丹後局とはどんな人?夫を平家に殺され後白河法皇の寵妃になった女性【鎌倉殿の13人】

25/05/2022


丹後局(女性)

 

NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人で、常に後白河法皇(ご・しらかわほうおう)の傍にいるのが鈴木京香演じる丹後局(たんごのつぼね)です。ドラマでは序盤から登場し後白河法皇の死後も後鳥羽天皇(ご・とばてんのう)を擁立して権勢を振るい、鎌倉の頼朝とも駆け引きをした丹後局。

 

楊貴妃

 

同時代の公家に楊貴妃(ようきひ)と変わらないと陰口をきかれ恐れられた彼女は、どんな人生を歩んだのでしょうか?

 

 

 

平清盛に夫を殺される

平家の総帥・平清盛

 

丹後局は本名ではなく宮中に仕える女房の中で自分専用の部屋が与えられた高級女官を局といいます。本名は高階栄子(たかしなえいこ)と言い仁平(にんぴょう)元年(1151年頃)に法印大和尚位()澄雲(ほういんだいおしょう・ちょううん)平正盛(たいらのまさもり)の娘、政子(まさこ)との間に誕生したとされます。丹後局の父については上座章尋(じょうざ・しょうじん)とも言われていますがハッキリしません。

 

成長した丹後局は大変な美貌(びぼう)の持ち主だったようで、伊勢平氏の出身で後白河法皇の近臣、平業房(たいらのなりふさ)に嫁ぎ山科教成(やましなのりしげ)ら数名の子を産みます。

 

平清盛との蜜月の関係が終わった後白河天皇

 

しかし、後白河法皇が平清盛と対立すると清盛は兵を率い福原から京都に入り後白河法皇を鳥羽殿に幽閉し平家に批判的な公家を追放しました。この治承(じしょう)3年の政変で法皇の側近だった業房も役職を解かれた上に伊豆国に流罪となります。

 

ところが業房は伊豆流罪を納得せず逃亡を図ったので怒った清盛により捕らえられ福原で処刑されました。

 

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鎌倉殿の13人

 

 

後白河法皇に接近し楊貴妃と呼ばれる

木曾義が平家に敗北したチャンスを逃さない後白河法皇.jpg

 

未亡人になってしまった丹後局ですが、彼女は負けず、夫が仕えていた後白河法皇に接近、持ち前の美貌で法皇を虜にします。

三日三晩に苦しみ亡くなる平清盛

 

養和(ようわ)元年(1181年)孫を安徳天皇として擁立し権勢を振るった清盛は熱病で死去。それより少し前には高倉上皇も疫病で急死していた事から、平家は後白河法皇の幽閉を解かざるを得なくなりました。丹後局は後白河法皇との間に皇女覲子内親王(きんしないしんのう)を産み、いよいよ法皇の寵愛が深くなると法皇第一の寵妃として政治にも口を挟むようになります。

 

騒いでいる公家

 

当時の右大臣九条兼実(くじょうかねざね)は「この頃の政治は彼女の唇に左右される」と玉葉(ぎょくよう)に書くほどで本朝の楊貴妃と当時の公卿には思われていたようです。

 

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北条義時

 

 

幼い後鳥羽天皇を推薦し後見人となる

松明を付けた牛を突っ込ませた木曾義仲.jpg

 

寿永2年(1183年)7月源義仲の攻勢を前に都を二十年以上支配した平家が都を放棄。安徳天皇と三種の神器を奉じて九州に落ちていきます。

 

朝廷(天皇)

 

天皇と神器が不在になった朝廷では、後白河法皇が急遽(きゅうきょ)、自分の孫で高倉天皇の第四皇子である3歳の尊成親王を後鳥羽天皇として擁立しました。実はこの時、尊成親王を強く推したのは丹後局であるようです。

 

どうして丹後局が実子でもない尊成親王を推したのか?

それは皇子を産めなかった丹後局が幼い後鳥羽天皇の後ろ盾になり、成長するまで権力を握る為でした。

 

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源義経

 

 

 

頼朝としたたかに交渉し従二位に昇進

源義経に敗れた木曽義仲.jpg

 

源義仲はすぐに法皇と反りが合わなくなり後白河法皇を幽閉してクーデターを起こします。すでに後白河法皇と連絡を取り合っていた鎌倉の頼朝はチャンスと見て、弟の源範頼と義経を義仲討伐に送り込み宇治川で撃破しました。

 

大江広元 鎌倉

 

やがて源義経が壇ノ浦で平家を滅ぼすと、丹後局は源頼朝の顔役となり大江広元(おおえのひろもと)と何度も交渉しています。このような功績から丹後局は文治3年(1187年)には従三位(じゅさんみ)に昇進、覲子内親王(きんしないしんのう)院号宣下(いんごうせんげ)があり「宣陽門院(せんようもんいん)」となるとさらに昇進して従二位(じゅにい)になります。

 

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源頼朝

 

 

法皇死後、ライバルの九条兼実を追い落とす

京都御所

 

建久3年(1192年)丹後局を寵愛した後白河法皇が崩御すると丹後局も出家します。しかし、後白河法皇の遺言で山科(やましな)荘園(しょうえん)を得た丹後局は娘の宣陽門院(せんようもんいん)と変わらずに政治に介入しました。

 

源頼朝を武衛と何度も連呼する上総広常.jpg

 

当時、朝廷の権力を握っていたのは後白河法皇の近臣で後鳥羽天皇の後見人でもある九条兼実でした。兼実は公家ながら早くから鎌倉の頼朝に接近し、後白河法皇が渋って与えなかった征夷大将軍の称号を頼朝に与えるように働きかけるなど頼朝と親密な関係を築いていました。

 

その甲斐もあり、兼実は娘の任子(じんし)を後鳥羽天皇の中宮にして権勢を振るいますが、これが頼朝との関係を悪化させます。頼朝も娘を後鳥羽天皇の妃として入内させ公武合体を画策していて、兼実とライバル関係になったのです。

 

愚痴ばかり言う源頼朝

 

兼実を追い落として権力を握りたい丹後局は、土御門通親(つちみかどみちちか)と手を組んで頼朝と兼実の関係に亀裂を生じさせました。その上で土御門通親は頼朝の娘を後鳥羽天皇に輿入れさせる事に協力します。

 

頼朝の娘の入内に丹後局は消極的だったようですが、頼朝の娘2人はいずれも入内する前に病死しました。ただ、土御門通親と結んだ事で丹後局は九条兼実を追い落とし、後鳥羽天皇の後見人として権力を振るいます。

 

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はじめての鎌倉時代

 

 

 

後鳥羽上皇が院政を敷き権力を失う

鎌倉幕府を開くが急死した源頼朝

 

しかし、建久(けんきゅう)10年(1199年)鎌倉の頼朝が急死。朝廷において後鳥羽天皇に諫言できた土御門通親も建仁2年(1202年)に急死します。これにより、22歳の後鳥羽天皇を抑えられる存在がいなくなり、さらに後鳥羽天皇が土御門天皇に譲位して院政を敷くと上皇の専制が確立しました。

 

丹後局は影響力を失い引退、亡き夫業房の領地があった浄土寺に住み、建保(けんぽう)4年(1216年頃)に亡くなりました。

 

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はじめての平安時代

 

 

日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人でも円熟した妖艶な魅力と知的な雰囲気を漂わせる丹後局。しかし、彼女も政変で夫を平清盛に殺され、その悲しみを乗り越え持ち前の美貌と知略で平安末から鎌倉の世を渡り切った勝組の女性でした。

 

北条政子や静御前もそうですが、平安末から鎌倉時代の女性は多少の不幸にへこたれないパワフルな女性が多いですね。

 

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カワウソ編集長

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日本史というと中国史や世界史よりチマチマして敵味方が激しく入れ替わるのでとっつきにくいですが、どうしてそうなったか?ポイントをつかむと驚くほどにスイスイと内容が入ってきます、そんなポイントを皆さんにお伝えしますね。日本史を勉強すると、今の政治まで見えてきますよ。
【好きな歴史人物】
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