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「源義経の生存説」本当は蝦夷地(北海道)に脱出していた?


監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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源義経

 

源義経と言えば、実は衣川で死んでなく蝦夷に渡ったとか、いやいや大陸に渡りチンギスハーンになったなど伝説が残る人です。さすがにチンギスハーン義経説は怪しいものですが、義経が衣川で討たれずに蝦夷に逃げのびたという話は義経が討たれた時から噂として鎌倉まで伝わっていました。

 

その根拠としては義経の首があります。義経の首は藤原泰衡が鎌倉の圧迫に耐えかねて衣川で義経を襲撃して首を獲ったとされていますが、その首が酒に浸されて鎌倉にくるまでに43日間も経過しているのです。時期は酷暑であり、義経の首が原型を保っていたとは考えにくくそれゆえに泰衡が偽物の首を送り鎌倉を欺いたと言うのです。

 

それを裏付ける証拠も出てきました。戦後、中尊寺金色堂の藤原三代のミイラが調査され、それまで忠衡のミイラと思われていたものが泰衡のミイラだと断定されました。忠衡は泰衡の異母弟であくまでも義経を守り立てるように遺言した秀衡に従い泰衡に殺害されたと考えられてきましたが、実際には忠衡ではなく泰衡がミイラにされた事で泰衡が秀衡の遺言を無視したのではない可能性が出てきたのです。

 

泰衡は父の遺言と鎌倉の要求をどちらも果たす為に義経の偽首を用意して鎌倉に送り、その間に義経一行をさらに北、蝦夷地に逃がした。真実は不明ですが、義経の首実験について鎌倉幕府の歴史書である吾妻鏡は梶原景時と和田義盛が涙したと記すだけで詳細を記してはいません。

 

実際には頼朝には義経の生死はどうでもよく何が送られてこようと難癖をつけて奥州平泉を滅ぼすつもりであり、実際に首が届く前から奥州征伐の文言が出ている事から義経の首はただの口実だった可能性があります。

 

自由奔放で武蔵坊弁慶を振り回す源義経

 

だとすれば、義経一行が北海道に渡って義経が天寿を全うしたそんな事だってあり得ないとはいえないかも知れません。

 

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カワウソ編集長

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