鳥取県の戦国時代を解説!守護大名山名氏に2世紀支配され維新後県が消滅した珍しい県


名古屋城

 

鳥取県は日本の中国地方に位置する県です。日本海側にある豪雪地帯で山陰地方の東側を占めますが、面積は全国で7番目に小さく、人口は約55万人で47都道府県で最も少なくなっています。

 

しかしミニマムな鳥取県の歴史は波乱万丈、一時は隣県の島根県に吸収され県が無くなり復活運動で再設置されるなど他府県人では経験できない独特なモノでした。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

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yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

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旧石器時代の鳥取県

縄文人 縄文時代の狩り

 

鳥取県では隣の島根県と併せ後期旧石器時代に槍先に用いたと考えられる尖頭器が49点発見されています。この中の34点が鳥取県で発見され、そのほとんどが大山山麓(だいせんさんろく)に集中していました。

 

当時の大山山麓には、キツネやタヌキ、ノウサギ、シカなどの小型・中型の哺乳類がいて鳥取県の先人は尖頭器(せんとうき)を使い、これらの野生動物を狩りながら生活していたと考えられます。また大山山麓は縄文時代のものと考えられる直径1メートル前後の落とし穴が密集してみつかっており、縄文時代も狩猟が生活の重要な位置を占めていた事が分かります。

 

この大山裾野丘陵(すそのきゅうりょう)からは、2万3千年前以後のものとされる後期旧石器時代の黒曜石製と安山岩製のナイフ形石器や削器(さくき)彫器(ちょうき)掻器(そうき)が見つかり、旧石器時代の終わり頃の黒曜石製細石刃と呼ばれる石器が発見されるなど遺物は出てきていますが県内からは人が生活した遺跡はまだ発見されていません。

 

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鳥取県の名前の由来

 

鳥取という特徴的な県名は、当時、沼や沢の多い湿地帯であった鳥取平野で水辺に集まる鳥などを捕らえて暮らしていた狩猟民族が大和朝廷に取り込まれて、税として鳥を納めるように命じられ部族の首長を鳥取造(とっとりのみやっこ)とし、その支配下の民を鳥取部(とっとりべ)とした事に由来するようです。

 

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規模は小さいが多く存在する古墳

前方後円墳(古墳)

 

鳥取県は大陸に近く、中国文化の流入が進んでいたと考えられています。4世紀頃になると豪族の墓である方賁(ほうふん)が築かれるようになり、4世紀後半に入ると大型前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)が出現しました。

 

鳥取県内の前方後円墳は、これまで確認されているだけでも250基を数え、時期不明の古墳も多いですが多くは小規模で古墳時代後期に製造されたものが多いようです。

 

代表的な古墳として古郡家(ここおげ)1号墳があります。

 

古郡家1号賁は全長90メートルで鳥取平野部最大級、後円部に埋葬施設が3カ所あり、中心部の粘土槨(ねんどかく)から八ッ手葉形(やつてはがた)青銅製品、箱式石棺(せっかん)から短甲や鉄製品多数が見つかっています。

 

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たたら製鉄で存在感を示す鳥取県

荘園に逃げ込む鉄の職工達

 

また島根県はたたら製鉄の原料になる砂鉄の産地でもあり、6世紀後半には砂鉄精錬(さてつせいれん)による鉄の生産が開始されました。西暦927年に完成した延喜式には伯耆国(ほうきのくに)(島根県)の貢物について、鍬につかう鉄はほとんど伯耆国のものと記録しています。

 

実際に島根県にはたたら製鉄に失敗したり、大きすぎて運ぶ事が出来ずに運搬を断念した大鉄塊(鉧)があちこちにゴロゴロ転がっています。

 

古代に限らず、鉄鋼石を用いた西洋の製鉄技術が導入されるまで島根県ではたたら製鉄は続き明治の中期頃までに及んでいます。河内源氏の宝剣として知られる鬼切丸(おにきりまる)も、伯耆会見郡(あいみぐん)古鍛冶(こかじ)の始祖、大原安綱(おおはらやすつな)が作刀しました。

 

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大化の改新後、二国に分割され大和朝廷の支配が強まる

京都御所

 

大化の改新後、鳥取県のエリアは因幡国(いなばのくに)と伯耆国に分国され、大伴家持(おおとものやかもち)が因幡国司(こくし)、伯耆国は大原宿奈麻呂(おおはらすくなまろ)等が国司になります。

 

それまで因幡国の法美(ほうみ)邑美(おうみ)を支配していた伊福部氏(いふくべし)郡司(ぐんじ)となって在庁官人化します。もっとも、伊福部氏も権力を奪われて黙ってみていたわけではなく、8世紀の初めには伊福吉部徳足比売(いふくべのときたりひめ)采女(うねめ)として天皇の傍近くに仕えています。

 

采女とは地方豪族が一族の女性を朝廷に差し出した制度で、地方豪族は采女を通して大和朝廷の有力者とかかわりを持ち、地元での勢力を保とうとしたのです。

 

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元寇

 

 

仏教美術が栄えた鳥取県

五重塔(仏塔)仏教

 

鳥取県は古代から山岳信仰が盛んな土地でした。その後、神仏習合(しんぶつしゅうごう)で仏教も広がり白鳳時代(はくほうじだい)から奈良時代にかけ県内各地に寺院が建立されます。

 

特に県西部米子市淀江町(よなごしよどえちょう)上淀廃寺(かみよどはいじ)では大量の彩色壁画が発見されました。古代寺院の壁画は法隆寺金堂や中国の敦煌遺跡など世界的に見ても類例が少ないもので島根県に高い仏教文化が存在していた事を物語っています。

 

西遊記 三蔵法師と仏像

 

現存する有名な寺院には大山寺(だいせんじ)三仏寺(さんぶつじ)があり、大山寺は養老(ようろう)年間(717年~724年)に金蓮上人(きんれんしょうにん)が開山したと伝えられています。三仏寺は慶雲3年(706年)修験者役小角(えんのおづぬ)によって開かれ、嘉祥(かしょう)2年(849年)慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)が釈迦・阿弥陀、大日如来を安置し、「三仏寺」と号したそうです。

 

仏教の興隆の関係で、鳥取県内では寺社勢力が強く、奈良時代には東大寺の荘園が形成されています。

 

古代日本が仏教を受容した理由

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はじめての鎌倉時代

 

 

鳥取県の源平合戦

平家を滅ぼした最大の功労者・源義経

 

平安時代になると、伯耆国には日野氏(ひのし)小鴨氏(おがもし)紀氏(きのし)が台頭し武士団を形成します。

 

日野氏は平氏の後裔(こうえい)を名乗っていましたが、治承・寿永(じしょうじゅえい)の乱で河内源氏の源頼朝(みなもとのよりとも)が台頭すると、同じく西伯耆の豪族の紀成盛(きのなりもり)が源氏方についたのを見て源氏方に寝返ったそうです。

 

実は弓の名手だった源頼朝

 

しかし、小鴨氏の小鴨基保は変わらず平家方に与し平知盛の命令を受けて動き、伯耆国内において紀氏と日野氏の源氏勢力と小鴨氏の平家勢力が衝突。隣国を巻き込んで大規模な源平合戦となりました。

 

討死する坂東武士(モブ)

 

この伯耆国内の源平合戦は、中央とは反対に平家方の小鴨基保が勝利し源氏方の紀成盛が滅亡して終了します。

 

ただ、この争いは源氏か平家かという中央の争いの反映ではなく、単純に伯耆国内の覇権を巡る小競り合いの部分が大きく鎌倉幕府もさほど問題にしませんでした。

 

そのため、小鴨基保(おがももとやす)は頼朝により所領を安堵(あんど)され、日野氏も御家人として鎌倉幕府に仕え、源氏だった紀氏だけが滅亡という不思議な形で騒乱が終わります。

 

鎌倉期の島根県の守護は因幡国が海老名家(えびなけ)等、伯耆国は当初、金持家(かねもちけ)ですが後期に北条得宗家(ほうじょうとくそうけ)の勢力が強まると、六波羅探題南方(ろくはらたんだい・みなみかた)が兼任するようになりました。

 

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源頼朝

 

 

三木一草の1人、名和長年が伯耆守に

楠木正成(武士)

 

鎌倉時代の末期、北条得宗家の専制に対して御家人の不満が高まり、後醍醐天皇はそれらの不満を吸収し討幕の勅命を降します。そんな後醍醐天皇に忠義を尽くしたのが伯耆国名和で海運業を営んでいた名和氏(なわし)の当主長年(ながとし)でした。

 

名和氏は赤松氏と同様、村上源氏雅兼流(むらかみげんじまさかねりゅう)を自称していますが、長年については大海運業者であったという説と悪党と呼ばれた武士であった説があります。長年は楠木正成(くすのきまさしげ)同様に商業活動で蓄財し比較的に裕福な武士でした。

 

元弘元年(げんこうがんねんn)(1331年)元弘の乱で鎌倉幕府討幕計画が露見し隠岐(おき)に流された後醍醐天皇が正慶2年(1333年)に島を脱出すると名和長年は船上山(せんじょうさん)(現在の鳥取県東伯郡琴浦町)に後醍醐天皇を迎えて討幕運動に加わり、船上山の戦いで幕府方の佐々木清高(ささききよたか)を破ります。

 

この手柄で名和長年は伯耆守(ほうきのかみ)に任じられ、後醍醐天皇が京都に帰るまでの護衛も勤めました。先に紹介した日野氏も名和長年について参戦し、幕府軍を破るのに貢献しています。

 

鎌倉幕府を裏切り室町幕府を築いた将軍・足利尊氏

 

名和長年は、足利尊氏が中先代の乱の討伐を契機に建武政権から離脱すると、楠木正成、新田義貞らと共に後醍醐天皇方として尊氏と激闘。しかし、湊川(みなとがわ)の戦いの後、京都に入った尊氏に敗れて討死しました。名和長年は、船上山での戦いに参加した時点で若くても50代後半の高齢でしたが、五人張りの強弓を引く頑強な勇者で1本の矢で2人の敵を射た伝説があります。

 

いい加減な足利尊氏

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源義経

 

 

守護大名山名氏が因幡・伯耆の支配者に

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

名和長年の後に伯耆国を支配したのは室町時代の守護大名山名時氏(やまなときうじ)でした。

 

山名時氏は新田義貞(にったよしさだ)の一族でしたが、足利氏の姻族である上杉氏との縁戚関係で後醍醐天皇を見限り、足利尊氏の陣営に参加。湊川の戦いに参加した後に京都に入り、名和長年を討死させ1337年には名和氏の本拠地である伯耆守護に任じられます。

 

その後も楠木氏や名和氏の掃討をおこない1341年には塩治高貞(えんやたかさだ)討伐で功績を挙げて丹後、出雲、隠岐守護となり1347年には若狭守護(わかさしゅご)も兼任します。

 

観応の擾乱で当初時氏は高師直(こうのもろなお)に味方しますが、その後南朝に与して師直を滅ぼした足利直義(ただよし)に鞍替えします。1351年に直義が死去すると一時は尊氏派に鞍替えしますが、出雲や若狭守護を巡り佐々木道誉(ささきどうよ)と対立。

 

1353年6月には息子の師義(もろよし)と室町幕府に反旗を(ひるが)して出雲へ侵攻、南朝とも連合し楠木正儀(くすのきまさよし)らと京都に足利義詮(あしかがよしあきら)を襲い京都を占領しますが、翌月には奪還されました。

 

山名時氏は本拠地の山陰に撤退した後、尊氏の庶子で九州で反室町幕府の兵を挙げていた足利直冬(あしかがただふゆ)を奉じて1354年の12月、斯波高経(しばたかつね)桃井直常(もものいなおつね)らと再び京都を占領しますが撤退します。

 

その後、室町幕府は細川頼之(ほそかわよりゆき)管領(かんれい)となり安定、南朝との抗争も下火になると時氏は懐柔策に乗り足利直冬から離反し、時氏は伯耆と丹波(たんば)守護、師義は丹後(たんご)守護、氏冬は因幡守護、時義は美作(みまさか)守護に任命されます。

 

これにより山名氏は五か国の守護大名となり、特に島根県の領域である因幡国と伯耆国はいずれも山名氏の支配下に入りました。

 

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北条義時

 

 

足利義満に睨まれ明徳の乱で領地が大幅削減

足利義満

 

山名氏の我が世の春は続きます。

 

時氏死後に惣領を継いだ師義は①丹後、②伯耆、次男の義理(よしさと)は③紀伊(きい)、三男の氏冬(うじふゆ)は④因幡、四男の氏清(うじきよ)は⑤丹波、⑥山城、⑦和泉。五男の時義(ときよし)は⑧美作、⑨但馬、➉備後、師義の三男の満幸(みつゆき)は新たに⑪播磨の守護職を得て山名氏だけで11か国の守護となり日本の六分の一を支配して「六分の一殿(ろくぶんのいちどの)」と呼ばれました。

 

これに対し、3代将軍足利義満は幕府権力安泰の為に強力すぎる守護大名の攻撃に乗り出します。山名師義が1376年に死去すると、4人の息子、義幸(よしゆき)氏之(うじゆき)義熈(よしひろ)、満幸は若年だったために中継ぎとして末弟の時義(ときよし)が山名氏の惣領となります。これに対し、四男の山名氏清とその婿の満幸が不満を示しました。

 

 

1389年末弟の時義が死去、惣領と但馬・備後守護職は時義の息子、時熈が、伯耆国守護は時義の養子となっていた時熈の義兄弟、氏之に与えられます。しかし、病弱だった義幸の代官として幕府に出仕していた満幸は自分が無視されたことに、また不満を抱きました。

 

公家同士の会議(モブ)

 

当主ばかりではなく、家臣団も時氏以前からの東国出身の譜代(ふだい)家臣と師義が率いてきた出雲出身の家臣。さらに支配地域で新しく登用された家臣に分裂して争う事態になり、それが山名一族の内紛に拍車を掛けました。

 

明徳(めいとく)元年(1390年)義満は山名氏の内紛につけこみ、時氏が生前将軍に対して不遜であり、時熈と氏之にも不遜な態度が多いとして、氏清と満幸に討伐を命じます。

 

驚いた時熙と氏之は追い詰められて挙兵しますが、氏清が時熙の本拠但馬、満幸が氏之の本拠伯耆を攻め明徳2年(1391年)に2人は敗れて没落します。足利義満は戦功として氏清には但馬と山城、満幸には伯耆の守護職を新たに与えました。備後も満幸の兄義熙が継承しますが、同年に細川頼之になっています。

 

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明徳の乱で山名氏の領国は3か国に削減

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

こうして、時熈と氏之を排除した義満ですが、今度は山名氏清と山名満幸が邪魔になりました。まず義満は満幸の分国である出雲で御円融上皇の荘園である仙洞領横田荘の横領が発生し、御教書にも従わなかったとして満幸から出雲守護職を剥奪します。

 

これを恨んだ満幸は舅の氏清の分国、堺に赴いて将軍家が山名氏を滅ぼすつもりだと説き挙兵を促しました。

 

すでに義満に恐怖を感じていた氏清も賛同して共に京都に攻め上ることを決意します。さらに満幸は紀伊守護の兄、義理を訪ねて挙兵を説き、義理は躊躇しますが、義満を信じられなくなっていたので挙兵に応じました。

 

氏清は堺に兵を集めると南朝に降り、錦の御旗を得て官軍となりました。さらに京都にいた氏清の甥の氏家(因幡守護、氏冬の子)も一族と合流すべく京都を退去します。

 

山名氏を挑発した義満も必ず勝てると言えない厳しい戦いでしたが、内野合戦はたった一日で山名氏の大敗で決着しました。

 

兵力を集めた山名氏ですが「六分の一殿」と呼ばれた山名氏の栄達を喜ばないのは義満だけではなく、他の守護大名もそうでした。斯波氏や一色氏、大内氏、赤松氏、細川氏のような守護大名は山名氏没落後、恩賞のおこぼれに預かろうと幕府に味方し、逆に山名氏に一族以外の支援はなかったのです。

 

敗北した山名氏は、11か国の領土を但馬、伯耆、因幡の3カ国に大幅に縮小します。しかし、伯耆と因幡は確保していたので、鳥取県を代表する守護大名の地位は維持していました。

 

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山名時熈が山名氏を再興

足利義教

 

氏清が討死した事で、山名氏の惣領は義満に味方した山名時煕(やまなとひきろ)に戻りました。しかし、時熈は明徳の乱で殺された氏清の遺児らを保護、分裂した一族の和解と再結集に努めます。

 

そして、応永6年(1399年)に発生した大内氏討伐の応永の乱で戦功をあげ、山名氏は備後・安芸・石見の3か国の守護に任じられます。

 

 

今度は幕府の先兵として大内氏に対する最前線を務める事になったのです。いずれにせよ、時熈の深慮遠謀は成功し明徳の乱からわずか8年で山名氏は6か国の守護としての地位を回復。山名時熈は幕政にも深く関与し6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)からは長老として優遇されます。

 

しかし時熈が3男の持豊(もちとよ)を後継者にしようとしたところ、将軍義教は自分の側近である次男の持熙(もちひろ)を次期当主と定めます。

 

くじ引きで将軍となった足利義教

 

ところが、その持熈が義教の怒りを買って追放後に討たれると持豊が改めて後継者に決定されるトンチンカンな事が起きました。さすが万人恐怖(ばんにんきょうふ)、強引に自分のお気に入りに山名氏を相続させようとし、そいつが逆らうと今度は猛反対していた持豊に家督を継がせる。

 

義教以外、全く理解不能、わけわかめな思考回路です。そりゃあ、家督問題に過敏な守護大名に恐れられて刺されもしますよ。

 

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応仁の乱の西軍総大将、山名持豊

山名宗全

 

さて、万人恐怖の気まぐれで家督を継いだ山名持豊は嘉吉元年(1441年)嘉吉の乱で足利義教が暗殺されると赤松氏討伐の総大将として大功を挙げます。この功績で、山名氏は、新たに備前・美作・播磨の守護職を与えられ、再び領国九カ国の大守護大名へ急成長しました。

 

山名持豊は後に出家して山名宗全(やまなそうぜん)と名乗ります。そう!応仁の乱の西軍総大将、山名宗全がこの人物です。赤松氏の失点で領地を拡大した持豊ですが、これまでの家督相続の経緯から持豊は幕府に反抗的な態度を取ります。

 

享徳3年(1454年)8代将軍足利義政が持豊討伐の命を下しますが、この時は持豊とまだ仲が良かった管領・細川勝元(ほそかわかつもと)の奔走で持豊が一時隠退することで事態を収拾しました。

 

しかし復帰した宗全は幕政の主導権をめぐって細川勝元と対立、ここに足利将軍家や畠山氏、斯波氏などの後継者争いが絡み1467年応仁の乱が勃発します。

 

細川勝元vs山名宗全(応仁の乱)

 

山名宗全は西軍の総大将として同じく東軍総大将の勝元と戦いますが、乱の最中1473年(文明5年)に宗全は病死、同年に勝元も後を追うように病死しました。

 

さて、宗全の嫡男、山名教豊は山名氏を継承したものの父に先立ち陣没。教豊の弟のうち、山名勝豊は山名氏一族が継承していた因幡守護に任じられ因幡山名氏を興し、山名是豊(やまなこれとよ)は家督をめぐり父と対立、細川勝元の陣に加わります。この山名是豊は幕府により安芸、備後の守護職に任じられ備後山名氏(びんごやまなし)の祖となりました。

 

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また没落する戦国の山名氏

仙台城

 

山名宗全の死後、家督は孫の山名政豊(やまなまさとよ)が継ぎますが、宗全死去や応仁の乱などによって一族の勢力は急速に衰退します。同時に広大な領内では毛利次郎の乱をはじめとする国人による反乱が相次いで鎮圧にてんてこまいしました。

 

結果隙を突かれて、嘉吉の乱で奪い取った播磨、備前、美作は隣国の赤松政則(あかまつまさのり)に奪われ、山名政豊は奪回を企てるも失敗し播磨から撤退しました。さらに政豊は備後守護に任じられた嫡男山名俊豊や備後国人衆とも対立し、ますます領国を減らしていきます。

 

 

これではいけないと思った山名政豊は後継者の山名俊豊(やまなとしとよ)を廃嫡。三男の山名致豊(やまなむねとよ)を後継者に決め、国内混乱の決着をつけました。しかし国人衆の要求を呑んで、国人衆の支持を取り付けるために各種の特権を与えたので山名氏の権力は縮小します。

 

結果、守護代の垣屋氏(かきやし)が力をつけ、政豊は垣屋氏に城之崎城(じょうのさきじょう)豊岡城(とよおかじょう))を制圧され、子の致豊と共に九日市の守護所を放棄してより守備力がある丸山川対岸の此隅山城(このすみやまじょう)に移りますが、そこも攻撃される事態に陥りました。

 

垣屋氏ばかりではなく、山名氏は出雲守護代の尼子経久(あまごつねひさ)、周防の守護大名大内義興(おおうちよしおき)、備前守護代・浦上村宗(うらがみむらむね)らの圧迫を受け次第に山陰道山陽道の領国は奪われます。

 

更に永正から享禄年間にかけて但馬と因幡両山内氏が内紛状態に陥ります。

 

但馬国では但馬上守護代、垣屋氏や但馬(たじま)下守護代、太田垣氏らによって山名致豊が排除され弟の山名誠豊(やまなのぶとよ)が擁立されます。因幡国では山名豊時(やまなとよとき)の子、山名豊重(やまなとよしげ)豊頼(とよより)兄弟が守護を争い、豊重が因幡守護になりました。

 

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因幡国で戦国大名、山名祐豊が1人気を吐く

馬にのり凱旋する将軍モブ(兵士)武士

 

享禄元年(1528年)に但馬守護の山名誠豊が死去。甥で養子の山名祐豊(やまなすけとよ)(致豊の子)が但馬守護家を継ぎます。同じ頃、因幡国で、豊頼の子、山名誠通(やまなのぶみち)が豊重の子、山名豊治から因幡守護職を奪ったことで、山名氏の内紛は一時収拾されます。

 

但馬守護の山名祐豊は守護大名から脱却した武断的な戦国大名で、応仁の乱からの戦乱で調子に乗った守護代の垣屋、太田垣氏、田結庄氏、八木氏ら但馬の有力国人を次々と武力で征服します。

 

次に山名祐豊は、一族で因幡山名家の山名誠通が尼子氏の圧迫に耐えきれずに従属下に入るとこれを討伐。弟の豊定(とよさだ)を因幡へ派遣し因幡守護代とします。そして、「山名誠通の遺児が成長するまで政務を後見する」という形で因幡国を実質支配しました。

 

軍議(日本史)モブb

 

こうして鳥取県の一部である因幡国は但馬国の山名祐豊に実効支配されます。祐豊はさらに、因幡の国人領主も次々に平定、地位を失いつつあった守護大名山名氏を但馬因幡の戦国大名山名氏へと成長させました。

 

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山名祐豊、後継者の早世で意気消沈

逃げ回る足利義昭

 

但馬国の支配下に入った因幡国では、山名豊定の没後、祐豊の長男の山名棟豊が継ぎますが、早死にし、豊定の子の山名豊数が継承します。その後、因幡山名氏は新興勢力である毛利元就(もうりもとなり)とも手を結んだり、対立したりしつつ因幡国人および因幡守護家を支援し勢力を拡大しようとする出雲尼子氏ら周辺諸国と抗争を続けます。

 

但馬国の戦国大名、山名祐豊には山名棟豊(やまなむねとよ)山名義親(やまなよしちか)山名堯熙(やまなたけひろ)の3人の子供がいましたが、棟豊は因幡国で若くして死去します。そこで、義親が嫡男となり足利義昭より偏諱(へんき)を受け氏煕より昭豊(あきとよ)と諱を改めさらに義親と改めますがこちらも若死にしました。

 

豊臣秀吉に仕える仙石権兵衛秀久

 

山名祐豊は天正8年、織田信長の重臣羽柴秀吉、羽柴秀長の軍勢に取り囲まれ、降伏後しばらくして死去します。祐豊の三男、山名堯熙は、落城前に因幡国へ敗走します。

 

但馬平定に続き、秀吉による因幡侵攻が始まると、山名堯熙は八木氏、垣屋氏ら旧山名家重臣らとともに羽柴氏に従い因幡攻めへ従軍。羽柴家の要請により鳥取城に籠もる敵方の主要な付城である因幡国八東郡私部城を奪取して入城、鳥取城落城と因幡平定に貢献しました。

 

但馬国は播磨と併せて羽柴氏の根本領地となり、生野銀山からの莫大な財力と但馬兵は後の羽柴氏と明智光秀との戦を支え続ける事になります。

 

秀吉に降伏した堯熙は請われて馬廻衆(うままわりしゅう)(親衛隊)として仕えることとなり天正9年(1581年)因幡国八東郡のうち二千石の所領を認められました。堯煕は、その後播磨国加古郡(はりまのくにかこぐん)に二千石で転封され、近習に列しその後五千石が加増されます。秀吉没後、堯熙の子山名堯政は豊臣秀頼に仕えます。

 

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不甲斐ない因幡守護、山名豊国

中国大返し(豊臣秀吉)

 

永禄3年(1560年)、因幡守護、山名豊定が死去します。その跡を継ぐため但馬から派遣された山名祐豊の子棟豊は永禄4年(1561年)に早世。次いで豊定の子、豊数が因幡山名家の家督を継承しました。

 

山名豊国は豊数の弟として、支城であった因幡岩井城の城主となりますが、のちに敵対した兄の豊数やその家老の武田高信によって城を追われ隣国の但馬国八束まで落ち延びます。

 

しかし、永禄7年(1564年)兄の豊数も死去します。ここで豊国は山中幸盛ら尼子氏残党軍の支援を得て因幡山名家の家督を継承しました。すでに尼子氏の援助を受けないと家督も継げないほどに因幡山名家は衰えていたのです。

 

ところが、天正元年(1573年)、山名豊国は、毛利氏の武将、吉川元春に攻められ降伏。毛利氏の軍門に下り、毛利氏の当主毛利輝元より偏諱を受けて元豊と名乗りますが、東から勢力を伸ばす織田氏と誼を通じて「元」の字を捨てて豊国に改名します。

 

戦国時代の合戦シーン(兵士モブ用)

 

天正(てんしょう)8年(1580年)に織田氏の武将羽柴秀吉が侵攻します。山名豊国は鳥取城に籠城しますが、重臣の中村春続(なかむらはるつぐ)森下道誉(もりしたどうよ)ら家臣団が徹底抗戦を主張する中、単身で秀吉の陣中に赴き降伏します。

 

山名豊国は秀吉を通じて助命され、城主を失った鳥取城には毛利氏からの援将として吉川経家が送り込まれて依然として織田氏に対し抵抗を続けました。

 

そして、翌天正9年(1581年)豊国は、吉川経家や自分の旧家臣が籠もる鳥取城攻めに秀吉と共に従軍します。豊国が籠城した先年は鳥取城に兵糧攻めは通じませんでしたが、この年の再度の兵糧攻めで鳥取城は落城します。

事実上、毛利氏の傀儡(かいらい)とはいえ、城内の人間を裏切ったばかりか、それを攻める側に回った豊国の胸中はどのようなものだったでしょう。

 

秀吉の軍に下った豊国でしたが、秀吉からの豊臣氏への仕官の話は断り、浪人となったと伝えられ、のちに摂津国川辺郡の小領主・多田氏の食客となり慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍、亀井茲矩(かめいこれのり)軍に加わり参戦しています。

 

慶長6年(1601年)には但馬国内で一郡(七美郡全域)を与えられ、6700石を領します。事実上、但馬山名家が断絶したこともあり、江戸幕府政権下では但馬山名家の血筋である豊国の家系が山名氏宗家扱いとなりました。

 

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尼子氏の傀儡となった伯耆守護 山名澄之

 

鳥取県の領域となる伯耆国の戦国時代はかなり複雑です。文明3年(1471年)9月に伯耆守護の山名豊之(やまなとよゆき)が殺害され、文明5年(1473年)に本家当主の山名宗全と伯耆守護を継いだ山名教之(のりゆき)が相次いで病没します。

 

一気に山名氏が混乱していく中で、伯耆守護職を継承したのは山名之弘(やまなこれひろ)でしたが、その後兄弟同士で伯耆国の守護を巡る争奪戦が発生し、之弘は弟の元之(もとゆき)に守護職を譲っています。

 

この元之は赤松氏の後援を受けて伯耆守護になったので、家中の評判は最悪ですぐに対抗馬として、文明11年(1479年)には甥の山名政之(やまなまさゆき)と抗争になり敗れて赤松氏の領地があった美作国に逃亡しました。

 

山名政之は、長享元年(1487年)頃に亡くなり、弟の山名尚之(やまななおゆき)が伯耆守護となります。

 

さて、2代前の伯耆守護、山名之弘を父とする山名澄之は、当時勢力を伸ばしていた国人勢力の尼子経久の支援を受け、現職守護の山名尚之との争いに勝利し、尚之とその支持勢力を没落させ永正3年(1506年)12月に守護の座を手に入れました。

 

しかし、尼子氏の力を借りた以上、その実態は守護代として尼子晴久を送られるなど守護職は名ばかりで尼子氏の傀儡でした。尼子氏は伯耆の日野郡を直轄領化し、在地領主連合の日野衆を懐柔。没落した尚之の被官であった国人達を国外へ追放して着々と伯耆国に基盤を形成していきます。

 

守護家を統制下に置かれ、自らの思うように行動することのできない状況に澄之は徐々に不満を募らせ晩年には尼子氏と決裂し、南条氏ら東伯耆国人衆と美作国衆との間でつくられた反尼子勢力を支援していましたが、天文2年(1533年)頃には死去します。

 

澄之死後、反尼子勢力は尼子氏に解体され、伯耆一円は完全に尼子氏の直轄地となり、伯耆山名家はよりいっそう尼子氏への従属を余儀なくされ、一族は衰退しました。そんな尼子氏も、毛利元就の手により滅ぼされ、伯耆国は毛利氏の支配下に入る事になります。

 

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江戸時代の鳥取県

毛利輝元

 

関ヶ原の戦いの後、西軍に(くみ)した毛利輝元(もうりてるもと)は伯耆国を没収されます。

 

当初、池田恒興(いけだつねおき)の三男長吉が6万石で入封し立藩。その跡を継いだ子の池田長幸は元和元年(1615年)に備中松山藩へ転封になります。代わって宗家の池田光政(いけだみつまさ)が幼少を理由に播磨姫路42万石より、因幡と伯耆32万石に国替になりました。

 

池田恒興

 

池田光政は在封16年の間に鳥取城下町の基盤を整備しています。寛永9年(1632年)備前岡山藩主池田忠雄が死去すると、幕府は家督を継いだ嫡男池田光仲の幼少を理由に鳥取の池田光政と封地を取り替えました。

 

こうして宗家の光政が備前31万5000石になり、分家の光仲が因幡・伯耆32万5000石を治める事になります。以後、廃藩置県まで鳥取県は池田家によって統治されます。

 

鳥取藩池田家は分家筋ですが、池田輝政と徳川家康の二女督姫の間に生まれた忠雄の家系であり、宗家の岡山藩池田家から独立した国持大名として扱われ、松平姓を称する事を許され、外様大名ながら葵紋を下賜されて親藩に準ずる家格を与えられています。

 

因幡と伯耆のうち因幡国内に藩庁が置かれ、伯耆国内では米子に城が置かれて荒尾家が城代家老として委任統治をおこないました。これを自分手政治(じぶんてせいじ)と言います。

 

この他、鳥取藩では、倉吉、八橋、松崎、浦富といった藩内の重要な町にも陣屋がおかれ家老職にある家が代々統治しました。これらの町は他の在郷村とは違い、城下の鳥取と同じ扱いを受け町年寄などの役職が置かれています。

 

徳川斉昭

 

嘉永3年(1850年)11代鳥取藩主池田慶栄(いけだよしひで)が嗣子なくして急死。幕府は水戸藩主、徳川斉昭の五男、五郎麿を鳥取藩主とするように命じます。

 

五郎麿は12代藩主慶徳となりますが、15代将軍徳川慶喜の同年の異母兄であったため、藩は幕府は立てるが尊王という微妙な立場をとりました。鳥取藩内でも、尊王派と親幕派の対立が激しくなり文久3年(1863年)には京都本圀寺(ほんこくじ)で尊王派藩士による親幕派重臣の暗殺事件(本圀寺事件)が発生しています。

 

幕末 大砲発射

 

禁門の変で親しい関係にあった長州藩が敗戦し朝敵となると、これと距離を置くようになるも鳥羽・伏見の戦いからの戊辰戦争では官軍方につき、志願農兵隊山国隊などを率いて転戦し、維新では勝ち組になりました。

 

戦功賞典(永世禄)においては薩長土に次ぐ3万石を賞され、明治政府に登用された鳥取藩士は、河田左久馬(かわたさくま)北垣晋太郎(きたがきしんたろう)、原六郎、そして琉球処分官として有名な松田道之(まつだみちゆき)などがいます。

 

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鳥取県の黒歴史、島根県へ吸収

幕末77-14_錦の御旗

 

明治4年鳥取県が成立しますが、この頃は因幡と伯耆に加え但馬や播磨の一部飛び地、それに隠岐も行政区でした。ところが明治9年になると状況は一転、鳥取県は隣の島根県に吸収されて消滅してしまいます。

 

鳥取県が廃止されて島根県に併合された理由は分かりませんが、明治政府は江戸時代に石高が大きかった藩は取り除き適正な大きさにする方針があったようです。こうして島根県は鳥取県の岩美町から島根県の益田市までおよそ320キロの細長い県になります。

 

しかし、県庁所在地は島根県の松江に置かれ、鳥取県の県庁や師範学校、裁判所は支所になりました。必然的に経済は島根県中心になり、旧鳥取県エリアの人々は政治や経済から取り残されていきます。

 

そこで、鳥取県の有志が島根県から分かれて再び鳥取県を取り戻そうと愛護会を結成し運動を起こします。それらの団体には共斃社(きょうへいしゃ)と言う暴力的な団体もいて社会問題になりました。

 

鳥取県再設置運動は明治政府を動かし、明治14年、参議であった山県有朋(やまがたありとも)が来県し2週間かけて島根県を巡視。鳥取の交通の不便さや生活に苦しむ士族の様子を見て、島根県を分割し鳥取県設置が急がれると報告しました。

 

明治14年8月30日、太政大臣三条実美、寺島宗則(てらじまむねのり)、山県有朋、伊藤博文、西郷従道(さいごうつぐみち)が協議し鳥取県が再設置されます。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

鳥取県は、一度設置された県が島根県に併合されて消えるという未曽有の危機を体験しました。江戸時代には池田氏の鳥取藩が統治し、戦国時代には毛利氏や尼子氏、織田氏の間で争奪戦が起きますが、南北朝期から戦国中期まで2世紀以上、山名氏の支配を受けました。

 

それ以前には、三木一草(さんぼくいっそう)として知られる名和長年が北条得宗家の支配を破って伯耆の支配者になり、平安末期には隣国に影響を及ぼすほどの大規模な源平合戦が起きています。

 

安定と動乱が交互に来ている感じの鳥取県ですが、今後はどんな事が起きるのでしょうか?

 

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カワウソ編集長

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