軍の合計6人の征夷大将軍が誕生し、100年以上も継続した事が分かります。

 

これは鎌倉幕府の基盤がまだ脆弱で、単独で政権を運営するのは難しい状態にあった事を意味しています。ただ宮将軍の構想はその後も残り、徳川4代将軍家綱(いえつな)が子供のないまま死去した時には、天皇の皇子を迎え5代将軍にする計画もあったそうですが、幕閣に反対が多く、結局は実現しませんでした。

 

参考文献:吾妻鏡 Wikipedia、その他

 

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