「家康の家系」風雲松平三代!覇王清康、没落した広忠を経て桶狭間から40年で天下人になった家康の家系を紹介

07/06/2022


野望を持ち始めた徳川家康

 

祖父、子、孫、戦国大名三世代を巡る飽くなき野望を解説するシリーズ。今回は松平(まつだいら)氏です。三河の大名だった松平氏は、初代清康(きよやす)、二代広忠(ひろただ)、三代家康(いえやす)と続き、家康が最終的に天下を取ったのは周知の事実。

 

しかし家康の前の清康、広忠の時代はどのような足跡をたどったのでしょうか?詳しく解説します。

 

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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新田源氏の支流らしき松平氏

三河国

 

松平氏の起源は不明なことが多く、確定できないことが多いです。京都加茂神社を代々祀っている加茂(かも)氏の分家もしくは熊野三山信仰とかかわりのある鈴木(すずき)氏であるとされるのが有力です。

 

仁田忠常

 

また松平家初代の親氏(ちかうじ)新田源氏(にったげんじ)系の分家世良田(せらた)氏の子孫で、得川(えがわ)氏を名乗っていたとか。ただし後の時代での松平清康や徳川家康が家系を粉飾したという説が有力です。

 

親氏は、加茂氏(又は在原氏)の血筋を引くという土地の領主松平重信(まつだいらしげのぶ)の婿養子となりました。松平氏としての記録がはっきり残されているのが親氏の子又は孫とされる3代目の松平信光(まつだいらのぶみつ)三葉葵(みつばあおい)の家紋も信光の時代から使用し始めました。

 

徳川家家紋

 

また信光は、室町幕府の政所執事の役職にあった伊勢貞親(いせさだちか)に仕えたとあります。3代信光から7代清康までの間の松平氏は三河国各地に分家が増え、のちに十八松平(じゅうはちまつだいら)と称される一族となっています。その中でも4代親忠が興した安祥松平家(あんしょうまつだいらけ)が頭角を現し、やがて清康の時代を迎えます。

 

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はじめての戦国時代

 

 

父に代わり祖父長親の命令で12歳で当主となる清康

名古屋城

 

松平宗家6代に当たる松平信忠(まつだいらのぶただ)の嫡男として生まれた清康の家督はその立場上確実なものでしたが、その家督相続は予想よりも早く1523(大永(だいえい)5)年のこと。信忠は早期隠居させられ、当時12歳で清康が家督を継ぎました。

 

この背景に信忠の当主としての手腕の問題がありました。信忠が家督を継いだとき、5代当主であった松平長親(まつだいらながちか)は健在で、実権も握っていました。信忠の時代に駿河遠江の今川(いまがわ)氏が攻めてきましたが、これを守り抜いたのも信忠ではなく長親の力によるもの。

 

幕末_密室政治(軍議)

 

そのようなことで長親と他の松平一門が、相談し、能力の乏しい信忠ではなくその子、清康に後を託すことになりました。その結果信忠はあっさりと清康に家督を譲ると、隠居の立場として清康を助けました。

 

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三河を支配し尾張織田氏を攻めるも森山崩れで暗殺

戦国時代の合戦シーン(兵士モブ用)

 

家督を譲り受けた清康は、一門の期待通りの活躍を見せます。最初に岡崎城を拠点とした西郷信貞(さいごうのぶさだ)を屈服させると新しく岡崎城を建て、そこを拠点に西三河を支配していきます。

 

表向きの守護である三河吉良(みかわきら)氏に対抗するために、源氏系統の新田(にった)氏の分家、世良田姓に目をつけると世良田次郎三郎(せらだじろうさぶろう)と名乗ります。その一方で三河の完全支配をもくろんでおり、勢力を拡大させます。清康はやがて東三河にも勢力を伸ばし三河牧野(みかわまきの)氏を攻略しました。

 

ここは家康の時代も重要拠点だった吉田城があった場所です。こうして一部を除いて東三河の国人衆(こくじんしゅう)を手中に収め、三河の国を実効支配しました。清康はさらに、東の尾張(おわり)にも目をつけます。

 

織田信秀(おだのぶひで)は信長のお父さん

 

尾張には織田家がいましたが、北の美濃には斎藤道三がいて、非常に苦戦を強いられていました。ここへ清康は8000の兵力をもって侵攻、織田信秀(おだのぶひで)の弟・信光(のぶみつ)を攻撃します。

 

ところがここで想定外の事態が発生します。家臣の阿部正豊(あべまさとよ)が突然清康に切りかかり殺害。わずか25歳の若さで命を落とします。

 

幕末 臨終のシーン 亡くなる(死)モブ

 

これは森山崩(もりやまくず)れとよばれるもの。直接の原因は父・阿部定吉(あべさだよし)が織田信秀に内通して謀反を企んでいるうわさから、清康に粛清されると恐れていたことです。さらに清康が父を成敗したと勘違いしたからとか。

 

暗殺の背景には、先代の信忠の時代から宗家(そうけ)と対立していた清康から見て叔父にあたる松平信定(まつだいらのぶさだ)の妻が織田信秀の姉妹だったことから、両者の連携によるものとされています。清康の亡骸は岡崎に運ぶ途中に腐敗が激しく、途中、西尾市の観音寺で仮に祀られたとか。

 

そのほか、余談ですが伝承として清康殺害に用いた刀は「千子村正(せんじむらまさ)」で、江戸時代に徳川を切った刀として江戸時代には妖刀扱いになっています。

 

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織田信長スペシャル

 

 

叔父に家督を奪われ今川義元の後見を受けて当主となる広忠

松平広忠

 

清康の突然の死によって、10歳の時に松平家の家督を継いだのが広忠です。しかし、ここで松平宗家の家督を狙うものが一門の中に居ました。それは大叔父にあたる信定です。

 

先々代の信忠の人望は非常に薄く、当時は信忠の弟、信定に家督という話が出たほどでしたが、信忠の子清康が跡を継ぎます。一時はその清康に従っていましたが、ことあるたびに家督を狙っていました。

 

清康に協力的でなかったことから、清康が激怒し周囲がいる中で面責を受け、そのことを逆恨み。織田信秀を通じて清康を殺害したとの説もあるほど。清康殺害時に出陣をしなかった信定は即座に宗家の岡崎城を占領しました。広忠は家臣とともに、伊勢に逃れます。

 

今川義元

 

ここで広忠とその一派は駿河の大大名今川義元(いまがわよしもと)の支持を取り付け、岡崎奪還に向けて動き出します。その結果広忠派が勢力を挽回し、信定は岡崎から離脱、広忠が岡崎に入り正式に家督を継いでいます。

 

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武田信玄

 

 

今川義元に支配され操り人形となる広忠

若い頃の徳川家康(松平元康)

 

今川義元の指示を受けて松平家の家督を継いだ広忠は、西にいた尾張の織田との戦いに明け暮れます。1547(天文(てんぶん)16)年には、織田信秀が三河に侵攻し、信秀の軍門に降ると、嫡男の竹千代(たけちよ)(家康)が織田家の人質となりました。

 

参勤交代

 

その2年後には、織田信広(おだのぶひろ)が今川勢に捕縛され、竹千代との交換が行われ、岡崎に戻ってきます。こうして実質的に今川氏の勢力下におかれながらかろうじて独立を保っていた状態でした。

 

一向一揆(農民)

 

広忠の死は1549(天文8)年とされ、病死説と岩松八弥(いわまつはちや)に殺害された、あるいは一揆により殺害されたものなどがあります。23歳の若さでした。

 

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三国同盟を潰したあの男

 

 

今川氏の人質となるも桶狭間で運が開ける家康

徳川家康

 

家康は、竹千代の時代から織田、今川の人質となり、広忠の死後家督を継ぐことができず、岡崎には今川の城代が置かれます。竹千代は駿府(すんぷ)に移されたまま過ごすことになり、墓参りの時でも岡崎城の本丸に入れない状況。

 

義元の元で元服し、松平元信(まつだいらもとのぶ)、後に元康(もとやす)を名乗ります。家督を継ぐことになっていましたが、実質的には今川の家臣団の一員として初陣を飾る状態でした。独立の機会が訪れたのは桶狭間(おけはざま)の戦い。

 

若き頃の織田信長に敗れる今川義元

 

今川家臣団の一員として出陣した元康は義元が織田信長(おだのぶなが)により殺害されたタイミングで三河の岡崎城をめざします。今川方の城代が危機を感じて撤退していたのも功を奏し、見事に松平家の独立を果たしました。

 

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47都道府県戦国時代

 

 

信長と結び秀吉の死を待って関ケ原で勝利する家康

衆道? 井伊直政と徳川家康

 

三河の岡崎城を奪還した松平元康(後に家康)は、織田信長と同盟を結ぶと、今川への攻撃を開始します。東側からの攻撃がないことを利用し、三河と遠江を少しずつ攻略し、徐々に東に勢力を広げます。

 

武田信玄により今川氏が滅びると、領地を拡大しつつ武田(たけだ)氏と対立して戦います。同時に家康は三河守護職を手に入れるべく朝廷に工作をして、祖父清康が名乗った世良田次郎三郎を利用し、新田源氏得川氏の末裔であるとして、徳川と姓を改めます。

 

朝廷(天皇)

 

こうして大名として確実に勢力を伸ばした家康は、信長により滅ぼされた武田氏の旧領、本能寺(ほんのうじ)の変で信長が死んだタイミングでさらなる領地を手に入れ大大名となります。

 

羽柴秀吉(はしばひでよし)との戦いも有利に進めた家康は、秀吉に従うも大勢力を保ったまま秀吉の命令で関東地方が与えられ、関八州(かんはっしゅう)の支配者となります。

 

6時間で決着がついた関ヶ原の戦い(石田三成)

 

秀吉の死の後に起こった関ケ原(せきがはら)の戦いでは、西軍の石田三成(いしだみつなり)を破り、名実とともに天下人となった家康は1603(慶長(けいちょう)8)年に征夷大将軍となり、江戸幕府を開きます。

 

江戸城

 

このとき将軍家と、尾張、紀伊、水戸の御三家を除いた一門には、元々の姓である松平を名乗らせました。

 

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松平三代の有力家臣

軍議(日本史)モブb

 

松平三代の有力家臣は次の通りです。

 

初代:清康の家臣 岡崎五人衆(おかざきごにんしゅう)天野貞有(あまのていゆう)石川忠輔(いしかわ ただすけ)植村新六(うえむらしんろくろう)内藤義清(ないとうよしきよ)林藤助(はやしとうすけ)

二代:広忠の家臣 阿部正勝(あべまさかつ)大久保忠俊(おおくぼただとし)八国甚六郎(はちこくじんろくろう)大久保新八郎(おおくぼしんぱちろう)成瀬又太郎(なるせまたたろう)大原左近右衛門(おおはらさこんえもん)・林藤助

三代:家康の家臣 徳川四天王(とくがわしてんのう)酒井忠次(さかいただつぐ)本多忠勝(ほんだただかつ)榊原康政(さかきばらやすまさ)井伊直政(いいなおまさ)

米津常春(よねきつつねはる)高木清秀(たかぎきよひで)内藤正成(ないとうまさなり)大久保忠世(おおくぼただよ)大久保忠佐(おおくぼただすけ)蜂屋貞次(はちやさだつぐ)鳥居元忠(とりいもとただ)鳥居忠広(とりいただひろ)渡辺守綱(わたなべもりつな)平岩親吉(ひらいわちかよし)服部正成(はっとりまさなり)松平康忠(まつだいらやすただ)(以上、徳川十六神将)

 

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250年の江戸時代を築き現在も続く

大政奉還した徳川慶喜

 

江戸幕府を開いた家康は、子の2代将軍秀忠(ひでただ)以降、徳川将軍家が続きます。8代の時に将軍家が途絶え、紀州から吉宗(よしむね)を迎えましたが、御三家から15代慶喜(よしのぶ)まで将軍家が続きました。慶喜の大政奉還(たいせいほうかん)により、将軍の地位から静岡藩主となります。

 

日本史01 煙を吐く工場

 

慶喜の跡を継いだのは十六代家達(いえさと)で、田安(たやす)家から宗家を継ぎ静岡藩、貴族院議長などを歴任。十七代目は家正(いえまさ)で、同じく貴族院議長などを務めました。十八代は現当主の恒孝(つねなり)氏で、会津松平家から徳川宗家の養子となりました。

 

さらに十九代を継ぐ予定となっているのは家広(いえひろ)氏です。

 

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ガンバレ徳川

 

 

戦国時代ライターSoyokazeの独り言

soyokaze(ライター)

 

松平氏は三河を中心とした勢力で徐々に勢力を伸ばしていましたが、清康の時代に戦国大名として急拡大しました。ところが家臣により殺害される不幸がありました。

 

その後を継いだ広忠、さらにその後を継ぐ家康の初期は非常に厳しい時代、それでも家康は用心深く少しずつ勢力を拡大し最終的に天下を取った苦労人。徳川250年の太平の世を築きました。

 

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北条政子

 

 

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