源義経と言えば、実は衣川で死んでなく蝦夷に渡ったとか、いやいや大陸に渡りチンギスハーンになったなど伝説が残る人です。さすがにチンギスハーン義経説は怪しいものですが、義経が衣川で討たれずに蝦夷に逃げのびたという話は義経が討たれた時から噂として鎌倉まで伝わっていました。
その根拠としては義経の首があります。義経の首は藤原泰衡が鎌倉の圧迫に耐えかねて衣川で義経を襲撃して首を獲ったとされていますが、その首が酒に浸されて鎌倉にくるまでに43日間も経過しているのです。時期は酷暑であり、義経の首が原型を保っていたとは考えにくくそれゆえに泰衡が偽物の首を送り鎌倉を欺いたと言うのです。
それを裏付ける証拠も出てきました。戦後、中尊寺金色堂の藤原三代のミイラが調査され、それまで忠衡のミイラと思われていたものが泰衡のミイラだと断定されました。忠衡は泰衡の異母弟であくまでも義経を守り立てるように遺言した秀衡に従い泰衡に殺害されたと考えられてきましたが、実際には忠衡ではなく泰衡がミイラにされた事で泰衡が秀衡の遺言を無視したのではない可能性が出てきたのです。
泰衡は父の遺言と鎌倉の要求をどちらも果たす為に義経の偽首を用意して鎌倉に送り、その間に義経一行をさらに北、蝦夷地に逃がした。真実は不明ですが、義経の首実験について鎌倉幕府の歴史書である吾妻鏡は梶原景時と和田義盛が涙したと記すだけで詳細を記してはいません。
実際には頼朝には義経の生死はどうでもよく何が送られてこようと難癖をつけて奥州平泉を滅ぼすつもりであり、実際に首が届く前から奥州征伐の文言が出ている事から義経の首はただの口実だった可能性があります。
だとすれば、義経一行が北海道に渡って義経が天寿を全うしたそんな事だってあり得ないとはいえないかも知れません。
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