今回は筆者の戦国時代の推しの一人である、細川幽斎こと細川藤孝殿をご紹介しましょう。えー、この人を一言で言うなら「全方位優れたチート人物」です。
逸話も端から端まで凄いことこの上ないのですが、やはり一点だけ選ぶとするならば「芸」の部分でしょうか。芸は身を助く、とは言うけれど、本当にそれを体現してしまった方。それが辞世の句までに溢れている人物ですので、ぜひ知って頂ければと思います。
この記事の目次
生まれからして一級品だった(かもしれない)細川藤孝
さて細川藤孝、生まれから凄いことになっている人です。その父親は和泉守護細川元有の子であり、母方の叔父に養子となった三淵晴員。ですが幼い頃にこれまた養子として、細川家嫡子となっていた伯父に養子に出されて和泉守護細川家当主として育てられることとなりました。
……しかし、そんな藤孝、実は大きな声では言えませんが将軍様の落とし種という説があります。この後出てきますが、細川藤孝が将軍家のために粉骨砕身したのは腹違いの兄弟たちのためだった……という可能性もあるのですね。
貧困の中で将軍を守り抜いた姿
そんな細川藤孝は、13代将軍・足利義輝に仕えていたのですが、この義輝が松永久秀らに暗殺されるという大事件が起こりました。ここで藤孝は我が子(後の細川忠興)を置き去りにしてまで、義輝の弟である足利義昭を助けて流浪の日々を過ごし、灯の油にすら困るほどの生活の中で必死に義昭を将軍として擁立するために頑張ります。
その途中、朝倉家にいた明智光秀と友誼を結び、彼を仲介に織田信長と接近。こうして見事、細川藤孝は足利義昭を15代目将軍することができたのです。
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将軍から織田信長へ ~時勢を見定める~
しかしご存知、織田信長と足利義昭の関係は悪化の一途を辿ります。そしてこの時、既に藤孝の心は将軍家から離れ、織田家に近付いていました。細川藤孝は将軍の動向を密かに信長に伝え、最終的には織田家家臣の一人となるのでした。
尚、この時に信長の薦めで細川藤孝の息子・細川忠興と、明智光秀の娘・玉の縁談が行われていたりなどしています。
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明智の謀反、豊臣へ鞍替え、ついでに刺されかけた息子
そんな親戚付き合いのあった明智光秀、謀反を起こします。ここで「一緒に戦おうよ!」と言われても「ケースバイケースで」とか答えられちゃうのが細川藤孝という人物。
光秀の要請拒否、自分は出家して「幽斎玄旨」と名乗って隠居。ここで娘婿の一色義定が光秀に組してしまったので、後に謀殺。夫を実家に殺された娘はこれを恨んで兄・忠興に襲い掛かって顔に傷を付けるなどの一幕を経て、今度は豊臣秀吉と仲良く……しつつ徳川家康とも仲良くしちゃったりする細川藤孝。とにかく時勢を見極めることに長けている人物です。
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関ヶ原の戦い、絶体絶命の細川藤孝は……
ここで始まる関ヶ原の戦い、居城である田辺城を守ることになった細川藤孝。手勢は僅か500人ほど。そこに迫る西軍の数はなんと、15,000!もはやこれまで、という城を枕に討ち死覚悟の細川藤孝の戦いが始まります。
が。
実際に戦いが始まると、実は西軍にいたのは藤孝の弟子たちが多く、彼らは師を攻撃できなかったのでした。更に山を背に建てた田辺城は攻めにくく、士気も高い田辺城は中々落ちません。そしてとんでもないとこにこの戦況が伝わります。
細川藤孝……辞世の句……?
動いたのは藤孝の弟子の一人、八条宮智仁親王。実は細川藤孝は古今伝授という、勅撰和歌集「古今和歌集」の秘伝解釈を伝えられた伝承者であり、継承者でした。そんな大事な人物を失えない!と朝廷から停戦要請が出されます。しかし細川藤孝これを「城を枕に討死覚悟です」と断り、「古へも今も変はらぬ世の中に心の種を残す言の葉」という歌を添え、古今集証明状を智仁親王に、源氏抄と二十一代和歌集を朝廷に献上。この覚悟から、これを細川藤孝辞世の句として取り扱っても良いとしましょうか。意味合いとしては昔も今も変わらない世に、心の思いを言葉が残してくれる……という、弟子への最期の思いを伝える歌といった所でしょう。
これぞ正に「芸は身を助く」の体現者
智仁親王、これに大慌てして兄である後陽成天皇に頼み、正式な勅使による無血開城命令が出されました。長い年月あっても、天皇から勅使を出されて無血開城するなんて前代未聞ではないでしょうか。
また前述したようにここでは多くの西軍が足止めされる形となり、この功績を徳川家康に称えられて細川家は豊前小倉を治める大名として、そしてその後も現代までその家を残すこととなります。
辞世の句を詠んだは良いものの勅使で開城、その後は功績を称えられ悠々自適に隠居生活をするなど、細川藤孝はどこまで先を見通していたのでしょうか。かくして細川藤孝、辞世の句詠んで大勝利の回。これにて終幕でございます。
戦国ひよこライター センのひとりごと
まあまあ見直しても驚きびっくり感嘆のため息が漏れてくる細川藤孝の人生。本気で死ぬ気だったから歌を詠んだのになぜか助かっちゃった……というのも面白いですし、ここで生き残ることを狙って気合を入れて歌を詠んだら戦争終わって勝った、というのも細川藤孝的で面白いかもしれません。
何にせよ戦国時代の最大級の勝ち組、細川藤孝とその辞世の句(?)でした。ちゃぽーん。