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20歳で死んだ大姫の死因を考察、衰弱死以外にも父頼朝へ抗議しての憤死の可能性も

15/12/2022


 

コメントできるようになりました 織田信長

 

6歳で源義高と縁組される大姫(女性)

 

源頼朝と北条政子の娘・大姫。大河ドラマ、鎌倉殿の13人でも当然のように登場し、そして哀しいことに当然のことのように悲劇が襲い掛かっていく彼女ですが……既にかなり痛々しい状態に追い込まれている大姫様。

 

そんな彼女はこれからどうなるのか、そういう意味を込めまして今回は大姫の死因についてお話をしたいと思います。やや妄想、想像の余地が多くなるかと思いますが、どうぞよろしくお願いします。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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政略結婚だった大姫と義高

木曽義高を慕い仲が良かった大姫(女性)

 

大姫は、木曾義仲の息子である木曾義高と許嫁になりました。これが1183年のことです。これは当時、木曾義仲と大姫の父親である源頼朝の関係が、配慮した言い方をするならば「よろしくなかった」からです。

 

戦を回避するために義高人質に差し出す木曾義仲

 

ぶっちゃけて言いますと木曾義高は送られてきた人質であり、この二人の関係はいずれ政略結婚をするような関係であったと思われます。

 

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義高を慕っていた大姫だが義高は父頼朝に殺される

源義経 vs 木曽義仲

 

しかし、結果から言うと木曾義仲と源頼朝の関係は改善されることはなく、翌年には両者はぶつかり、戦いになります。

 

敗走中に顔に矢を射られ討死した木曽義仲

 

そして木曾義仲は討ち取られる訳ですが、そうなると最早、木曾義高という存在は源頼朝にとって邪魔でしかありませんでした。

 

木曽義高を変装させ脱出させた大姫(女性)

 

悲劇の始まりとして、大姫と義高の関係は良好であったとされ、義高は周囲の手引きで逃がされます。ですが結局義高もまた討ち取られ、大姫の心には深い傷が刻まれることとなったのです。

 

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水も飲めないほど衰弱し心に傷を負う大姫

源頼朝と北条政子の長女、大姫(女性)

 

この時、大姫はまだ七歳でした。しかし愛する人を失った、奪われた悲しみに年齢は関係なかったのです。吾妻鏡によると、義高の死を知った大姫は哀しみのあまりに卒倒。

 

木曽義高死去を知り病に臥す大姫(女性)

 

その後は食事も、水すらも取れなくなり、衰弱してしまったとされています。愛娘の悲痛な姿に母親である政子は怒り、義高を討ち取った藤内光澄は後に処刑されました。だからと言って、大姫の心が晴れることはないのですが。

 

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20歳で亡くなった大姫

生涯、木曽義高を想い20歳で死去した大姫(女性)

 

その後、幼いながらに想いを捧げた婚約者、それを失って尚、大姫は生き続けなければなりませんでした。何と言っても鎌倉殿の娘、更には時代もあるために結婚話は上がりますが、色々な理由からこれらは白紙化しています。

 

そして1197年、大姫の状態は快癒することなく、大姫はこの世を去りました。この時、まだ20歳。若くして大姫は、この世を去ることとなったのです。

 

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大姫の死因は何なのか?未だ分かっていない

十数年以上も木曽義高を想う傷ついた大姫(女性)

 

さて、大姫の状態は快癒することなく、とは書きましたが。大姫の死因について、実は明確なことは分かっていません。歴史には、大姫の死ぬ前後の細やかなことは記載されてはいないからです。

 

逆に言いますと、歴史を取り扱った創作関連では不謹慎ながら、筆の見せ所となる場面かもしれませんね。とは言え、こうではないか、と思われる死因はいくつかありますので、主に二つを述べさせて頂きましょう。

 

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大姫の死因は衰弱死、病死の可能性が高い

純愛を貫いて死んだ大姫(女性)

 

まず一番良く言われている大姫の死因が、病死です。吾妻鏡によると、源頼朝は大姫を帝の妻としようとしていました。その下準備としてか、1195年に北条政子、そして大姫たちは上洛します。

 

この時の大姫の状態は、落ち着いていたものと思われます。しかし結婚話が持ち上がったことから悪化、もしくはそもそもこの時期に落ち着いていたというだけで、大姫の体調は後に悪化、1197年に再び……というのは、考えられないことではありません。1184年から心を患っていたと考えると、長く体の方にも影響があった末での衰弱、とも考えられるでしょう。

 

はじめての鎌倉時代

 

 

父・頼朝への抗議を込めた「自殺」である可能性…

大姫 女性 鎌倉

 

さて、もう一つ考えられるのが、自死、もしくは憤死です。実は大姫は1194年、入内の話よりも前に一条能保の息子との縁談話が挙がりました。しかしこの時に大姫はこれを激しく拒絶、入水すると言って抵抗した、結果としてこの話はなかったことに、という話が吾妻鏡にはあるのです。

 

これを考えると、自死の線……もっと言うと、再び縁談を持ってきた父親、源頼朝の自分への仕打ちに怒り、そして嘗て愛する人を奪われた恨みを込めての自殺……という流れもあるのではないでしょうか。

 

はっきりとは分からない、大姫の死因。大河ドラマではどうなるのか、ドキドキしてしまいますね。

 

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はじめての平安時代

 

 

鎌倉ひよこライター センのひとりごと

日本史ライター セン

 

まあ大姫が源頼朝が義高を討ったことで死期を早めた、というならば、大姫の死因はズバリ「父親」となってしまうのですが……それはまあ置いといて。

 

そして大河ドラマの話に飛んでしまいますが、あちらの方では憤死が有り得るのではないか、と思っています。大姫もまた女性としての覚悟を決め、愛する人に殉じてしまうのでは……と心配になりますね。そういう意味では全く目が離せない、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。

 

この先からも目が離せません。ちゃぽーん。

 

参考:吾妻鏡

 

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自己紹介:日本史はあちらこちら、面白そう!と思った所を色々と見ていくのが大好き。どこも面白くて目移りしてしまいますが、特に戦国時代が大好物。様々な勉強ポイント……よりも、ちょっとクスっとしてしまうような小話を交えつつ、皆さんと沼にハマっていきたいと思います、どぼーん。 好きな歴史人物:織田信長 斎藤道三

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