今回のほのぼの日本史は、四国の戦国大名長宗我部氏三代を解説します。初代国親の時代から土佐で勢力を拡大し、元親の時代に四国統一まで達成した長宗我部氏でしたが、三代目の盛親の際に滅亡します。
そしてこの三代はどのようにして継承されて行ったのか?その出自から末代まで紹介します。
この記事の目次
秦の始皇帝を始祖とする長宗我部氏
長宗我部氏の出自は、史料が乏しくあくまで自称の範囲で、中国・秦の始皇帝の末裔といいます。
そして聖徳太子の時代に日本に渡来してきた秦氏秦河勝は、聖徳太子と蘇我馬子とともに、宿敵の物部守屋を倒した功績が認められ、与えられた信濃の国に子の広国を派遣します。
やがてその子孫の中に平安末期から鎌倉初期にかけて活躍した秦能俊という人がいました。そして土佐国(高知県)長岡郡宗部郷の地頭に任命されます。
能俊は土佐に移動し、当時その場所が土佐国宗我部郷という理由から長宗我部能俊を名乗ります。そして「宗我部」ではなくその前に「長」をつけたのには理由がありました。近くにもうひとつ宗我部を名乗る一族がいるのです。そこで区別するために長岡郡の「長」を頭に追加しました。
ちなみにもうひとつの一族は「香美郡」ということで、香宗我部氏を名乗ります。長宗我部氏は岡豊山に城を築き、そこを居城として鎌倉から室町、戦国時代にかけて国人領主として勢力を蓄えていきます。
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長宗我部国親が当主となる
長宗我部氏は順調に19代の兼序の時代まで続きました。兼序は土佐守護の細川政元に仕えていましたが、政元は京都にいるため実質的に兼序がこの地を支配しています。
ところが室町幕府のナンバー2、管領である政元が背後にいることに加え、応仁の乱に京から土佐に下向して大名となった一条氏の後ろ盾があることを理由に、兼序は周囲の豪族たち相手に傲慢に接します。
1507(永正4)年に政元が暗殺されると、それまで傲慢だった兼序に対して本山氏ら地域の諸豪族たちが同盟を結び、兼序に攻撃を仕掛けます。さらに見方からも離反者が現れ、ついに岡豊城で翌1508(永正5)年に兼序は自害。
ここで長宗我部氏はいったん滅んでしまいます。しかし兼序には子供・千雄丸がいましたが、このときにうまく城を落ち延び、一条房家の元に逃げ込みます。
この千雄丸こそが後の長宗我部国親で、房家は国親を保護養育し、長宗我部家の再興に尽力しました。20代国親として1518(永正15)年に家督を継ぎます。この際に時の管領・細川高国から国の字をもらっています。
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長宗我部国親の時代に起こったこと
長宗我部国親は態勢を整えながら内政と軍備を充実させていきます。1544(天文13)年にはかつて父・兼序を攻撃した本山宗茂の嫡男・茂辰に娘を嫁がせて親族になると、周辺の抵抗勢力を次々と攻略。
国親の勢力拡大で、近隣の領主たちが次々と国親に従います。さらに三男・親泰を、香宗我部氏に養子に送り込むことで従属化に成功。気が付けば土佐国人のほとんどが国親の傘下に入ります。こうして国親の時代には現在の高知平野に該当する部分も制圧していき、長宗我部氏が土佐で再び力を蓄えます。
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父国親の急死により長宗我部元親が家督を継ぐ
長宗我部元親は、国親の長男。当初から後継者として1560(永禄3)年5月、数え23歳で初陣に参加。その際には自ら槍を持って敵陣に突っ込み、その武勇が一気に高まります。ところが翌6月に国親が急死。
しかしここで家督争いなどは起こることなく元親が相続しています。初陣の際には後に土佐吉良氏の婿養子になる親貞も参戦していました。しかし親貞が家督争いをすることはありません。元親が元々長男ということと、その武勇の高さから特に問題なく家督が継承されています。
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長宗我部元親の時代に起こったこと
長宗我部元親の時代にはライバルだった本山茂辰を追い詰めていき、あっという間に土佐統一に向けて動き出します。当時中村を拠点にしていた公家大名の一条氏と共同して戦い1568(永禄11)年に本山氏は滅亡し、土佐中部を平定。
その後、土佐東部も抑えると、西部にいた一条氏の内紛に介入し、一条兼定を追放しました。その子、一条内政に娘を嫁がせて実質的に一条氏を傘下に収め、ついに土佐を統一します。そして畿内で勢力拡大していた織田信長と同盟。
そのまま伊予、阿波、讃岐の四国の各地を侵攻していきます。ところが信長は1580(天正8)年に、元親に臣従を迫りますが、元親は拒絶。信長は元親への対抗策として三好康長・十河存保らに攻撃させます。
さらに1582(天正10)年には信長三男・神戸信孝を総大将とした四国遠征軍が編成され、元親最大の危機を迎えました。ところが、ここで本能寺の変がおきて信長が死亡。四国軍は撤退し危機を乗り越えました。元親は四国を平定しますが、今度は秀吉と対立。
小牧長久手の戦いで徳川方につくなど秀吉と対抗しながら、伊予を攻撃。通説では1585(天正13)年に四国全土を統一しました。しかしその後、秀吉と激突し秀吉に降伏。豊臣政権下では土佐の大名となり、小田原の戦いや朝鮮出兵に参加しました。
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兄の討死で家督を継いだ四男 長宗我部盛親
22代当主の長宗我部盛親は、元親の四男でした。本来なら家督を継ぐ立場ではありません。
しかし当初後継者とされていた長男の信親は1587(天正14)年に秀吉による九州平定に参加した際、戸次川の戦いで戦死します。
この際に次男で香川氏の養子となった後、秀吉の人質となった親和、三男で津野家に養子に出ていながら秀吉の人質となった親忠との間で家督相続をめぐって争いがおこりました。
これを裁定したのは元親で、結局盛親が家督を継ぎますが、盛親の人望は薄く、反対する者も多い状況。それでも元親は、秀吉の人質になった兄たちではなく、盛親に家督を譲りました。そして元親が健在なうちには二頭政治を行います。
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長宗我部盛親の時代に起こったこと
盛親は家督を継ぐと元親とともに豊臣大名の一員として、小田原や朝鮮出兵に参加します。
1599(慶長4)年に元親が死に、正式に長宗我部の当主となりました。しかし、秀吉は元々盛親より兄に次いでほしいという意向があり、それを父の元親が拒否した経緯から、豊臣政権から承認されていない可能性があります。
関ヶ原では西軍につきました。その理由は盛親は増田長盛らとの縁があり、豊臣政権から認知されようという考えもあったようです。しかしそれが災いとなり、関が原では家康本陣の南宮山に布陣しながら、家康に内応していた毛利隊が動かなかったため、そのまま撤退します。
ここで盛親は井伊直政を通じて謝罪しましたが、兄の津野親忠を殺害した、あるいは、土佐領内で一揆が起こるなどの理由などが重なり家康から改易されてしまいます。こうして大名としての長宗我部氏は滅亡しました。
盛親は大名復帰の運動を続けるなどしましたが、家康は盛親を危険人物とみなしており京都所司代の監視下に置かれていました。その後、大坂の陣が起きるタイミングで、長宗我部の再興を願った盛親は大坂城に入り徳川と戦います。結局敗れ去り逃亡をしますが、捕らえられ処刑されました。
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長宗我部三代の有力家臣
長宗我部3代の有力家臣は次の通りです。
1.国親・元親
吉田孝頼吉田 重俊兄弟。孝頼は国親の妹を妻に迎えた義兄弟。
2.元親
吉良氏・津野氏・香川氏・香宗我部氏など一族を養子に入れることで本家を補佐する体制を取った。
3.元親・盛親
久武親直は、家老として活躍、盛親を支持し、反対派家臣を粛正した。
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盛親以降の長宗我部家
第22代当主盛親には、長男の長宗我部盛恒がいました。順調にいけば23代当主になるはずだった盛恒ですが、父の時代に浪人となり、父とともに豊臣方として大坂の陣に参戦します。ここで敗れ去り父とともに伏見で斬首。
これで長宗我部の嫡流は途絶えてしまいました。しかし、盛親の末弟。つまり元親の六男で直系である康豊は、落城時に脱出に成功し生き延びました。ただ長宗我部を名乗っては命が危ないことから足立七左衛門と名乗ります。
そして徳川家の家臣で、江戸幕府の老中になった酒井忠利の家臣となります。これには逸話があり、当時駿府城主だった忠利が鷹狩りをしているときに、突然刀を持った狂人が現れ、忠利に切りかかります。
当時近隣住民として鷹狩りの手伝いをしていた康豊はその場で、狂人を取り押さえます。このとき忠利は「ただの農民ではあるまい」と康豊を問いただすと、ついに身の上を明かしました。それを聞いて驚いた忠利ですが、自らの命を守ったこともあり、500石(のちに1500石)忠利から与えられます。
足立となって生き残った長宗我部の末裔は酒井氏に仕えながら、最終的には5000石を拝命する重臣になったと伝わります。そのほか国親の四男・親房は島氏を名乗り、土佐藩で牢に入れられたのち下級武士として仕えました。
江戸時代土佐藩では長宗我部への復姓や家紋の使用は禁じられていましたが、明治維新後に再び長宗我部を名乗り、現在の当主は、ジャーナリストの長宗我部友親氏です。
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戦国時代ライターSoyokazeの独り言
長宗我部氏は国親・元親と勢力を拡大しましたが、秀吉の時代に勢力が衰えました。元親の嫡男・信親が九州で命を落としたこと。その後の家督争いで強引に四男盛親に譲ったことが後に家を滅ぼす遠因になってしまいました。
それでも長宗我部氏の血流は完全に耐えることなく、元親六男や国親四男の血筋が生き残り、子孫は現在まで続きました。
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