鎌倉幕府3代将軍、源実朝は宋人の陳和卿に命じて大型の宋船を建造させます。実朝が唐船を建造した目的は、北条氏の台頭が著しい鎌倉に嫌気がさしたとか実朝の前世が福建省の医王山の長老であると陳和卿に吹きこまれたとか色々あります。
しかし、実際には、そんな私的な理由ではなく実朝は日宋貿易を意識していたのかも知れません。
日本と海外の玄関口は博多
鎌倉時代、日本の海外との玄関口は九州の博多でした。では、関東の鎌倉は無関係か?というとそうではありません。13世紀、宋と日本の民間交流はかなり盛んで宋船の往来も盛んでした。
北条泰時が築いた人工島「和賀江島」
鎌倉でも北条泰時が和賀江島という人口島を築いて、ここに大型船を停泊させるなどしています。しかし、やってくる宋船を待つというのは、相手が吹っ掛けてくる金額を支払うという事です。
宋の文物は珍重され、どこでも引っ張りだこですから値切るような事をすれば、他所に持っていかれるだけでした。もし、鎌倉から自前の船を出せれば、宋の文物を直接仕入れて日本で高く売り、より利益が出せるに違いない実朝は、こう考えて将軍の威信をかけて陳和卿に宋船を建造させたようです。
こちらもCHECK
-
北条泰時は後継者ではなかった!じゃあ誰が義時の後継者なの?【鎌倉殿の13人】
続きを見る
円覚寺に祀られている仏舎利
実朝は宋の能仁寺から仏舎利を請来しそれは円覚寺に祀られています。当時、貿易は寺がおこなうものだったので、仏舎利を縁にして唐物や人材交流を考えていたのかも知れません。当初、実朝の宋船建造に反対していた北条義時や大江広元ですが、船が出来るに至ると考えを変えて支援するようになります。
こうして、見事に船は出来たのですが、思わぬアクシデントが最期に待っていました。当時、由比ヶ浜は砂浜ではなく浦でした。しかし、後に砂浜になってしまうだけあり、地形は遠浅で巨大な船を引きずるのは困難を極めたのです。
鎌倉時代ライターkawausoの独り言
折角建造した宋船は、ついに海に浮かぶ事無く砂浜に打ち捨てられたのです。鎌倉で船を造らないで、他所で建造して鎌倉に回航すればよかったんですけどね…
こちらもCHECK
-
北条時房はどんな人?北条の癒し系男子は北条泰時と張り合った有能な人物【鎌倉殿の13人】
続きを見る