北条政子は何をした?鎌倉幕府の創設に貢献した尼将軍

22/04/2022


北条政子とラブラブな源頼朝 鎌倉 女性

 

北条政子(ほうじょうまさこ)と言えば鎌倉(かまくら)幕府を作った「源頼朝(みなもとのよりとも)」の妻であり、2代将軍頼家、3代将軍実朝(さねとも)の母として知られていますね。

 

妹の夢を購入する北条政子

 

ドラマなどでは頼朝より前面に出ることもある北条政子ですが、実際には何をした人物なのでしょうか?

 

家を飛び出し源頼朝と交際を続ける北条政子

 

今回の記事ではそんな北条政子の生涯について調べてみましょう。

 

 

 

 

源頼朝との出会い

北条政子 女性

 

北条政子は伊豆の豪族「北条時政(ほうじょうときまさ)」の長女として生まれました。

 

田舎の武家の次男坊だった北条義時

 

兄弟にはのちに北条家の「執権」としての地位を築く「北条義時(ほうじょうよしとき)」がいます。

 

伊豆へ島送りの刑となる源頼朝

 

北条時政は伊豆地方の役人を務めていましたが、当時は平家(へいけ)の全盛期でそれと対立した「源頼朝」らが伊豆に配流されてきます。

 

北条政子と源頼朝の交際に大反対だっ北条時政

 

時政は頼朝らの監視役だったのですが、時政が留守にしている際、頼朝と政子は恋に落ちてしまいます。

 

北条政子と源頼朝の熱愛ぶりに時政も折れる

 

初めは反対された二人の結婚でしたが、その熱意に打たれたのか時政はしぶしぶ結婚を認め、まもなく長女の「大姫(おおひめ)」が誕生します。しかしこれにより北条家は平家との関係は微妙になります。

 

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三国志とりかへばや物語

 

 

 

頼朝の挙兵と政子の嫉妬

鎌倉を拠点にした源頼朝

 

後に頼朝は平家打倒を目指して挙兵し、鎌倉を中心とした東国に勢力を伸ばすことに成功します。

 

北条政子に隠れて愛人を作る源頼朝

 

この頃政子はのちの2代将軍頼家(よりいえ)を妊娠しますが、その妊娠中に頼朝が他の女の所に通っていたことを知り激怒、その女の実家を襲撃させるなどします。

 

源頼朝の浮気相手の屋敷を破壊する北条政子

 

今ならば妊娠中に他の女に通じるのはご法度ですが、当時はありふれた光景でした。また、源氏の棟梁である頼朝は北条家より身分の高い家の女を妻に迎えようとしますが、それも政子の激しい反対でとん挫しています。

 

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はじめての鎌倉時代

 

 

平家を滅ぼすも義経と対立

兄・頼朝の挙兵に参戦する源義経

 

頼朝は弟の義経(よしつね)範頼(のりより)に平家との戦を任せ、自分は東国を経営することに専念します。それに伴う行事に政子も同席し、「源氏の棟梁の妻」としてのポジションを固めていきます。

 

激怒した頼朝、義経討伐を命じる

 

そして「壇ノ浦(だんのうら)の戦い」で平家は滅亡しますが、今度は頼朝と義経が対立することになってしまいます。

 

そして頼朝は義経の妻「静御前(しずかごぜん)」を捕えます。

 

政子は静御前に舞を求め、静御前は「吉野山峯の白雪ふみ分て 入りにし人の跡ぞ恋しき・・・」と義経を思う舞を踊り、それに頼朝は激怒、彼女を殺そうとします。

 

しかし政子は「私もあなた(頼朝)が流人で勝てるか分からない挙兵をしたのは不安でした。あの時の私の思いは今の静と同じです。ここで義経を恋しいと思わないならば、立派な女性ではありません。」と、頼朝を説得し、静を助けています。しかし、生まれた義経の子供の助命は許されませんでした。

 

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源頼朝

 

 

頼朝の死後は鎌倉幕府の実権を握る

尼将軍と称えられた北条政子

 

1199年に源頼朝は亡くなり、政子は出家し、「尼御台(あまみだい)」と呼ばれるようになります。2代目の将軍は長男の頼家が継ぎますが、彼は独裁体制を志向し、多くの御家人(ごけにん)から反発を招きます。

 

また、頼家は家臣の妻を奪ったり、政務より蹴鞠(けまり)に熱中するなど不祥事が相次ぎます。頼家が病床につくと、政子は父の時政と頼家を将軍職から追い出し、実朝に将軍を継がせようと画策します。

 

比企能員 鎌倉

 

頼家側近の「比企能員(ひきよしかず)」はこれを不満に思い、頼家に密告し、頼家は北条家討伐を決断します。しかし、これを政子が障子越しに聞いていたのです。時政は政子からこれを聞き、政子の名前で兵をあげ、比企能員を滅ぼして頼家を幽閉します。

 

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はじめての平安時代

 

 

尼将軍

 

3代将軍は頼家の弟「実朝」が継ぎますが、頼家の息子「公暁(くぎょう)」に殺されてしまいます。これで源氏の正統は途絶え、将軍職は公家や天皇家から迎えることになります。

 

ゴッドマザー北条政子

 

4代将軍は「藤原頼経(ふじわ のよりつね)」が継ぎましたが、まだ幼少のため、政子が将軍の代行をすることになります。そして政子は「尼将軍(あましょうぐん)」といわれるようになるのです。

 

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鎌倉殿の13人

 

 

承久の乱での演説

 

1221年、「後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)」は朝廷の権威回復を狙い、挙兵をします。これが「承久(じょうきゅう)の乱」です。これは「院宣(いんぜん)」(朝廷の命令)によって北条義時の討伐を命じていたので、御家人たちは動揺しました。

 

北条政子による「承久の乱」の名演説

 

 

しかし、ここで政子は御家人たちの前で演説をします(他の御家人が代読した説もあり)。

 

「源頼朝の恩は山よりも高く、海よりも深い。今生活が安定しているのは幕府のおかげである。逆臣を討って、実朝を助けるのです。ただし、院に味方しようとするものは名乗り出るがよい。」

 

坂東武士B(モブB)

 

この演説によって御家人たちは奮起、幕府側は勝利し、以後明治維新まで武士の優位が続くことになるのです。鎌倉幕府の基礎を固めた北条政子は69歳で亡くなっています。

 

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日本史ライターみうらの独り言

みうらひろし(提供)

 

北条政子は日本史では珍しい大きな権力を握った女性でした。しかし、子供を次々と亡くしてしまい、本人は悲しみを背負っていたのかもしれませんね。

 

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北条義時

 

 

 

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みうらひろし

日本史で好きなところは一つの「決断」が大きく世の中を変えてしまうことでしょうか。そんな中でも「決断」にミスをしても、その後復活したりする人物には尊敬をかんじますね。自分もミスしてもあきらめずに過ごしたいものです。
好きな歴史人物:長宗我部盛親、立花宗茂

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