宮崎県の戦国時代を解説!大和朝廷と戦い鎌倉御家人と争った隼人国の歴史


名古屋城

 

戦国時代は近畿や関東だけで起きていたのではない!

 

そういうコンセプトで始まったご当地戦国特集、今回は南国宮崎県を紹介します。

 

南九州の中間に位置する宮崎県は、大和朝廷の時代には勇猛果敢(ゆうもうかかん)隼人(はやと)の国として恐れられ、鎌倉時代以後は鎌倉から降りてきた島津氏や伊東氏の御家人勢力と土着国人との激しい抗争が続いていく骨っぽい歴史を紡いできた国でした。それでは、宮崎県の戦国時代を見ていきましょう。

 

 

石器時代の宮崎県

縄文人 縄文時代の狩り

 

宮崎県に人間が住み始めたのは、中期旧石器時代の終わり約5万年前頃のようです。

 

遺跡には、西臼杵郡日之影町(にしうすきぐん・ひのかげちょう)出羽洞窟(でわどうくつ)児湯郡(こゆぐん)川南町(かわみなみちょう)後牟田遺跡(うしろむたいせき)があり、出羽洞窟からは、片刃(かたば)両刃(りょうば)礫器(れきき)、後牟田遺跡は集石遺構(しゅうせきいこう)斜軸尖頭器(しゃじくせんとうき)鋸歯縁石器(きょしえん・せっき)が出土しています。

 

弥生時代の宮崎県は青銅器が出土しない一方で、(えぐ)り入り方形石包丁(ほうけいしぼうちょう)という独特な石器が出土、また地理的な事情から渡来鉄器や中九州地方(なかきゅうしゅうちほう)の鉄器が出土しています。このように九州の県である宮崎では、他の地域とは一風違った文明が育まれました。

 

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神話の郷 宮崎県

スサノオノミコト(日本神話)

 

現在の宮崎県である日向地方(ひゅうがちほう)は、文字の無い神話時代を記した「古事記(こじき)」や「日本書紀(にほんしょき)」に数多く出現します。

 

代表例としては、天照大神(あまてらすおおみかみ)素戔嗚尊(すさのおのみこと)(の孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が、天界である高天原(たかまがはら)から高千穂(たかちほ)の峰に降臨した天孫降臨(てんそんこうりん)の逸話や瓊瓊杵尊の弟の饒速日命(にぎはやひのみこと)が、天照大神より十種の神宝(しんぽう)を授かり天磐船(あまのいわふね)という空飛ぶ船で近畿地方に天降(あまくだ)って稲作を伝えた逸話。

 

また、瓊瓊杵尊の息子の山幸彦(やまさちひこ)が兄の海幸彦(うみさちひこ)を懲らしめて、隼人が大和朝廷に仕える契機になった等の逸話などがあります。どうして畿内の大和朝廷から遠く離れた宮崎で、大和朝廷に由来する神話が多いのか?それはもう少し後で詳しく解説します。

 

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古墳時代の宮崎県

前方後円墳(古墳)

 

古墳時代になると大陸の部民制(べみんせい)の影響も強まり、技術も発達して今井野遺跡(いまいのいせき)では鉄器製造の鍛冶工房跡(かじこうぼうあと)が出土し4世紀以降には新田原(にゅうたばる)茶臼原(ちゃうすばる)西都原(さいとばる)本庄(ほんじょう)六野原(むつのばる)生目(いきめ)のような土地に畿内型古墳群(きないがたこふんぐん)が登場します。

 

 

飛鳥時代から奈良時代の宮崎県

京都御所

 

ところが飛鳥時代(あすかじだい)に入った7世紀の初頭には日向国の記述が乏しくなり、推古天皇の時代の「馬ならば日向の(こま)」という記録程度しかなく、大和朝廷と日向国の関係は不明になっていきます。

 

どうして、一時は盛んに古事記や日本書紀に詳細が記録された日向国の記述が減るのでしょうか?それは実際日向国が大和朝廷の支配下に入ったのが古墳時代よりずっと後の7世紀の終わり頃であった事が影響しています。

 

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大和朝廷の支配正当化のため日向国は神話の郷になる

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大和朝廷としては、南九州の隼人を武力で併合した後ろめたさを逃れ、支配を正当化したい思惑がありました。そこで、古事記や日本書紀の神話の時代に日向国を多く登場させ、日向国が遥か昔から大和朝廷の支配を受けていたのだと主張したのです。

 

そのせいか、律令で日向国が置かれた正確な時期も定かではなく、7世紀中期以降に対隼人征伐の前線基地として整備されたと考えられます。元々の日向国は薩摩国(さつまのくに)大隅国(おおすみのくに)を含む広大な領域でしたが702年に薩摩国が分離、713年に大隅国が分立しました。

 

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遠国として左遷の地となり大宰府の管理を受ける

日向国

 

日向国は律令制では、大上中下のうちの中国(ちゅうこく)とランク付けされ、大和朝廷から(かみ)(すけ)(じょう)(さかん)の四等官とそれを補佐する史生(しせい)が派遣されます。しかし、畿内から遠い事から日向国への人事は左遷が多く、また大和朝廷の支配が届きにくいので掾以下の人事権や四度使の監査などで筑前国大宰府の管理下に置かれました。

 

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薩摩島津氏の祖、島津忠久が日向国の守護になる

坂東武士A(モブ)

 

文治(ぶんじ)元年(1185年)惟宗忠久(これむねただひさ)が主筋にあたる近衛家の島津荘の下司職(げすしょく)に輔任を受け地頭を兼任。惟宗忠久は島津左衛門尉忠久(しまづさえもんのじょうただひさ)と名乗り薩摩島津氏の祖先となります。

 

その後、忠久は日向、薩摩、大隅の三ヵ国守護となりますが建仁2年(1203年)比企能員の変に連座。三州の守護を解任された上に、薩摩以外の地頭職を剥奪されました。

 

謀反の疑いで謀殺され比企能員

 

こうして、日向と大隅の地頭職は比企氏を滅ぼして勢力を拡大した北条氏赤橋流(ほうじょうしあかはしりゅう)に与えられる事になります。赤橋流は北条義時の三男で極楽寺流を興した北条重時(ほうじょうしげとき)の次男、北条長時(ほうじょうながとき)から始まる支流で得宗家に次ぐ家格を有していました。

 

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はじめての鎌倉時代

 

 

鎌倉以後、伊東氏、土持氏、三田井氏が勢力を争う

炎上する城a(モブ)

 

一方、日向国北部の宇佐神宮(うさじんぐう)宇佐宮荘(うさみやそう)では、東部の(あがた)土持氏(つもちし)が西部の山間部を三田井氏(みたいし)が地頭として勢力を広げますが、鎌倉御家人の伊東氏が地頭職を得て赴任、既存勢力と対立しつつ支配を定着させていきます。

 

鎌倉幕府が倒れると北条氏赤橋流も北条氏と運命を共にし滅亡します。

 

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源頼朝

 

 

一時は宮崎県でブイブイ言わせた畠山直顕

馬にのり凱旋する将軍モブ(兵士)武士

 

その後南北朝時代に入ると、北朝より南九州の大将として畠山直顕(はたけやまなおあき)が日向国に派遣され南朝方の勢力と対立します。

 

日向に入った直顕は国富荘の土持氏や日下部氏(くさかべし)を幕府に味方させ、建武5年(1338年)には伊東祐広(いとうすけなり)野辺盛忠(のべもりただ)、さらには最も強力な三俣院(みつまたいん)肝付兼重(きもつきかねしげ)も味方につけて九州平定を果たしました。

 

しかし、直顕は山っ気がある人物のようで、この後で尊氏から離れ弟の直義に接近します。康永4年(1345年)直顕は幕府より日向守護に任じられますが、その影響力は大隅にまで及んだので薩摩の島津貞久(さだひさ)との間に抗争が起こります。

 

その後、直顕は幕府が内輪もめを始めたのに乗じて九州に自分の領国を築こうと画策。観応の擾乱(かんのうのじょうらん)が起きると足利直義(あしかがただよし)の養子、足利直冬(あしかがなおふゆ)について幕府から離反して独立を推進しますが、志布志城(しぶしじょう)の戦いで島津氏久(うじひさ)(貞久の子)に敗れて大きなダメージを受けました。

 

城から逃走する斎藤龍興

 

さらに氏久に敗北して間もなく、今度は南朝の懐良親王(かねながしんのう)推戴(すいたい)する菊池武光(きくちたけみつ)の遠征軍に大敗。これで九州の国人勢力の支持を失った直顕は延文3年(1358年)には豊後方面に逃走し、その消息は途絶えました。

 

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源義経

 

 

九州探題との争いを制し島津氏が日向国を支配

鉄甲船

 

その後、九州には室町幕府の出先機関である九州探題(きゅうしゅうたんだい)が置かれ、幕府管領(かんれい)細川頼之(ほそかわよりゆき)の推薦により今川貞世(いまがわさだよ)了俊(りょうしゅん))がボスとして君臨。南朝勢力の掃討と九州御家人の室町幕府への取り込みを進め、さらに李朝からの使者も迎え日明貿易に関わるなど大活躍します。

 

しかし、後ろ盾の細川頼之が康暦(こうれき)の政変で失脚すると今川貞世は九州探題を解任され、後任には頼之の政敵、渋川満頼(しぶかわみつより)が就任。以後九州管領は渋川氏の世襲となりますが、渋川氏の統治は島津氏や大友氏のような土着の国人の反発を招いた上に、幕府側の少弐氏(しょうにし)とも対立するようになり、日向に支配力を及ぼす事に失敗。結局日向国は島津氏の勢力下に入ります。

 

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北条義時

 

 

室町時代に島津氏分裂、伊東義祐が日向国の大半を支配

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しかし、15世紀に入ると島津氏も内輪もめを起こし六つの勢力に分裂します。こうして、島津氏による日向国の支配が弱体化し、日向北部は土持氏、中央部は伊東氏、南西部は北原氏(きたはらし)、南東部は豊洲島津氏(ほうしゅうしまづし)北郷氏(きたごうし)新納氏(にいろし)という島津一族を中心に各地の国人領主が血で血を洗う抗争を繰り返しました。

 

日向国では、北部の土持氏が中央部の伊東氏に吸収されて、大友氏に救援を求めて逃げていき、次に南東部で勢力を持っていた新納氏が薩州島津氏により領地を追われます。

 

南西部の北原氏は姻戚関係にあった伊東義祐により家督争いに付け込まれて領地を乗っ取られ、さらに義祐は豊洲薩摩氏を飫肥(おび)から追い出し、日向国の主要部分を支配しました。

 

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戦国時代後期、伊東氏が島津氏に敗れるが…

島津義久

 

こうして、南九州の覇権は、伊東氏と島津氏の戦いとなりますが、伊東氏は1572年の木崎原(きざきはら)の戦いに大敗して多くの有力な家臣を失います。さらに、伊東義祐(いとうよしすけ)の贅沢な生活により領内はガタガタになっていて、島津義久は島津四兄弟を率いて北上しました。

 

追い込まれた伊東義祐は豊後の大友宗麟(おおともそうりん)を頼るものの、1578年の耳川(みみがわ)の戦いにおいて島津氏は大友氏に大勝。島津氏により日向国は支配されます。

 

バテレン追放令を発令した豊臣秀吉

 

しかし、九州統一寸前まで進んだ島津氏も天下人豊臣秀吉の九州征伐には敵わずに降伏。秀吉は日向国を島津から取り上げ、功績のあった家臣に配分する事になりました。

 

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秀吉の九州征伐後の宮崎県の戦国大名

中国大返し(豊臣秀吉)

 

秀吉は島津氏を討伐した後に、自分に従った九州の大名に領地を分配しました。

 

伊東祐兵(いとうすけたけ) 飫肥5万7千石(飫肥藩)
秋月種長(あきづきたねなが) 串間(くしま)3万石(高鍋藩)
高橋元種(たかはしもとたね) (ふりがな)あがた延岡)5万3千石(延岡藩)
島津豊久(しまづとよひさ) 高城(たかじょう)2万8千石(後、薩摩藩支藩佐土原藩)

 

この4つの藩は、延岡藩以外は大名家が変わる事無く、関ケ原の戦い以後も徳川幕府に領地を安堵され、そのまま幕末まで継続していく長生き藩になります。

 

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江戸時代の宮崎県

天下を収めた徳川家康

 

徳川幕府は、日向国に大きな大名を置かず、幕府の直轄領地である天領と小藩に分割して統治する事になります。以下は日向国五郡の大名及び幕府直轄領の分布です。

 

臼杵郡(うすきぐん) 幕府領(西国筋郡代(さいごくすじぐんだい)人吉藩預地(ひとよしはんあずかりち))、延岡藩、高鍋藩
那珂郡(なかぐん) 幕府領(飫肥藩(おびはん)預地)旗本領、飫肥藩、佐土原藩(さどはらはん)高鍋藩(たかなべはん)
児湯郡(こゆぐん) 幕府領(西国筋郡代)高鍋藩、佐土原藩
宮崎郡(みやざきぐん) 幕府領(飫肥藩預地)旗本領、延岡藩、飫肥藩
諸県郡(もろかたぐん) 幕府領(西国筋郡代)旗本領、高鍋藩、薩摩鹿児島藩

 

日向国の石高は関ケ原の戦い以後でも、22万8千石に過ぎず、その中に幕府の直轄地と4つの藩、それに熊本の人吉藩の支藩があるのは幕府が宮崎県を危険視し大きな勢力を持つ大名が出現しないようにモザイク統治を施したと考えていいかと思います。

 

 

幕末の宮崎県

幕末 大砲発射

 

幕末に入ると、日向諸藩は隣接する薩摩藩の圧迫を受け戊辰戦争では、高鍋藩、飫肥藩、佐土原藩が倒幕側として参戦します。とくに薩摩藩の支藩である佐土原藩主島津忠寛(しまづただひろ)は、2万8千石の小藩ながら奮戦し、明治政府から3万石の賞典禄(しょうてんろく)を授与されています。

 

一方の延岡藩は譜代大名内藤家が藩主を勤めていた経緯から倒幕には与しませんでしたが、積極的に薩長軍と戦ったわけではなく、偶々戊辰戦争の時期に延岡藩の藩兵が大坂警護の任務についていたというだけでした。

 

窮地に陥る延岡藩主内藤政挙(ないとうまさたか)ですが、早い段階で薩摩藩や熊本藩が冤罪(えんざい)を解くために周旋した結果、部下の監督不行き届きの罪で100日の謹慎処分を受けただけで済み、明治維新後、内藤家は華族に列し明治17年には子爵を受けています。

 

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廃藩置県後に鹿児島県に吸収される

幕末軍服姿の西郷どん 西郷隆盛

 

明治維新後、版籍奉還を経て、廃藩置県が断行されます。これにより、現在の宮崎県域には飫肥県、延岡県、高鍋県、佐土原県、鹿児島県、人吉県(ひとよしけん)が設置されました。

 

しかし、多すぎるという事で府県合併により美々津県と都城県に再編され、その後1873年に旧日向国の領域を持つ宮崎県が設置されました。

 

県庁は、県の中央部に設置する事が望ましいとされたので、当時、寒村であった宮崎郡上別府村に県庁が移されます。ところが明治9年(1876年)8月21日に宮崎県は鹿児島県に合併、宮崎県庁は支庁へ格下げされました。

 

ここに来て、宮崎県は一度、地図の上から消えてしまったのです。

 

廃藩置県のために鹿児島から戻った西郷どん

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ガンバレ徳川

 

 

西南戦争を契機に分県運動が起きて宮崎県復活

国会議事堂

 

鹿児島県との合併の翌年、宮崎県民としてはタイミングの悪い事に西南戦争が勃発。当時鹿児島県だった日向地方も主戦場となり宮崎県土は荒廃してしまいます。

 

しかし、鹿児島県はホームである薩摩・大隅地域の復興を優先してしまい、日向地域の復興を後回しにしたので、日向地域の鹿児島県に対する不信と反感が増大しました。さらに当時、日本は凶作に見舞われ地租軽減を叫ぶ農民と自由民権運動が合体して政府を突き動かしていました。

 

ほの日新聞(書類)

 

凶作により、鹿児島県の歳入も減少、日向地域に交付する予算より、徴収する税金が多いという有様になります。こうして日向地域の人々の不満が高まっている所へ明治13年(1880年)徳島県が高知県からの分離を果たしたというニュースが伝わります。

 

ここで「西南戦争で落ち目になった鹿児島県に属しても良い事はないから分離して、もう一度、宮崎県を興そう」という機運が高まりました。

 

そして、旧飫肥藩士川越進(きゅうおびはんし・かわごえすすむ)を中心に明治15年(1882年)に宮崎県再設置の案が鹿児島県会に提出されますがこのときは否決されます。しかし、川越進が県議会議長となった明治16年3月の県議会で再度案は提出され今度は可決し、5月9日に太政官達示(だじょうかんたっし)により宮崎県再置が決まり、旧日向国の中から、志布志郷・松山郷・大崎郷を除いた地域で宮崎県が再置されました。

 

江戸時代の日向国は飫肥藩、延岡藩、高鍋藩、佐土原藩、薩摩藩が分立した事情から、住民の「日向国人(ひゅうがこくじん)」としての意識は希薄でしたが、宮崎県再置の為の鹿児島県からの分県運動は、日向国人が一体となって行動した初めての出来事でした。

 

一方、当初は分県に反対していた鹿児島県ですが、日向地域を切り離した方が財政上は有利になるという事が分かり、一転して分県に賛成ではないものの強く反対しなくなったそうです。

 

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宮崎県民の性格

ご飯を食べる薩摩藩士

 

宮崎県は温暖な気候なので典型的な南国風土になっています。厳しい冬がなく土地も豊かだったため、それなりに頑張ると生活できたので他人を蹴落とすような競争意識とは無縁です。

 

そのため、人を騙したり利用しようと考える人が少なく、性格は温厚で善良、陽気な正直者が多く、他府県人でも友達としては付き合いやすいと言えます。ただし大酒飲みが多く、焼酎を飲めないと馬鹿にされてしまうので下戸の人はつきあいにくいかも知れません。

 

一方で宮崎県民は、必死にガツガツ行く事がない楽天的な性格から、どんな事でも「よだきい」と面倒くさがるのが特徴です。

辛抱強さとも無縁で行き当たりばったりで計画性に乏しく、積極性も決断力もありませんので、もしビジネスパートナーとするなら他府県人は振り回されて苦労するかも知れません。

 

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今回は宮崎県の歴史を紹介しました。

 

元々、大和朝廷とは異質な九州隼人族が住んでいた宮崎県は、勇猛果敢な戦士であり、大和朝廷はその支配に手を焼いて、古事記、日本書紀に日向国と神話を結びつけた逸話を多く載せて、日向国支配を正当化しようとする程でした。

 

鎌倉時代以降は、土着の豪族と鎌倉から下って来た伊東氏、島津氏のような勢力が激しく争い、そこに南北朝の動乱が加わり、畠山直顕のような一代の風雲児が誕生したりしますが、敗戦であっという間に人望を失い、その後は戦国期にかけて、伊東氏と島津氏の血で血を洗う抗争が続いた末に、島津氏の支配が回復します。

 

ところが島津氏の天下も天下人豊臣秀吉の九州征伐で儚く潰えてしまい、日向は島津征討に協力した九州の大名と島津氏の支藩によって分割統治され、その後、関ケ原を経て幕府直轄地が置かれて廃藩置県を迎えます。

 

薩摩と大隅を支配する鹿児島県との諍いは西南戦争後も続き、一度消滅した宮崎県は、鹿児島から分離して再設置されました。

 

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カワウソ編集長

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日本史というと中国史や世界史よりチマチマして敵味方が激しく入れ替わるのでとっつきにくいですが、どうしてそうなったか?ポイントをつかむと驚くほどにスイスイと内容が入ってきます、そんなポイントを皆さんにお伝えしますね。日本史を勉強すると、今の政治まで見えてきますよ。
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