天皇と延暦寺
延暦寺と天皇は密接な関係があります。平安時代から江戸時代まで都のあった京の北東の位置に存在しているため、天皇や皇族の参拝は頻繁にありました。
そして延暦寺の住職である天台座主には天皇に近い法親王が就任します。彼らは妙法院、青蓮院、三千院という天台寺院の門跡(皇族の子弟らが入り、法統を伝えている寺院)を経由する機会が多いです。
これは当時の天台座主が太政官による任命制度役職だったことも関係しました。実際に確認すると257代続いている天台座主の内118名が皇族出身の親王です。ちなみに天皇の子でありながら親王宣下を受けていない人物がこれとは別に存在します。
信長の焼き討ちのときの天台座主・覚恕についても後奈良天皇の子でありながら親王宣下を受けていないので、厳密には親王とカウントされていません。それだけ天皇家とかかわりある延暦寺は。
現在も御修法と呼ばれる儀式があり、これは天皇陛下の御衣を預かり、天台座主以下17名の高僧により「玉体安穏」、「天下泰平」、「万民豊楽」といった祈祷が行われます。
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万人恐怖に焼かれた比叡山
日本仏教の聖地として政治権力にも力を持っていた延暦寺は、織田信長が禁断の焼き討ちをしたというイメージが強いです。ところがその前に延暦寺と真っ向から戦った存在が居ました。それは室町幕府6代将軍・足利義教です。
彼の治世は13年ほどですが、「万人恐怖」と称されるほどの暴君でした。そして最後は赤松教康により暗殺されます。彼が将軍を継ぐ前は出家しており、義円の名前で天台座主を務めています。父・義持の死後に6代将軍を継ぎました。
当初は元々トップに属していた延暦寺に対して、弟を天台座主に据えるなど取り込みを図ります。延暦寺の山徒による度重なる武将への断行訴訟が続き、ついには寺門派の園城寺を勝手に焼き討ちしたことから対立。
園城寺の僧兵と共に比叡山を囲みましたが、いったん和睦します。しかし今度は義教呪詛のうわさが流れ、ついに延暦寺と激突。近江守護に銘じて物資の流入を止め、抵抗した延暦寺の上洛を武力で阻止。山麓の坂本に火をつけるなど圧力を強めます。
いったん和睦の動きがあったものの、双方が納得しておりません。ついに1435年に延暦寺の根本中塔が焼かれます。ただしこれは義教の兵で焼かれたのではなく、延暦寺代表の山門使節4人の首をはねたことによる抗議のための行動。24人の山徒が焼身自殺する騒ぎに発展しました。
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細川政元にも焼かれる比叡山
さて、足利幕府6代将軍義教との対立により一度焼かれた比叡山延暦寺。信長の焼き討ちの前にまた別の人物に焼かれました。それは細川政元です。
彼の属する細川家は将軍に次ぐ管領という職を継ぐ一門です。父・勝元が起こした応仁の乱により、戦国の世となりながらも、その乱を終結させた政元。ところが10代将軍が足利義稙になったことに不満を持ちます。
そして11代将軍として足利義澄を擁立し、幕府内部が再び対立しました。明応の政変と呼ばれるこの事件。京から追放された義稙は、奪還すべく越後守護代の神保長誠を頼ります。そして北陸の守護大名の支持を得て、再び京に向けて上洛作戦を開始。
ここで延暦寺が支持を表明しました。このことで焦った政元は、延暦寺と対立しつつ様子を見ました。「やむを得ぬ。延暦寺を焼こう」1499年になって焼き討ちを命じます。7月11日に比叡山に攻め入ると根本中塔をはじめとする主要伽藍を焼いていきます。
実はこの戦いでは北陸方面だけでなく、河内にいた畠山尚順が政元打倒に動いていました。このとき近江・河内と挟み撃ちの危機に瀕した政元が、比叡山を焼き討ちした結果、活路が見いだされ、畠山軍を撃破。危機を脱しました。
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織田信長の焼き討ちでトドメを刺される
すでに武将に2度焼き討ちに会い、平安・鎌倉のほどの力がないとはいえ、まだ潜在的な能力を持っていた比叡山延暦寺。その勢いを完全に破壊したのが織田信長です。
前回の焼き討ちから70年後のこと。当時の信長は15代将軍足利義昭を将軍に擁立してから幕府の実権を握っていました。それに不満を持つ義昭が全国に大名に檄を飛ばし、石山本願寺や朝倉、浅井など諸大名が反信長として立ちはだかります。いわゆる信長包囲網が構築されていました。
それでも信長軍は強く対立する敵を次々と撃破します。しかし浅井朝倉の連合軍は、苦戦すると比叡山に逃げ込み、信長軍の追撃をかわしました。比叡山を隠れ蓑にゲリラ的に信長軍を苦しめます。信長はついに焼き討ちを決意しました。
「比叡山を無力化せよ!」このときの信長の決断はそれまでの主要伽藍の焼き討ちではなく、徹底的な破壊を意味します。これは軍事拠点としての延暦寺を完全に消滅させることでした。延暦寺は金を用意して攻撃中止を懇願。しかし信長は追い返し、9月2日に総攻撃を開始しました。
子供を含めた山中にいたあらゆる存在の首を切ったとの記録が残っています。その数は少ないもので1500名、多い記録では4000名が死にました。
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再建された比叡山のその後
織田信長の焼き討ちで行われた「無力化」という徹底的な破壊活動。軍事拠点はおろか、宗教施設としてもその存亡に大きなダメージを受けた延暦寺。天台座主の覚恕はこのとき京都の朝廷にいたために、難を逃れました。
しかし責任を取って天台座主を辞任します。このとき甲斐の武田信玄を頼り、延暦寺の身延山移転を計画しましたが叶いませんでした。
信長存命のうちは何もできませんでしたが、本能寺の変で信長が倒れると、正親町天皇が復興に尽力。しばらく空位だった天台座主に青蓮院尊朝が補任されます。
信長の後に権力者となった秀吉、家康は延暦寺の復興を手助けし、焼かれた僧坊が次々と再建。象徴ともいえる根本中塔は徳川家光が再建しました。また天台宗の僧であった天海は江戸の鬼門の位置に東叡山寛永寺を作るなど天台宗としての復興が進められます。
しかし中世のころのような政治的権威は復活しませんでした。朝廷から任命という意味での天台座主は明治4年で消滅。しかし私称として1885年から復活しました。その後1987年には開創1200年を記念し、比叡山宗教サミットを開催。
世界中の宗教指導者が集い平和の祈りがささげられました。これは33年経過した2020年も「平和の祈りの集い」として行われています。
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まとめ:戦国時代ライターSoyokazeの独り言
平安初期に最澄が開いた延暦寺は、現在の主要宗派の宗祖のほとんどが最初に学びを得た場所ということもあり、日本仏教界には無くてはならない存在です。
しかし宗教的権威は時の政治権力を脅かすほどの力を持ってしまい、歴史的な権力者が一目置きました。そして戦国時代になり武力が延暦寺の権威をも上回り、最終的に信長により完全破壊。
後に復興したもののかつての権威は無くなりました。しかしそれは本来の宗教施設の姿。平和の祈りをささげる場所として現在も今日の鬼門の方角に鎮座します。
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