元フィギュアスケート選手織田信成さん。彼は戦国の風雲児織田信長の子孫だと言われています。しかし一口に織田信長の子孫と言っても明治維新後まで生き残った織田信長の子孫は、それこそ何万人といます。織田信成さんは信長からみて、どれぐらい近い子孫なのでしょうか?
この記事の目次
家系図によると織田信長七男
織田信成さんは家系図によると信長の七男、織田信高が直接の先祖にあたるのだそうです。この織田信高は、天正4年(1576年)生まれ、生母は信長の側室、興雲院とされています。
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織田信高のその後
織田信高は本能寺の変後、氏家行広に預けられて養育され、その後、甥の織田信秀が羽柴姓を与えられた時に豊臣秀吉に仕えて天正19年(1591年)に近江国神崎郡山上内に1060石を与えられて羽柴姓を許され羽柴藤十郎と称しました。その後、文禄4年(1595年)愛知郡にて1000石を加増されて2060石となります。その後、信高は弟の信吉と西軍に味方、一度は領地を没収されたようです。慶長7年(1603年)信高は28歳で死去。墓地は、京都の大徳寺総見院にあります。
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織田高重の時代、二千石の旗本になる
信高の死後は嫡男高重が生後間もなく家督を相続します。そして元和2年(1606年)1月、駿府にて徳川家康に拝謁した際に従五位下・美作守を与えられました。家康は大勢の拝謁者の中に、木瓜の家紋をつけた高重に目をとめ、信長の孫という説明を受けて官位を与えたそうで最終的には二千石の旗本に取り立てを受けています。
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織田信門の時代に高家となる
織田高重の孫にあたる織田信門は、元禄元年(1688年)に高家旗本に昇進し、以後、幕末まで織田家は戦国以来の名門武家として幕府に仕えました。信門は元禄2年(1689年)に高家職に就任し従五位下侍従・美作守に叙任、後に従四位上に昇進しました。
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織田信真以後、系図には空白が
織田信高から数えて9代目となる織田信真は天保13年(1842年)に誕生します。安政2年(1855年)に家督を相続し、文久3年(1863年)14代将軍徳川家茂にお目見えを果たしますが、幕府は大政奉還により崩壊。しばらく俸禄は安堵されますが、その後秩禄処分を受けたので信真は明治9年(1876年)9月、新橋門前町から上野池之端に移り、横山松三郎の通天楼を改築して写真館を開きました。しかし、この後、織田信真の子孫についての記録はありません。
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織田信長の子孫を自称したのは織田信成の父
実は織田信長の子孫を自称しはじめたのは、信成さんの父である織田信義氏であるようです。家系図ではすでに解説した通り、明治維新後に織田信真が写真技師になってより先の事が分からず、2代か3代の空白が存在しています。この部分が埋まらない限りは、織田信成さんが織田信長の子孫であると100%証明する事は出来ないでしょう。
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日本史ライターkawausoの独り言
話を簡単にまとめると、織田信成さんの直接の先祖は織田信長の七男、織田信高で、関ケ原の戦い以後は、徳川家で二千石の旗本として明治維新を迎えたという事が出来ます。ただ、明治維新後に写真技師になった織田信真については、その後の系図が不明なため、本当に織田信成さんが織田信真に繋がっているかは不明です。そのため、現時点では信成さんは自称、織田信長の子孫というのが事実に近いと思われます。
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