戦国時代

青森県の戦国時代はどんなだった?【ご当地戦国特集】

battle-Soldier(合戦に参戦する兵士)

 

戦国時代のドラマと言えば京都に近い畿内かメジャー戦国大名がいる東海地方にスポットが当たる事が多いものです。

 

でも、戦国時代は全日本的に起きていたのであって畿内や東海だけじゃない!

 

このようにお嘆きの戦国時代ファンの皆さんも多いのではないでしょうか。そこで、ほのぼの日本史ではご当地戦国特集として47都道府県の戦国時代を特集します。今回は本州最北端、青森県の戦国時代を紹介しましょう。

 

延久蝦夷合戦後、青森県は朝廷の支配下に入る

軍議

 

陸奥国(むつのくに)と呼ばれた青森県全域が大和朝廷の支配下に組み込まれる事になったのは、延久蝦夷合戦(えんきゅうえぞかっせん)以降と考えられています。後三条天皇(ごさんじょうてんのう)は即位すると桓武天皇(かんむてんのう)の業績に倣い延久新政とも言われる政治改革を断行。その改革には大内裏再建(だいだいりさいけん)と蝦夷討伐の完遂が含まれていました。

 

蒙古兵に先駆けをする竹崎季長(鎌倉武士)

 

天皇の命令を受けて陸奥守源頼俊(みなもとのよりとし)は、出羽の有力豪族清原貞衡(きよはらのさだひら)と共に延久(えんきゅう)2年(1070年)に軍を編制して国府を発ち北上します。しかし、遠征の途上で部下の藤原基道(ふじわらのもとみち)が陸奥守の印と国正倉の鍵を奪い逃走する事件が発生。その後、基通は下野守(しもつけのかみ)源義家(みなもとのよしいえ)に投降し印と鍵は取り戻したと義家から朝廷に連絡が入りました。

 

朝廷はこれを頼俊の監督不行き届きとして召喚命令(しょうかんれいじょう)を出します。

 

公家同士の会議

 

これに対し頼俊は蝦夷討伐で大戦果を挙げた事を理由に弁明しますが許されず、延久3年5月5日に陸奥で謹慎するよう命令を下されました。当然、頼俊には何の恩賞もなかったのですが、清原貞衡は鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)に任命され影響力を伸ばします。

 

最近では、この国守印盗難事件は源頼俊が陸奥で勢力を伸ばす事を恐れた源義家による、策謀説もあるようです。陸奥に勢力を伸ばした清原氏ですが、やがて内紛を起こし後三年(ごさんねん)(えき)と呼ばれる抗争が始まり源義家が介入。滅んだ安倍氏に連なる藤原清衡(ふじわらのきよひら)は源義家に加勢し清原氏を滅ぼして勝利します。

 

炎上する城a(モブ)

 

以後陸奥国は奥州藤原氏の勢力下に入り、中央と同様の郡郷制が敷かれ、糠部郡(ぬかのぶぐん)平賀郡(ひらかぐん)鼻和郡(はなわぐん)田舎郡(いなかぐん)、西浜、外浜が設置されました。後三年の役で功績があった源義家ですが上皇の院政が始まり、ボスである藤原摂関家の力が低下した事から京都に呼び戻され、陸奥の支配は藤原清衡に委ねられる事になりました。

 

以後、奥州藤原氏は平泉を拠点に4代百年に渡り栄えますが源頼朝により討伐されます。

 

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北条得宗の地頭代安藤氏が勢力を伸ばす

armor(鎧を身にまとう武士)

 

その後、青森は鎌倉幕府執権となった北条得宗(ほうじょうとくそう)領となり地頭代として津軽安藤氏が下向して支配します。安藤氏は下北半島や津軽半島、蝦夷島の沿岸部を支配し、十三湊(とさみなと)を整備し室町後期にかけ海上交易で繁栄しました。しかし、津軽安藤氏は鎌倉時代末「津軽(つがる)大乱」と呼ばれる内紛を起こし勢力を後退させます。

 

三国志のモブ 反乱

 

同じ頃、岩手県南部から青森県東部内陸部に勢力を持ち始めた南部氏が台頭、南北朝期には、安藤氏が北朝方につき、南部氏は南朝方について対立しますが、情勢は南部氏有利で安藤氏は15世紀半ばには蝦夷が島に駆逐されました。

 

青森県を制覇した南部氏ですが海上交易には関心が薄く、安藤氏により繁栄した各湊は衰退していきました。一方で室町中期、津軽地方では浪岡を中心に北畠氏(きたばたけし)(浪岡氏)が大きな勢力を誇ります。

 

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戦国時代!南部氏と津軽氏が抗争

馬にのり凱旋する将軍モブ(兵士)

 

15世紀半ばに安藤氏を駆逐した南部氏は津軽、下北、糠部地方一帯を支配し、「三日月が丸くなるまで南部領」と讃えられました。これは、南部氏の領地を隅から隅まで移動する間に三日月も満月になるほど領地が広いという意味です。

 

しかし、16世紀の後半になると南部氏の一族から大浦為信(おおうらためのぶ)(津軽為信)が登場し、他の南部氏の諸城を落城させ浪岡氏も滅ぼし、津軽、外ヶ浜、糠部の一部を支配します。

 

さらに、為信の子信枚(のぶひら)の時代には弘前城の築城と城下町の建設、羽州街道や岩木山の整備がなされました。大浦氏の本姓は源氏で対外的には南部と名乗っていましたが、為信の時代に藤原氏に鞍替えし苗字を津軽としたそうです。

 

明国制圧の野望を抱く豊臣秀吉

 

南部氏と津軽氏の抗争は、太閤秀吉(ひでよし)が奥州まで出陣し戦国大名同士の私闘を禁止したので、決着が着かないまま、やむなく表面上和解します。秀吉の没後、南部氏・津軽氏は、東軍の徳川家康(とくがわいえやす)に味方して関ケ原(せきがはら)の戦いに臨み、無事に領地を安堵され戦国時代を生き残りました。

 

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江戸時代を通じて険悪

徳川家家紋

 

江戸時代に入ると、南部氏が岩手県域を含む南部藩(盛岡藩)津軽氏が弘前藩とされます。太平洋側の南部藩は夏に吹く「やませ」による冷害のたびに飢饉が発生しましたが、日本海側の弘前藩では影響がありませんでした。

 

成立の経緯から犬猿の仲だった両藩は立地の経緯や歴史的経緯からも友好的ではなく対立を続けました。明治元年(1868年)戊辰戦争(ぼしんせんそう)が勃発すると南部藩も弘前藩も奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)に加わりますが、途中で弘前藩が新政府側に寝返り対立は表面化します。

 

Cannon(大砲)

 

しかし戦争は明治新政府側の勝利で終わり、南部藩は20万石を没収され白石へ転封となり盛岡藩領は松代藩、松本藩、弘前藩の管理下に入りました。仇敵の弘前藩の管理を受ける羽目になり、南部藩はさぞ悔しい思いをした事でしょうね。

 

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廃藩置県でまさかの逆転

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

明治4年(1871年)廃藩置県で南部藩と弘前藩は合併され県名は弘前県となります。ところが中央から役人が派遣されるにあたり、県庁は当時小さい港に過ぎなかった青森に置かれる事になり、それに併せて県名も青森県に変更されました。

 

理由は港湾としての青森の将来性を見込んでという点と、弘前に県庁を置くとあまりにも偏りが生じ、南部藩と弘前藩の旧臣の間で無用の摩擦を生む事を懸念したから、であるそうです。

 

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戦国時代ライターkawausoの一言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

以上、青森県の戦国時代について駆け足で見てみました。陸奥国だった青森の支配者は平安時代の安倍氏から前九年(ぜんねん)の役で清原氏が取って代わり、清原氏の内紛から起きた後三年の役で奥州藤原氏が清原氏を滅亡させます。

 

しかし、鎌倉時代に奥州藤原氏が鎌倉幕府に滅ぼされて後は北条得宗家の領地となり、地頭代安藤氏が勢力を伸ばしました。そして鎌倉末期の津軽大乱で安藤氏が内紛を起こすと、室町後期には南部氏が安藤氏を滅ぼし支配者になります。

 

しかし、戦国時代前期に、南部氏の分家から津軽為信が出てきて南部氏の領地に食い込み、双方決着が着く前に太閤秀吉の天下統一に遭遇してしまい、以後は喧嘩したくても幕府の監視があってできない犬猿の関係が廃藩置県まで続いたようですね。

 

参考文献:47都道府県の歴史と地理がわかる事典 GS幻冬舎新書

 

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