2023年のNHK大河ドラマは「どうする家康」です。
タイトル通り家康が主人公ですが、もう一つ焦点があたるのは個性豊かな家康の家臣三河武士団です。天下人家康の軍団なのに織田や豊臣家臣団より地味な印象の三河武士団とは、どういう集団だったのでしょうか?
家康の右腕と左腕、石川数正と酒井忠次
三河武士団と言っても序列は横並びではありません。理由は家康が独立した頃には三河は分裂状態だったので、家康の最初からの家臣と統一後に入った家臣の中で序列に差がついたからです。
そんな家康の最初期からの重臣が石川家成と酒井忠次でした。三河一向一揆で敵対した上野城の酒井忠尚と東条吉良義昭を破った家康は、最初からの家臣である酒井忠次に東三河の領主層の統治を任せ、石川家成には西三河の領主層の統治を委ねました。
つまり、なみいる徳川家臣団の中でツートップが酒井忠次と石川家成なのです。両者は名目だけの支配者ではなく、合戦では東西三河の国衆や松平一門をひきいて戦う軍団長でもありました。ちなみに石川家成は家康の領地が拡大する中で、別の役割を与えられ西三河の統治を甥の石川数正に委ねています。
どうする家康予備知識
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家康本体を守る旗本集団
次に重要なのが家康本体を守る旗本集団です。彼らは旗本先手衆と呼ばれ、鳥居元忠や本多忠勝、榊原康政、大久保忠世などがいました。
この中でも特に武勇の誉れが高いのが本多忠勝でしょう。忠勝は祖父も父も松平広忠に従い討ち死にしたという忠義の家であり忠勝自身も大小50以上の合戦に参加した剛の者でした。
小牧・長久手の戦いの後、忠勝は豊臣秀吉に目を掛けられ、家康の関東移封後に徳川家の家臣でありながら上総大多喜10万石の大名に取り立てを受けます。秀吉としてはあわよくば豊臣の家臣にしようと考えていたかも知れませんが、忠勝は家康に忠義を尽くし終生裏切りませんでした。
忠勝ばかりではなく、榊原康政や井伊直政も豊臣秀吉に目をかけられ大名に取り立てを受けていますが、いずれも徳川から独立する事無く両属の立場を堅持していました。
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行政を預かる岡崎三奉行
領国を統治するには武勇ばかりではなく領民のために善政を敷かねばなりません。そこで家康は永禄年間の末までに「岡崎三奉行(三河三奉行)」と呼ばれる行政機構を組織しました。
そして、高力清長、本多重次、天野康景の3人を指名し民政や訴訟に対応させます。この中で高力清長は仏高力として温順で慈悲深い性格で領民に慕われ、本多重次は短気ながら道理を通すとして鬼作左と呼ばれ、天野康景は偏らない公平な判断を下すとして天野三兵とあだ名され、それぞれに慕われました。
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五カ国領有期の花形徳川四天王
徳川家康は、今川氏や武田氏との抗争に勝利し、三河、遠江、駿河を領有します。さらに本能寺の変後のドサクサで織田家が領有していた甲斐と信濃の両国を分捕ると五カ国を領有する大大名に成長しました。
この中で頭角を現したのが、本多忠勝、榊原康政、鳥居元忠、大久保忠世の武功派で、しばらく遅れてここに井伊直政も加わります。
徳川家が急拡大するなかで、特に功績が大きかったのは、本多忠勝、榊原康政、井伊直政の3名で、ここに東三河を指揮する徳川家筆頭酒井忠次を加えて徳川四天王と呼びます。
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火花散らす謀臣 本多正信、大久保忠隣
組織ではありませんが、権謀術数渦巻く戦国時代、家康に様々な計略を献策したのが、本多正信と大久保忠隣です。本多正信は異色の経歴の持ち主で、家康が敵対勢力や三河一向一揆と戦った三州錯乱の時期に、酒井忠尚に味方して家康の敵に回り、その後出奔して本能寺の変の後まで消息が不明になります。
その後、家康に許されて参謀になると頭角を現し、相模玉縄1万石の大名に取り立てられました。大久保忠隣は武将であった大久保忠世の子でしたが、家康が幕府を開いて大御所となり、秀忠が2代将軍になった頃から本多正信との抗争が激化。キリシタン禁圧のために江戸を離れた所を突如罷免され領地を没収、近江で死去しています。これは政争で本多正信に敗れたからのようです。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は徳川家康を支える三河家臣団について簡単に解説してみました。Kawausoは石川数正が豊臣秀吉に引き抜かれた事は知っていましたが、どうして家康は一家臣が秀吉についた位で驚いたのだろうと不思議でしたが、数正が西三河の領主を束ね軍団の指揮権を持つ徳川筆頭だと知って納得しました。
長年西三河を統治し、徳川の事情を知り尽くしていた数正の出奔は、秀吉に徳川の手の内を見せる事に等しいので家康にとっては痛恨事だったのですね。
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