介錯人の1日ルーティーンを分かりやすく紹介。その驚きの実態とは?

04/02/2022


日本戦国時代の鎧(武士・兵士)

 

「それがし槍一筋(ひとすじ)の者で御座(ござ)る!シャキーン!(効果音)」

 

皆さん、こんばんは、かわうそ編集長です。以前、ほのぼの日本史では切腹(せっぷく)の歴史や首斬り浅右衛門(あさえもん)について解説しましたが、今回は切腹と切っても切れない介錯人(かいしゃくにん)について解説しようと思います。

 

具体的には介錯人の一日ルーティーンや介錯人とはどういう人たちなのか?毎日首をはねる仕事をしていたのか?等々について説明し最後は介錯人の生きざまから現代人が学べる教訓までを解説しますので最後まで見て頂けると嬉しいです。

 

介錯人は謎だらけ?

切腹詐欺の徳川慶喜

 

さて、皆さんは介錯人について、どんなイメージをお持ちでしょうか?

 

時代劇で見かけるのは屋敷の庭先に畳を敷き、腹を切る人が白い服を着て座り、その背後にタスキを掛けた介錯人が刀を構え合図を待っているイメージではないですか?

 

でも、介錯人って仕事が江戸時代にあったのでしょうか?一年中、他人の首をはねるのが仕事として成立していたのでしょうか?大体、江戸時代は何百年間も戦争が無かったのに、介錯人はどうやって人の首をはねる技術を習得していたのでしょう?

 

朝まで三国志2017表情 kawausoさん03 怒

 

考えてみると介錯人は謎だらけですね。では、順を追って介錯人について説明してみましょう。

 

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切腹の歴史

切腹する織田彦五郎(織田信友)

 

では、最初に切腹の歴史について簡単に説明します。自分のお腹を裂いて死ぬ自殺としての切腹は平安時代にはあり藤原保輔(ふじわらのやすすけ)という貴族出身の盗賊が悪行を重ねて捕まり牢の中で切腹して死んだ話があります。

 

しかし、当時は切腹が唯一の死に方でもなく、走る馬の上で短刀を首に当てて、馬から飛び降りて死んだり、重い鎧を二両着て川に飛び込んだり毒を飲んで死んだり、多様な?自殺方法がありました。

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

そんな切腹が武士の名誉を守る作法として固定し、切腹が武士の名誉になったのは戦国時代も終わり頃になってからです。

 

どうして切腹が武士に固有の自殺の権利になったのか?

 

第一には、古来日本人はお腹に人の心が宿ると考えていました。今でも慣用句に腹黒いとかいう言葉がありますが、武士は最後に腹を裂いて自殺する事で「私に(やま)しい事は無い潔白だ(腹黒くない)」と周囲に示す意味がありました。

 

そして、もう1つは数ある自殺の中で切腹はめちゃめちゃ痛く、かつ簡単には死ねない自殺方法で誰にでもできる事ではありませんでした。だから武士は度胸と痛みに耐える強さを示すために切腹を選んだのです。

 

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はじめての戦国時代

 

 

激しい激痛が介錯人を産んだ

忙しくて過労で倒れる明智光秀

 

「でも、お腹に刃物を突き立てると出血多量ですぐ死ぬんじゃないの?」

 

そんな風に考えているあなた!そこが素人の赤坂五丁目、お腹を通っている腹部大動脈は背骨の横にあり、生半可な力では刃物がそこまで到達しません。

 

ましてや、肥満体の人が切腹となれば、出血多量で死ぬのは至難の業、それどころか、刃物で傷つけた腸から糞便が体内に流れ出し腹膜炎(ふくまくえん)から敗血症を引き起こし、数日かけて激痛にのたうちながら死を迎えるのがオチです。

 

平安時代に切腹した藤原保輔も腹を裂いて腸を取り出したまではいいものの腹部大動脈までは刃が届かず激痛に呻いて翌朝ようやく死んだそうです。

 

そんなわけで実際に切腹をして死んだ武士は、お腹をそこそこに裂いた上で短刀を腹から引き抜いて刃を返し、そのまま頸動脈を突いて血がドバーっとなり死んでいました。でもですよ…腹を裂いた上に激痛に耐えながら首を突くなんて誰でもできる事ではありませんよね?

 

幕末75-8_久坂玄瑞

 

にもかかわらず、切腹が武士の名誉になってしまったわけで、中には切腹に失敗して「殺してくれ」とわめきながら無残な最期を迎える武士も大勢出てきたのです。

 

このような悲惨な状態を見て、トドメをさしてやろうと首をはねたり、見苦しく残酷な最期を迎えさせない為、最初から介錯人をつける習慣が江戸時代には誕生しました。

 

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WEB版 はじめての三国志

 

 

介錯人の99%は優しさで出来ている

吉田松陰の臨終

 

介錯人は切腹した人の尊厳を守り、痛みと苦しみを最小限にする為に誕生します。バファ〇ンではありませんが介錯人の99%は優しさで出来ているのです。

 

なので、介錯に失敗し首を落とすため何度も刀を振り下ろすなんて事は武士にあるまじき不名誉でした。そのため介錯人は熱心に剣術の修業を続け、一撃で切腹した人の苦痛を取り除く事に全力を傾けました。

 

同時に介錯人は斬首の経験から首の骨のどこを斬れば脂肪に邪魔されずに一瞬で首が切り落とせるかを熟知していたようです。その為に介錯人は高いお金を出して名刀を求め、切腹する人の苦痛を軽減させる最大の配慮をしていました。

 

幕末刀剣マニアの坂本龍馬

 

冒頭で「それがし槍一筋の者でござる。シャキーン!」と言いましたが、あれは介錯人が実際に切腹する人の前で宣言した決まり事で(私は武芸に精通していて首を落し損ねる事はありませんので、安心して下さい)という意味です。

 

今から殺す相手に向かい「安心して下さい」というのも変ですが、介錯人の仕事は切腹する人に惨い苦しみを与えずにあの世に送る事なので、これも介錯人としての精一杯の優しさでした。

 

 

また、介錯人は剣の技量で選ぶので身分は関係ないのですが、身分の高い人が切腹する時には「辱められた」と無念の思いを抱かせないよう上級武士が介錯したそうで、これも切腹する武士に最大限の敬意を払う優しさなのです。

 

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俺達尊攘派

 

 

介錯人という職業は存在しない

名古屋城

 

そんな介錯人ですが彼らの1日はどんなものだったのでしょう?

 

意外なことに介錯人という固定の職業は江戸時代の幕府にも藩にもありませんでした。

 

映画やドラマで有名な首斬り浅右衛門の本業は介錯人ではなく、武士の魂である刀が本当に斬れるのかを死刑囚の首を落して確認する仕事で刀剣鑑定士という方が正確です。刀は人を斬る道具なので試し斬りは死刑囚などの人体を使わないといけませんでした。

 

ただ仕事の性質上、首斬りの技には長けていて依頼を受けて罪人の首をはねたり介錯人を務める事があったそうです。山田浅右衛門については、こちらの動画で詳しく解説しているので、よろしければ御覧ください。

 

 

では、どうして介錯人という職業が存在しなかったのか?

 

それは第一に、頻繁に切腹という事態が起きないので仕事として常設するメリットがない事、もう1つは武士であれば剣術が出来て介錯も出来て当たり前で、だから専門職にしなかったという事です。

 

幕末_密室政治(軍議)

 

もちろん、それは建前で江戸時代も中期になると人を斬った事はおろか、生涯、刀を抜いた事もない武士が多くなるので、いざ切腹という人が出ると家族は親戚縁者を駆けまわり、剣技に長けた武士を探す事になりました。

 

介錯人はこうして職業ではないけれど切腹が存在する限り、必要な技能を持つ人として、なくてはならない存在になります。

 

 

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ガンバレ徳川

 

 

介錯人の一日ルーティーン

 

では、そんな介錯人の一日のルーティーンを見てみましょう。先ほど説明した通り、介錯人は職業ではないので介錯で生計を立てているわけではありません。なので当時の下級武士の生活に即して見てみます。

 

江戸時代の下級武士の起床は午前4時です。もっとも、当時はテレビもスマホも電気すらなく、大抵の人は日が暮れると布団に入り空が白みはじめると自然に目覚めるので、特に早いわけではありません。

 

仙台城

 

そして、この後、身支度してお城に向い、夕方まで仕事かというとそうではないのです。江戸時代は幕府も藩も下級武士は、二日勤めて一日休みが普通です。また勤務日もフルタイムではなく、朝番(あさばん)夕番(ゆうばん)不寝番(ねずのばん)の三交代制でした。

 

石垣を登る忍者

 

不寝番は半日仕事ですが、火事や賊でも来ない限り指定の詰所で待機し時刻通りに見廻ればいい楽な作業で、朝番と夕番は4時間程度の勤務です。こう書くと江戸時代は暇そうで羨ましいなと思いますが、実はよくありません。

 

宋銭 お金と紙幣

 

仕事が少ない代わりに藩から貰う給料もとても少なかったのです。元々、限られた仕事で出来るだけ多くの武士を雇う為に考えられた時短シフトなので、短くて当たり前でした。という事で下級武士は非番の日や朝番、夕番の合間を見て副業に励みます。

 

副業としては傘張りや朝顔栽培、虫かご作りや金魚養殖など室内で出来る仕事が好まれました。外に出る物売りなどは武士の品位を傷つけると禁止されていたからです。

 

こうして365日働いて下級武士はようやく食えるというレベルでした。暇で羨ましいどころか、仕事と寝る時間以外、副業に当てないと食べていけない生活苦に喘いでいたのです。

 

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激動の幕末維新を分かりやすく解説「はじめての幕末はじめての幕末

 

 

剣術修行の一石二鳥の方法

戦国時代の武家屋敷a

 

ですが、こんなに忙しい暮らしをしていて介錯人はどうやって剣の稽古をしていたのでしょうか?答えは剣術の腕を活かし寺子屋や剣術道場を開く事でした。

 

江戸時代も武芸は奨励されましたから、剣術の上手い人がいれば稽古をつけてもらいたいという武士は一定数いました。介錯人は、そういう武士を集めて剣術道場を開き月謝を取ったり、剣術が一定レベルに到達すれば伝書(でんしょ)と呼ばれる奥義書を授けて、この時も謝礼を取りました。

 

日本史 小判(お金)

 

藩によっては伝書を受けている事を仕官の条件としている所もあり、なんとしても仕官したい武士は、多少お金を積んでも伝書を欲しがりましたから、剣術を副業として成り立たせる事も不可能ではありません。

 

こうして道場を開いて介錯人の仕事を立派にこなしていけば評判が上級武士や藩主の耳に届き、藩から支援金が出たり、より高い地位に取り立てられる可能性もありました。

 

泰平の江戸時代に人の首を斬るなんて、嫌な商売と思ってしまいますが、切腹した人を苦しめずにあの世に送れる技術は、地獄の苦しみから切腹した人を救う大事なモノで身を立てるのに十分に役立ったのです。

 

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ながら日本史

 

 

介錯人が現代人に教えてくれる教訓

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

最後に介錯人が現代人に教えてくれる教訓を考えたいと思います。それは精一杯、人の為に頑張る事が巡り巡って自分を助けてくれるという事ではないでしょうか?

 

切腹した人を苦痛から救うために誕生した介錯人は、目の前の人を苦痛から救う為に、出来るだけ苦しみを与えないように殺すという矛盾した役割を背負っていました。

 

しかし、介錯人は「武士の情け」を大事にし、名刀を保有し人体を研究し道場を開いて、大勢の武士に剣術を教えながら、絶えず切腹人の苦痛を減らす事を考えて剣技を磨いてきたのです。

 

だからこそ、尊敬を受け一目置かれる存在になったのでしょう。介錯人の優しさは最後には尊敬として自らに戻ってきたのです。私たちも、正業にしろ副業にしろ、なんらかの仕事をして社会生活を営んでいます。

 

その中で自分の為だけではなく、社会のためという視点を持ち、出来る限りの努力をするならば、それは立派な仕事として評価され、結局は私たちに戻ってくるのだと思います。

 

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